top of page

【フローニンゲンからの便り】17802-17805:2025年12月2日(火)


ree

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「加藤ゼミナール─ 大人のための探究と実践の週末大学院 ─」も毎週土曜日に開講しております。


タイトル一覧

17802

複数の編曲者による楽譜を学ぶことの意義

17803

今朝方の夢

17804

今朝方の夢の振り返り

17805

華厳経と法華経の比較

17802. 複数の編曲者による楽譜を学ぶことの意義  

     

今年のクリスマスプレゼントにクラシックギターの演奏を楽しむための楽譜を一括注文しよう思っている。楽譜を吟味しながら、同じ楽曲であっても複数の編曲者による楽譜を学ぶことには、音楽的発達において極めて大きな意義があると考えていた。クラシックギターは単旋律と和音、内声の動き、ベースラインをすべて一人で担う楽器であり、演奏者は常に作曲家の意図と編曲者の解釈、その両方の世界を読み取る必要がある。ゆえに、ひとつの楽曲を一人の編曲者の視点だけで理解すると、その楽曲の潜在的な構造や表現可能性を十分に掴めない場合がある。同じ原曲を複数の編曲者がどのように解釈し、どのような指使い、和声付け、声部処理を施しているかを比較していくことは、演奏者の音楽的視野を飛躍的に広げることにつながるだろう。まず、複数の編曲を学ぶ最大の意義は、楽曲の「隠れた構造」を把握しやすくなる点にあると思われる。編曲者はそれぞれ異なる音楽的嗜好、技術的観点、そして解釈哲学を持っている。ある編曲は原曲の旋律美を最大限に強調し、他の編曲は内声の流れやベースラインの躍動を重視し、また別の編曲者は和声を大胆に再構築して近代的な響きを生み出すことがある。その多様な編曲を比較することで、原曲が本来持っている複数の側面を立体的に理解することができる。つまり、異なる編曲は単に「別のバージョン」ではなく、原曲の構造を照らす複数のスポットライトのような働きをしてくれるのである。次に、技術的観点からも複数編曲の学習は価値が大きいと考えられる。編曲者によって運指は大きく異なり、音色の選択、アポヤンドとアルアイレの使い分け、弦の選択などは同じ楽曲でも劇的に変化する。例えば、ある編曲は弦の開放音を多用して軽やかな響きを追求している一方、別の編曲は開放弦を避け、あえて押弦を多くして厚みのある音を作り出している場合がある。これらを比較することで、同じ表現目的でも複数のアプローチが可能であることを学び、演奏者自身の技術的レパートリーが自然と拡大していく。結果として、即興編曲や自由な解釈を行う際に応用できる技法が蓄積される。また、編曲者ごとの美意識を学ぶことは、演奏者自身の音楽的個性を育む助けになると考えられる。音楽解釈においては「何を残し、何を省くか」「どの声部に重心を置くか」「どのような音色で一つのフレーズを彩るか」という選択が常に伴う。複数の編曲を学ぶことは、他者の判断基準を追体験し、自分の価値観と比較検討する絶好の機会になる。これは料理で例えるなら、同じ食材を異なるシェフがどう扱うかを観察するようなものであり、学習者はその違いを味わうことで、自分の中に多様な「調理法」を蓄積していく。最終的には、こうした他者の美意識の吸収と統合が、自分自身の独自の音楽観を育てる基礎となる。さらに、複数編曲の学習は将来の即興編曲能力にも直結すると考えられる。即興編曲とは、限られた時間の中で和声、旋律、内声、ベースラインの扱いを瞬時に再構成する行為であるが、このためには膨大な編曲パターンの引き出しが必要である。様々な編曲者が提示する「声部の捉え方」「和声処理」「リズムの揺らぎ」「テクスチャーの構築法」を吸収しておくことは、そのまま即興時のパレットを豊かにすることにつながる。即興において創造性が発揮されるのは、無から何かを生み出すのではなく、多様な過去の学びがその場で再構成されるときである。よって、複数の編曲を比較して学ぶ行為そのものが、即興編曲演奏のための最良の訓練となると言える。総じて、同じ楽曲を異なる編曲者から学ぶことは、技術、理解、音楽観、創造性のすべてを深化させる学習法である。多様な編曲に触れることは、音楽の地形図をより多層に理解することに等しく、その蓄積が将来の自由自在な表現の土台となるのである。そうした意味付けができたので、心置きなく楽譜を購入したい。フローニンゲン:2025/12/2(火)05:46


17803. 今朝方の夢 

       

今朝方は夢の中で、かつて住んでいた実家の社宅にいた。そのリビングで、父が執筆しようとしている小説のプロットに対して母と一緒にフィードバックをしていた。まず母がプロットが書かれた紙に直接コメントを書き込み始めた。私はそれを傍から見ていて、確かにその箇所は自分もコメントしたいと思っていた箇所だと思った。母が書き込みを終えそれを父に渡すと、父は一旦そこまでのフィードバックをもとにプロットを修正すると述べ、自分の部屋に戻った。私もついていき、部屋の中で父に「自分からのフィードバックは夕食後に一時間ほど口頭で伝える形でどう?」と尋ねたら、父はそれを承諾した。父の机を見ると、それが自分がかつて使っていた机だったので驚いた。自分がかつて読んでいた辞書や辞典などを活用しながら小説の構想を練るにはうってつけのようだったので、引き続きかつての自分の机を父に使ってもらおうと思った。私の方でフィードバックしたかったのは、小説に登場する自分の悩みに関するものだ。父は小説の中で自分が学術研究と経済的な収入についての折り合いで悩んでいるような描写をしていたが、それは正確ではなく、現在の自分の深層的な課題は実存的・霊的なものだったので、そこを修正してもらうようにお願いした。


次に覚えているのは、見慣れない立派なホテルの一室で、三人のモデルのような端正の顔立ちをした女性たちと人生双六をしていた場面である。その双六は小さなボードではなく、実際に自分たちが足でマスを踏んでいくような大掛かりなものだった。おそらく双六は他の部屋や廊下にまで張り巡らされ、ホテル中が双六と化していたと思うが、私たちがまず熱中していたのは部屋の中にある双六盤だった。私たちは始終笑いが絶えない形で双六を楽しんだ。最後の一人が上がるのと同じタイミングで自分も上がり、双六を終えると、ロビーに用事があることを思い出し、一階に降りることにした。エレベーターホールでエレベーターを待っていると、早速一台やって来た。ドアが開いた瞬間に驚いたのは、そのエレベーターがまるでクーラーボックスのように小さかったことである。実際に中は小さな冷蔵庫のような作りになっていた。すると小中学校時代のある友人(KS)がやって来て、彼と一緒にその小さなエレベーターに乗って一階に行くことにした。二人で体を丸めながらようやくエレベーターの中に入ることができ、ちょうど自分の頭の上に開閉と指定の階を決めるボタンがあったので、自分で操作をすることにした。いざ動き始めると、下ではなくまず上に向かい、そこから下に降りることになった。上に行ってもこの状態だともう誰も乗れないだろうと思って上の階に到着すると、幸いにも誰も残ってこず、このままの状態で一気に一階まで降りて行ければと思った。フローニンゲン:2025/12/2(火)06:00


17804. 今朝方の夢の振り返り 

         

今朝方の夢は、まず旧い社宅という懐かしい空間から始まっているが、これはおそらく自分の内側に沈殿している「原点」あるいは「内的な始点」を象徴しているように思われる。そこには父母が登場し、二人が父の小説に対して真剣なフィードバックを行っているところが印象的である。夢の構造として、親が創造行為に取り組み、自分がそこに参与するという流れは、自分の精神的な源流や家系的内面性と、自分自身の現在の創造的探究とが深層で対話していることを示唆するようである。母が書き込む箇所が、自分もコメントしたいと思っていた点で一致していた場面は、自分の内面の「批評性」と母の性質が重なり、ある種の内的統合が進んでいることの象徴とも見なせる。父の部屋へ向かう場面で、自分がかつて使っていた机が父の机になっていたという驚きは、「過去の自分の知的基盤が、今度は父=内的権威へと再利用されている」という象徴的な反転であるように思われる。辞典や辞書というイメージは、知識の源泉、言語の根を示し、父がそれらを用いて小説を練るという状況は、「自分の過去の学びが、親世代の象徴=内的権威に影響を与え始めている」という無意識的な構図を映している可能性がある。ここには、自分がもはや“受け取る側”ではなく、“渡していく側”に移行しつつある発達的な段階の気配が感じられる。また、父の小説が自分の悩みを取り扱いながらも、学術研究と収入の折り合いといった外的な問題に焦点をあてていたのを訂正してもらう場面は、深層にある真の課題――実存的・霊的な問い――が、ようやく意識の表面に浮上してきていることの反映であると思われる。自分がその修正を求めるという行為は、外的成功や生活の問題を超えて、「自分は何のために生きているのか」「存在とは何か」というより深いテーマへと意識が向かっている可能性を象徴している。場面は突如、ホテルの一室へと移行するが、この“ホテル”という場所は自分の心的世界における“旅の途中の仮住まい”を示しているようである。その中で三人のモデルのような女性と人生双六を楽しむ場面は、人生の可能性の多様さ、選択肢の広がり、そして遊戯性が象徴されていると考えられる。三人の女性は、おそらく「自分の中のまだ使われていない潜在的な側面」あるいは「異なる未来の分岐」を表しているのではないか。双六が部屋だけでなくホテル全体に広がっているという描写は、自分の人生そのものが巨大な盤面になっており、その中を歩みながらさまざまな局面に触れている最中であることを暗示する。そして、笑いが絶えないという雰囲気は、人生の探究が本質的には“苦行”ではなく、“遊びとしての存在”という仏教的・霊的視点に近い味わいをもつことを示唆しているようである。エレベーターの場面は特に象徴的である。非常に小さな冷蔵庫のようなエレベーターに、自分と小中学校時代の友人が身をかがめて乗り込む描写は、「過去の記憶」「少年期の自分」への回帰、あるいは「成長の道程で取り残された心理的部分」との再会を象徴しているように思われる。狭い空間に二人で入り込む姿は、自分が長年封じ込めてきた何かを丁寧に抱え直す行為とも読み取れる。また、下に行こうとしているのに、まず上へと向かってから下降するという動きは、無意識の象徴的言語としては非常に特徴的である。「成長の下降」はしばしば“深層世界への潜行”を意味するが、それに先立って、上昇=視野の拡大、霊的な高みへの一瞬の接触が必要であるという内的メッセージが込められている可能性がある。上階で誰も乗ってこなかったことは、「今、この探究の旅路において他者の介在は不要であり、自分自身と過去の自分だけで進む段階である」という象徴に読める。この夢全体は、「過去と現在の統合」「家系的内面性と自分の霊的探究の接続」「遊戯としての人生の再発見」「深層への下降に先立つ霊的な上昇」というテーマを同時に描いているように思われる。とりわけ、自分の真の課題が実存・霊性にあると自分自身で認め、物語を書き換えるように父に申し出る場面は、これから向かうべき方向を象徴的に示しているようである。すなわち、自分の人生は外的課題の解決を越えて、より深い存在の核心へ向かおうとしており、その道のりは遊びのような軽やかさと、幼き自分との再会によって支えられているということなのだろう。フローニンゲン:2025/12/2(火)07:31


17805. 華厳経と法華経の比較 

         

認識論や存在論という観点から比較すると、華厳経の方がより体系的かつ哲学的な深度を備えていると評価されやすい傾向があると言える。これは法華経が主として「救済の普遍性」や「仏の威神力・方便」を強調する物語構造を持つのに対し、華厳経は「世界の存在構造そのもの」を可視化しようとする壮大な試みを中心に据えているためである。法華経は、全ての衆生が成仏可能であるという「一仏乗」の思想に重心が置かれる。ここでは仏の教えが衆生の能力に応じて巧みに説かれるという方便思想が重要であり、世界の存在構造そのものを緻密に描くというよりは、「仏の教化のダイナミズム」を中心に展開される。したがって、法華経は存在論というより「救済論的枠組み」に強みを持つ経典であるとも言える。一方、華厳経は、世界そのものの構造を「法界縁起」「事事無碍」という形で徹底的に描こうとする独自の方向性を持つ。ここでは、存在の根底が「法界」と呼ばれる相互依存的で多層的なネットワークとして提示され、その中で個物がどのように成立し、どのように他者と関係し、どのように相即相入するのかが詳細に論じられる。華厳経が哲学的に高く評価されるのは、この存在論的モデルが極めて壮大で緻密だからである。認識論の観点から見ても、華厳経は「認識主体と客体が本質的に絡み合って成立する」という点を強調する。例えば「六相円融」や「重々無尽」の思想は、単なる形而上学ではなく、認識論的洞察を含む構造であり、世界と心が相互に浸透し合う認識のあり方を示唆している。これは後代の唯識思想や東アジア仏教哲学に決定的な影響を与えた。これに対して、法華経の認識論は比較的シンプルである。法華経は認識構造そのものよりも、「仏は衆生をどう導くか」という教化の視点に重きが置かれるため、認識成立のメカニズムを精緻に解剖するという方向には向かわない。もちろん法華経にも深い象徴性や哲学的示唆は見られるが、それは世界構造や認識構造の分析というより、「仏の真意を理解することの重要性」を繰り返し説く形で現れる。存在論的にも、法華経は「法身仏としての大乗仏教世界」を提示するが、その世界構造は象徴的・実践的であり、華厳経が示すような多層的で緻密な「宇宙的存在モデル」には至らない。言い換えれば、法華経の存在論は「仏の働きを中心に再構成された世界観」であり、華厳経の存在論は「存在そのものの基底を解明する試み」である。このように比較すると、認識論・存在論の豊かさという観点では華厳経の方が圧倒的に哲学的であり、多層的な構造を示すと言えるだろう。華厳経の「事事無碍法界」は、個々の存在を孤立したものとしてではなく、相互浸透する重層的ネットワークとして捉え、しかもそれぞれが全体性を映し出していると喝破する。その壮大さと精緻さは、仏教思想全体の中でも特に際立っている。もっとも、これは法華経の価値を貶めるものではない。法華経は「救済の普遍性」=人間の可能性の最大限の肯定を中心に据えた実践的な経典であり、その意味では存在論ではなく「主体変容の経典」として最高峰である。総合的に見れば、認識論・存在論を中心に評価するなら華厳経が圧倒的であり、精神変容・救済論を中心に評価するなら法華経が卓越している。どちらが豊かかという問いは、どの哲学的レンズで読むかによって答えが変わるとも言えるが、存在構造の精緻さという一点では、華厳経の方がより豊穣で深い教えを内包していると考えられる。フローニンゲン:2025/12/2(火)15:13


Today’s Letter

Music plays the role of an antidote to cognitive defilements. The more I focus on playing the classical guitar, the more purified my cognition becomes. Groningen, 12/2/2025

 
 
 

コメント


bottom of page