top of page

3571. 文脈思考能力の欠落


時刻は七時半を迎えた。つい先ほど夕食を摂り終え、これから一日を締めくくる最後の活動に従事していく。

今日もよく書き、よく作り、よく読む一日であった。特に、日記を書くことと作曲実践を行うことを旺盛に行い、その休憩として書物を読むことを行っていた。

このように、書物を読むこと以上に、自分の内側から何かを創造していくことを優先させることが大切だ。もちろん、これからも他者が執筆した書籍を読み続けていく。それは他者との交流の意味を持つ。

一方で、書物を読むことを自分で何かを生み出すこと以上に優先させてはならない。とにかく作り続けること。

自分の内側にある言葉の形を待つもの、曲としての形を待つものに形を与えていくこと。それをこれからも最優先にしていく。

夕食を摂り終えてふと、芸術が作り手の固有のリアリティを開示するものであるならば、それにより、自らのリアリティを共有することを通じて、他者や社会への何かしらの関与を果たすことができるかもしれないと考えていた。

関与の形は非常に形而上学的なものかもしれず、それは目に見えるものではないかもしれない。しかし、集合的な治癒と変容に資するような芸術というものがありそうであり、それがどのような条件によって生み出されるのかを探究していこうと思う。

相変わらず小雨が降っている。通りを走る車が水しぶきを上げて走り去っていく。

明日からは一週間ほど天気が良さそうなので何よりだ。明日は久しぶりに太陽の光を浴びることができるだろう。

夕食を摂りながら、現代社会において、多くの人は何かと科学的な発見事項を盲目的に信じ込む傾向があるが、それは文脈思考能力が脆弱だからではないかと思った。

科学的な発見事項というのは、それが実験を伴うものであればなおさら、実験という特殊な文脈によって結果が影響を受ける。もちろん科学者は、あれこれと手を打ちながら、できるだけ現実世界に近い状況設定を実験に持たせようとするが、それが現実世界と完全に一致することはない。

つまり、科学的な発見事項は、設定される実験の文脈に大きく依存しており、発見事項が即現実世界に当てはまるとは限らないのである。それにもかかわらず、多くの人たちは科学的な発見事項を即座に信じる傾向がある。

そして、これは当然ながら、科学的な発見事項に限らず、他者の意見も含めた多くの事柄に当てはまる。ある発見事項や意見を鵜呑みにしてしまう思考形態は多分に線形的であり、そこに多様な文脈を考慮するような余地は見られない。

多様な文脈を念頭に置きながら事象を捉えられるようになるのは、発達心理学者のスザンヌ・クック=グロイターやケン・ウィルバーの発達モデルを用いれば、相対主義的段階の思考能力が要求されるが、現代社会の多くの人たちがこうした思考能力を獲得できる日が本当にやってくるのだろうかと疑問に思ってしまう。フローニンゲン:2018/12/23(日)19:50

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page