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3559. 充実感と幸福感のその先


今日もまた、自分の人生のある一日が充実感と幸福感に包まれる形で終わりに向かっている。いや、ここ最近の私は、もはや充実感と幸福感という感覚を超越し、それら二つが混ぜ合わさったような感覚の中で日々を過ごしている気がする。

そうした感覚をなんと呼べばいいのか今の私には「まだ」わからない。まだわからないというだけであって、そうした感覚が自己の内側に生じていることに気づけた瞬間に、その感覚にふさわしい言葉がいつか降ってくるだろう。

先ほど入浴をしている最中も、その感覚について考えていた。それについて考えていると、よく分からないが自然と笑いが込み上げてきた。

笑みを浮かべながら私は、充実感と幸福感が混じり合った感覚に包まれる形でそれについて考えていた。こうした感覚を発見できた瞬間に、もしかしたら私は自分の内側に宿る内在神ないしは仏性に目覚めたのかもしれないと思った。

時々私は、自分はどのように生涯を閉じるのかについて考えることがある。端的にはいかように死ぬかという話である。

人生はいついかなる瞬間も何が起こるのかわからないが、私は120歳か130歳あたりに、ある日あまりにも面白い現象に出くわし、大笑いした瞬間につまづいてしまったり、肋骨が折れてしまったりすることがきっかけになってこの世を去っていくのではないかと考えることがある。

あるいは、人生そのものがやはり冗談であったということ、ないしはあまりに真剣な冗談であったことに気づいた瞬間に大きな笑いがもたらされ、その拍子に足を滑らせたりするか何かして、生涯を閉じていくように思えることがある。

今日も入浴中にそのようなことを思っていた。入浴中に面白い気づきや考えが降ってくることはよくあることであり、それが今の自己を超越していく運動を伴うものであればあるほど、その気づきや考えが内包する笑いは大きくなる。

浴槽でそうした笑いに囚われて、足を滑らせてしまうことは今の年齢でも危険であるから、今後は少々気をつける必要がある。そうしたことを改めて考えていた。

今日は半年ぶりに人に会って話をした。北欧諸国に留学中の東京大学の学生が、今日はわざわざフローニンゲンに足を運んでくれ、街のレストランとカフェで五時間ほど話をした。

インドネシア料理、イタリアン、ベトナム料理に関して行きつけの店があり、今日は私がよく足を運ぶインドネシア料理店で昼食を摂り、その後、フローニンゲン大学のメインキャンパス近くのカフェで話をした。

彼女と私はおそらく、干支がひとまわりぐらい離れていると思うが、五時間の会話はとても楽しく感じられた。カフェが五時半あたりで閉まることがなければ、もっと話をしていたように思う。

彼女は私と同じく教育に関心を持っており、彼女の話の中には、考えさせられることが多々あり、それらについては今後の日記の中で形を変えて書き綴っていくことになるだろう。彼女との会話、インドネシア料理店の気さくな店長とのやり取り、店で注文待ちをしていたオランダ人の男性との会話、カフェの店員とのちょっとしたやり取り、帰りに立ち寄ったチーズ屋の店主との会話、そうした諸々の会話が、幸福感の塊であるように思えるのは何らおかしなことではないだろう。

チーズ屋からの帰り道、運河に浮かぶ何艘もの船が、クリスマスのイルミネーションに飾られ、様々な色の光を発していた。やはり人間の人生は光であり、冗談なのだと思う。

それに気づけた時、人生というものが実は光と冗談を超えたものであることがわかるだろう。そのようなことを思いながら、イルミネーションに飾られた船を眺め、そして暗闇の中を歩いて自宅に戻った。フローニンゲン:2018/12/21(金)20:12

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