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3502. 暮れゆく美しい夕日を眺めながら


時刻は午後の四時を迎えつつある。この季節のこの時間帯はもう夕暮れ時である。

今、太陽が沈みゆく姿をぼんやりと眺めている。こうした光景を眺められることはここ数日間なかったため、とても貴重なことのように感じる。

そもそも、太陽の光を浴びたのは久しぶりであったから、それに対しても喜びを感じる。これから日照時間がどんどん短くなっていくため、太陽の光を浴びれる時はその恩恵をできるだけ授かろうと思う。

家の中にいても、カーテンを開ければ光を十分に浴びることができる。これからは光がより一層貴重になる季節になるだろう。

太陽が沈む位置も、例えば数ヶ月前と比べてみると、随分と東寄りになっている気がする。こうした方向感覚が正しいのかわからないが、以前であれば、もっと西の空の方向に太陽が沈んでいたはずである。

それが今となっては、書斎の窓からちょうどまっすぐの地点に太陽が沈んでいく姿を見ることができる。本当にそれは今私が座っているところからまっすぐの地点だ。

フローニンゲン上空を覆っている雲がどんどん晴れていく姿を今眺めている。太陽が沈む空の上には最初から雲がほとんどないようであるが、今私がいる町の上空は雲が空を覆っている。

それが今どんどんと晴れていく姿が見える。それを祝ってか、今上空に数多くのカモメが飛んでいる。優雅に空を行ったり来たりするカモメをぼんやりと眺め、晴れていく空の向こう側の世界に思いを馳せている。

今日は本当に、「晴れ」というごく有り触れた出来事が、どれほど恵みに溢れたものかを噛み締めることができた。単に天気が晴れているというだけのことなのだが、それがとても祝福に満ちたものに思えて仕方なかったのである。

夕暮れ時に、こうして雲が晴れていく様子を眺めることも多大な至福さもたらす。雲が夕日に照らされる色も、どこか至福さを体現しているように見えてくる。

今日の午後に集中的に座禅をしようと思って座ったところ、これまでよりは短く、結局三時間ほどの座禅となった。それ以上、座ることを望まない自分がいたため、そこで座ることをやめ、再び日常の活動に戻った。

三時間の座禅中、それなりに意識が深まっていたが、大きな気づきや発見が得られたかというとそうでもない。強いて挙げるとするならば、気づきや発見を求めて座ることの愚かさぐらいだろうか。

とはいえ、身体感覚としてはこの生に対する絶対的な肯定感があったことは確かだ。また、細かな気づきや発見があったことも確かであるが、それはとても雑多なことであり、形而下の日常生活におけるちょっとした気がかりのようなものに関することだった。

そうした気がかりはそもそも仮初めのものであり、囚われることも馬鹿馬鹿しいのだが、一応立ち止まってそれらと向かい、そこに囚われない形で日常を生きていくのが賢明だろう。

今、フローニンゲンの上空から雨雲が完全に消えた。残っている雲は雨を降らせるような雲ではなく、どこかとても優しそうな雲である。

明日は天気が良いようなので、散歩がてら買い物に出かけようと思う。フローニンゲン:2018/12/9(日)16:03

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