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3226. 自らの資質への問い


今日はゆりかごに揺られているような秋の穏やかな土曜日だと感じる。木漏れ日が差す午後のひとときに、散歩がてら行きつけのチーズ屋に向かった。

このチーズ屋はフローニンゲンの街の中心部にある。そこに向かうまでの道中、私の意識は随分と瞑想的であったように思う。

昨日までのボストン旅行によって、意識が瞑想的な状態になり、その意識状態がまだ続いているかのようである。フローニンゲンの街並みを新たな眼で味わうかのように、ゆっくりと散歩をしていた。

今日は土曜日ということもあってか、チーズ屋には客が多く、いつもは二人の店主のうち一人が店を切り盛りしているのだが、今日は二人の店主が共にいた。いつものようにナッツ類とチーズを購入し、店主と少しばかり雑談をした。店主との何気ないやり取りによって、自分の心がさらに安らいだことに気づく。

チーズ屋からの帰り道、過去七年間に及ぶ自らの探究のあり方を再度振り返っていた。端的には、これまでの七年間の探究を根底から見直す必要に迫られているように思う。

今回ボストンに足を運び、ハーバード大学の教授たちと面談できたことは非常に大きな意味を持っており、彼らの仕事に対する姿勢には打たれるものがあった。それは研究と学生の教育の双方においてである。

チーズ屋からの帰り道、自分はつくづく研究者でも教育者でもないということを考えていた。一言で述べれば、自分には研究や教育に携わる資質はないのだと思う。

それらの資質は涵養可能なものであるが、私の資質はそれらの領域にないように思えてくる。確かに来年から再び大学院に戻るつもりではあるが、それは研究者になりたいがための決断ではなく、自ら率先して深めたいと思う関心事項があり、学術機関の中でそれを真に深めていくことができると判断したからである。

大学に所属する形で研究や教育をすることに自分は向いておらず、そのような資質がないことは自分がよく知っている。そうした資質を高めていくことが可能であっても、それに従事することは自分にとっては拷問のようであり、自らの人生を無駄にしているように思えてくる。

ではいったい自分は何に対して資質を持っているのだろうか、と考えさせられていた。やはり創ることなのだろう。

あるいは、一人の人間として真に生きて行く過程を何かしらの表現手段を通じて形にしていくこと。そこに自分の資質のようなものをかろうじて見出すことができる。

今、その表現手段になっているのは日記の執筆であり、作曲だ。この世界の中で生き、この世界に関与する過程の中で考えたことや感じたことを、文章と曲の形として残しておくということ。

おそらく自分にできるのはそれしかないのだということが見えてくる。学者として論文や書籍を執筆し、教授として学生に教えられる資質は自分にはない。そうした知性は自分にはないし、率先して高めるつもりもない。

だが、自らの人生を真に生きること、及びその過程を文章や曲という表現手段で形に残していくということに関してだけは、何かしらの資質があるかもしれないと思う。

欧米での生活も七年目に突入して少しばかりの時間が経った。七年の歳月をかけて見えてきたのはそのようなことであった。

自らの人生を生き、それを形に残しておくこと。それはこれからも一生涯続いていく自分の営みであり、それが自分の人生そのものだと言えるだろう。フローニンゲン:2018/10/6(土)17:05

No.1338: An Autumn Wind

I can see an autumn wind from the window.

I’ll start to read Nelson Goodman’s “Language of Art (1976).” Groningen, 15:29, Monday, 10/22/2018

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

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