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3136. 徴兵教育からの脱却


今朝も静かな朝がやってきた。今朝は六時前に起床し、六時半を迎える頃に一日の活動を始めた。

今日も読み、書き、作ることに主眼を当てた一日になるだろう。午前中に一件ほどオンラインミーティングがあり、午後からは町の市役所に行く必要がある。市役所に立ち寄る目的は、今年オランダに滞在する許可証を受け取りに行くためだ。

昨日、今月末に訪問するハーバード大学教育大学院の二人の教授から、私が聴講するクラスのシラバスを送っていただけた。シラバスの中身を確認すると、取り上げられるトピック及び文献が大変興味深いものであり、今の自分の関心と強く合致していることが私をひどく興奮させた。

こうした興奮を味わっている自分を見るにつけ、学ぶことの中に純粋な喜びを見出していることがわかる。一生涯を通じて学びを継続させていくためには、学びの中に内在している喜びに気づき、それを常に感じながら学びを行っていく必要がある。

本当に自分を深めてくれる学びは、やはり内発的な動機や感情に基づくものなのだ。そして、学びに伴う内発的な動機や感情を育んでいくことが、教育の大切な役割になるだろう。

この点において、現代の教育はやはり失敗に終わっているように思う。一体どれほどの人たちが、成人になってからも学びに伴う純粋な喜びをもとに学習を継続しているだろうか。その数は極めて少ないように思う。

先日の日記の中でシュタイナーの教育思想について言及したように、継続的な自己教育は自己を深めていくための非常に重要な要素になる。こうした継続的な自己教育が現代の成人の多くに欠如してしまっているのはとても嘆かわしい事態のように思える。

これは昨夜ふと考えていたことと関係しているだろう。現代の教育は、いつの間にやら企業社会へのリクルーティング(徴兵)のためのものに成り果ててしまっている。

企業に就職して金を稼ぎ、就職するために良い大学に行くという目的が、現代の教育の影のアジェンダとして強く存在している。そうした形での教育に飼い慣らされていると、自分独自の学びというものを見失ってしまうだろう。

なぜなら、現代の企業社会と学校社会は、「単一測定主義」とでも形容できるような発想が蔓延しているからである。あるいはこれは、GDPという単一の測定尺度を用いて国家を評価しようとする傾向を見れば、国の次元でも蔓延している発想だと言えるかもしれない。

企業社会においては、売上や利益といった単一的な指標が重視され、学校社会においては、テストの点数という単一的な指標が重視される。しかもそれらの社会では、そうした単一的な指標の数値を最大化することが至上命題となっている。

ひとたびこうした発想に絡めとられると、本来複雑かつ多様な特性を持つものが極度に単純化された形で認識されてしまう。個人の次元では、それはまさに自分の学びの特性を見失うという症状として現れる。

この症状を患うと、学びの喜びなどもはや感じられなくなってしまう。なぜなら、本来学びの喜びとは、自分固有の関心を発見し、その関心に沿った探究をするときに芽生えるものであり、上記の症状は自分固有の関心を発見することから自分の目をそらす力学を持っているからである。

子供にとっては、学ぶことの喜びを十分に感じられる教育、そして学びに伴う喜びを発見できる感性を養っていく教育が必要になるであろうし、成人にとっては喪失したそれらの感性を取り戻すことを最優先に、それを一生涯かけて育んでいくような教育が必要になるだろう。

そのようなことを昨夜ぼんやりと考えていた。フローニンゲン:2018/9/18(火)07:00 

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