top of page

3115. 真の問題解決を可能にする知性


今日は一日中曇り空が広がっていたが、どことなく新たな季節の到来を祝福しているかのような雰囲気があった。それはとても静かな雰囲気であり、落ち着きを持ったものだった。

時刻は午後の七時半に近づいてきている。時折吹くそよ風が街路樹の葉を小刻みに揺らしている。それに呼応して、自分の魂が小刻みなダンスをしているかのようだ。

外側の世界と内側の世界の深いつながりがここのところよく知覚される。そのつながりに敏感になればなるほどに、自分の魂の声がより鮮明に聞こえてくるかのようだ。

その声は優しさを持ちながら、同時に本質的な厳しさも持ち合わせている。いや、それは優しさや厳しさという側面を超えて、自己を支え続け、励まし続ける存在だとみなした方がいいかもしれない。今日も自分の魂が絶えず自己を支え、励まし続けてくれたことに感謝の念を持つ。

先ほど入浴中に、個別的な問題解決に向かってはならず、問題が生じる根本要因を生み出す問題そのものの解決を行うことの大切さに気付かされた。人は目の前に問題が立ち現れた時、その問題を解こうとし、解ければそれに満足をする。

そうした問題解決は真の問題解決につながらないのではないかと最近よく思う。企業社会においては、そうした問題解決を専門にする人たちがいるが、結局彼らが行っていることは、個別問題の解決であり、そもそもそうした個別問題を生じさせる根本的な問題構造にまで踏み込むことはしないように思える。

もしそうしたことを行っているのであれば、遥か以前に彼らの仕事はなくなっているはずなのだ。個別問題を解き続けるという専門職が依然として存在し続けていることの背景には、問題解決を専門とする人たちですら、結局真の意味での問題解決に乗り出していないことが一つ大きな理由に挙げられるように思われる。

いわばそこで行なわれている問題解決は、発達論的に言えば、モダニスト的な、合理主義的段階による問題解決の域を超えないのだと思う。より高次元な段階における問題解決は、個別問題を生み出しているより大きな根本問題の探究と解決に乗り出していくはずだ。

この点については自分も十分に気をつけなければならない。とりわけ人間発達や教育に関する問題解決において、合理主義的段階の発想による問題解決に乗り出していてはならない。

それは確かに個別問題を解決してくれるが、そうした問題を生み出している真の要因を解決してくれるものではないため、結局同種の問題が何度も生起する。真の要因を解決するためには、それこそ多数の視点を考慮することを最低限とし、それらの視点が生み出される究極的な一つの——あるいは限りなく少数の——視点そのものにアプローチをしていくことが不可欠だろう。

合理主義的段階の次に来るポストモダニスト的な発想の特徴は、無数の視点を考慮することが可能なことであるが、ケン・ウィルバーの言葉で言えば、その病理的な側面は、「多数の視点に対する麻痺」というものが挙げられる。

ポストモダニスト的な発想すらも超え、多数の視点に麻痺することなく問題解決に乗り出していくためには、本当にたくましい知性が必要になるのだと改めて思わされる。フローニンゲン:2018/9/12(水)19:41 

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page