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2869. 三つ目の修士号を取得して


早朝からいくつか日記を書き留めたことにより、ようやく一日の活動を開始する準備が整ってきたことを感じる。時刻は午前八時を過ぎ、辺りにも通勤や通学に向かう人たちの姿が増えてきた。

昨夜、論文アドバイザーをこの一年間務めてくださったミヒャエル・ツショル教授から連絡があった。先日提出した論文の評価が出たそうだ。フローニンゲン大学の成績評価の厳しさについては以前にも書き留めていたように思う。それは論文の評価に対しても等しく当てはまる。

昨年の論文は7.5の評価を得ることができ、今年は8だった。9以上の評価を得ることは本当に稀であり、私の中では今回の論文は8か8.5のどちらかだろうと思っていたので想定内の評価だった。

正直なところ論文の評価は全く取るに足らないものであり、何はともあれ最終評価を昨夜無事に受け取れたことに安堵している。これをもって欧米の大学院で取得する三つ目の修士課程を修了した。

フローニンゲン大学の二年目のプログラムでは、最後の最後に論文の再提出を要求される事態に見舞われたため、一年目のプログラムよりも長く感じられた。この二年間において随分と学術的な事柄が鍛錬されたように思う。

この鍛錬は他の領域のそれと同様に終わりはないのだが、今は学術的な領域で鍛錬を積むことそのものの意味を問い直している。この一年間学術機関に所属しないのはそのためであるし、博士課程に進学しないのもそのためだ。

今、芸術教育と霊性教育を探究するために米国のある大学院への進学を考えているが、それも修士課程である。大学教授になるということに一切の関心がなく、自分にはその他に仕事があるため、博士課程に進学するのは本当に明確な研究テーマを持ってからにしたい。

それこそ、40代や50代になってから思想関連の探究をするために博士課程に進学するかもしれない、と最近考えている。確かに私は修士号を三つ取得したが、学位の数などどうでもいいのである。

修士号がゼロであろうが三つであろうが四つであろうが関係なく、自分が学びたいと思うことを探究し続けることが重要なのだと思う。私の場合は偶然、自らの探究領域の学びを深めるためにはある大学院の修士課程に所属せざるをえなかったというだけである。

自ら探究を深めていけるのであれば大学院などに所属する必要は一切ないのだ。以前から述べているように、学術機関には歓迎して語られるものとそうではないもの、ある意味抑圧されている探究領域というものが存在している。

仮に自分が後者の領域を探究するのであれば、なおさら学術機関に所属することの意味は薄れる。三つ目の修士課程を終える直前になってよく思っていたのは、ある学術機関に所属して得られる学びが真の教育であるならば、その教育を受けた後には必ず学術機関から離れることになるだろう、ということだった。

学術機関に所属して学びを得るというのは、ある意味自己と学術機関が師弟関係を結ぶようなものである。その学術機関が自分に真の教育と鍛錬を施してくれたのであれば、師である学術機関を乗り越えることができるはずである。

仮にその学術機関を乗り越えることができなければ、そこには無能な師と無能な弟子がいたということを示唆する。この二年間、フローニンゲン大学が極めて優れた教育を私に提供してくれたことに感謝をしたい。

そのおかげで学術機関から距離を置くことができたのだ。仮に来年以降にまた学術機関に所属することになっても同様のことが起こるような気がしている。

今はただ、無事に三つ目の修士号を取得できたことを祝福してもいいだろう。今年一年間は学術機関に所属することはせず、自らの探究に一人で取り組んでいく。この一年はまた自分にとってかけがえのないものになるだろう。フローニンゲン:2018/7/20(金)08:41

No.1150: Morning in Stockholm

The second day to stay in Stockholm began.

It was raining in the early morning, but it stopped now, which seems to encourage me to go sightseeing.

I’ll spend a precious day with a sense of fulfillment. Stockholm, 08:15, Sunday, 8/26/2018

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