今朝は昨日のように空一面が雲に覆われているのではなく、部分的に雲がある。早朝の七時において雲がまばらに存在しているが、これから少しずつ雲が晴れていくらしい。
今日の最高気温は22度であり、とても過ごしやすいと言える。昼前に近所のノーダープラントソン公園へランニングに出かけようと思う。
今朝の目覚めの瞬間には小鳥の鳴き声が聞こえていたが、今はそれが聞こえない。風は昨日よりも緩やかで、微風がフローニンゲンの街をゆっくりと通り過ぎていく。
今日はこれから作曲実践に取り掛かりたいと思う。まずは過去に作った二曲を編集することに着手する。その際に、いつもの通り、曲を聴きながら喚起される内的感覚をデッサンとして形にしておく。
これが習慣となったことによって、音を他の感覚に変換して捉える力がついてきたように思う。とりわけ、「音色」と呼ばれるものが本当に視覚的な色として徐々に捉えられるようになってきている。
もちろん、ここで言っている視覚的というのは肉眼で見られる色というよりも、心眼で捉えられるような色のことを指す。私たちの心の眼にはいつも様々な色が映っているが、なかなか私たちはそれを知覚することはできない。
なぜなら、そうした感覚が鈍化してしまっていたり、未開発であるからだ。心眼に映る豊かな色を知覚するためには、失われた感覚を取り戻すこと、あるいはそれを開発していくという姿勢が求められる。
今私が日々行っているデッサンはその一つの手段だろう。このデッサンを始めたのは、それを行う必然的な要求と促しがあったためであり、音色を知覚する感覚を回復させることや開発することは副産物のようなものであった。今はその副産物に気づくことができ、その効果を実感しているため、これからもデッサンの習慣を継続させていきたいと思う。
二曲の編集を終えた後に作曲する曲は、モーツァルトの曲に範を求めようと思う。モーツァルトが6歳の時に作った曲から参考にし始め、今ようやくモーツァルトが22歳の時に作った曲まで辿り着いた。
この頃の曲になると、6歳の頃の曲と比べて随分と構造的な発展が見られる。だが一方で、6歳の頃から見られていたような曲の魂のようなものは普遍なのではないかと思う。人はこれを「モーツアルトらしさ」と呼ぶかもしれない。
そうしたモーツアルトらしさはやはり幼少期の頃の曲にすでに顕現されている。そのような光景を目の当たりにしてみると、やはり魂の性質自体は幼少期に形作られるものなのだということがわかる。
モーツァルトの曲に範を求めた後に少しばかり読書をし、過去の日記をいくつか編集していると昼食前のランニングの時間を迎えるだろう。今日の午前中はそのような形で過ごしていこうと思う。フローニンゲン:2018/7/11(水)07:11