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2807. 色鉛筆と日本のそば


たった今、予定通りに色鉛筆を削り終えた。鉛筆を削っている最中、とても瞑想的な意識状態になった。

すると、一本一本の色鉛筆がどこか愛しいものに思えてきた。また、手動の鉛筆削りを発明した人物の功績を讃えたいような気持ちになった。

瞑想的な意識状態の中、削られていく鉛筆の姿を見ていると、あることに気づいた。以前から気付いていたこととして、日々のデッサンで使われる色には傾向と偏りがあるということである。

このことをふと思い出して色鉛筆を再度眺めながら鉛筆を削っていると、白と黒の色鉛筆がほとんど使われていないことに気づいた。特に白に関しては全くと言っていいほど使っていない。

この一ヶ月半の中で白を使ったのは一度ぐらいだったように思う。確かに、白のノートに対してどのように白の色鉛筆を使ったらいいのかという問題もがあるが、もしかすると、内的感覚というものが、いやこの世界そのものが単純に白と黒の二色では表せないような複雑な存在なのではないかと思ったのだ。

世界はもっと多元色なのだ。多彩な色彩を持つこの世界で今日も私は生きている。

何をすることもなしに、何かに没頭しながら何かをして今日という日を過ごしている。鉛筆を削り終えてみると、瞑想的な意識状態から戻り、再び活動に向かう意識の状態となった。

それにしても今朝は幾分寒かった。もう七月に入って一週間を過ぎたというのに、早朝は本当に肌寒かった。そのため書斎の窓を閉めて一日の仕事に取り掛かることにした。

そうした中で、協働執筆中の書籍の原稿で描かれている場面についてふと思い出した。協働執筆者の方が書いた文章の中に、登場人物がそばを食べる場面がある。

その文章を読みながら無性にそばが食べたくなってきたのである。暖かいそばであっても冷たいざるそばであっても構わない。とにかく日本のそばが食べたいという思いに駆られた。

正直なところ、今この瞬間もそばが食べたいと思っている。だが、この街に良いそば屋があるとは到底思えない。アムステルダムやロッテルダムならあるかもしれない。北欧に近いオランダのこの街で日本の夏を想う。

先ほど幾つかの日記を編集し終えた。編集作業にも変動性を加えることが作業の質を高めることに改めて気付く。これまでは一気にまとまった分量の記事を編集するようにしていたが、そうではなくて三つぐらいの記事をひとまとめにして、それらを編集し終えたらウェブサイトに投稿するための写真を眺めることにし、そこから再び三つほどの記事を編集するということを行うようにしたら、随分と集中力を持って編集に当たれることがわかった。

文字だけを見ていてはやはり集中力が途切れてしまう。絵画のような視覚的なものを文章の編集の合間に挿入するだけでも随分と集中力が高まる。日記を書き、書物を読み、画集を眺め、音楽を聴くことがうまく一つの調和のとれたまとまりの中で営まれつつある。

こうしたことが、日々の生活の充実感と幸福感を生み出すことに間違いなく寄与している。今日もこれから複数の感覚を刺激し、一つの統合的な感覚を形成するような諸々の事柄を行き来しながら一日を過ごしていく。フローニンゲン:2018/7/8(日)11:52 

No.1124: The Turquoise Galaxy

It was cloudy in the early morning, but it turned into a sunny sky.

I was just daydreaming about the turquoise galaxy. Groningen, 09:30, Wednesday, 8/15/2018

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