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2802. クリシュナムルティの思想より


日々が、そして人生が水のごとく流れていくのがわかる。古代ギリシャの哲学者タレスが残した「万物の根源は水である」という言葉がふと脳裏をよぎる。そんなことを思わせてくれる早朝だ。

今日もゆっくりと活動を開始し、なすべきことを着実に前に進めていきたいと思う。決して焦ることなく緩やかに物事を進めていく。それが真に深みに至るための唯一の道である。

昨日、この世界には白魔術と黒魔術が存在していて、実際には私たちの誰もがそれらの双方を日頃から知らず知らず活用していることについて考えていた。よくよく考えてみれば——考えてみなくても——これはあまりにも常識的すぎるかもしれない。

というのも、現代社会には魔女狩りが横行しているのだから。この問題についてはまた形を変えて考えることになるだろう。その時に再度文章を書き留めておきたいと思う。

思いついたことがあれば何でもそれを書き留め、そのテーマが自己組織化を行うことを手助けてしていく。一旦外側に文章として形にすれば、あとはそれは自発的に発達運動をし始める。それがテーマの成熟につながっていく。

とにかく文章を書くということの意義はここにある。煮詰まってから文章を書くのでは遅すぎるし、考えがまとまってから文章を書くというのも遅すぎる。何もまとまっていないような状態から文章を書き続けていくことが何よりも大切だ。

昨日、クリシュナムルティの書籍を読んでいたことを昨日の日記に書き留めていたように思う。クリシュナムルティの思想には随分と得るものが多いことが昨日判明した。書籍の中でクリシュナムルティは、解放者の苦難について言及していたことが印象に残っている。

真に何ものにも囚われず、真に自由な人間は社会や他者から危険視されるということ。それがまさに自由人がこの現代社会で被る苦しみだろう。

そうした苦しみからも解放されているのが真の自由人なのだろうか。人間が時代の中で生きなければならないという性質上、何ものにも囚われないはずの自由人ですら時代からの影響をやはり受けるように思う。

ひとたび社会から解放された者が再び別種の苦難を社会から受けるということはとても皮肉なように思える。人は自由になっても、自由でなくても苦難を被る生き物なのかもしれない。

世間には自由であろうとする者が多々存在しているが、自由であろうとすることがそもそも自由ではないことの裏返しであり、そこに自由を求める独特の辛さがある。

一方で、クリシュナムルティが指摘するように、真に自由な人間ですら、社会や他者から危険視されるという苦難を味わう。自由でなくても、自由であっても苦しい世界に私たちは生きているようだ。

開かれた書斎の窓から小鳥の小さな鳴き声が聞こえて来る。それは確かに小鳥の鳴き声なのだが、同時に、時代の呼び声のようにも聞こえて来る。

時代の呼び声の本質を掴まなければならない。そこに上記の問題を乗り越えていく道があるように思えてくる。フローニンゲン:2018/7/8(日)07:42 

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