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2717. 外国語を学ぶ意義と人間発達


雲行きが見る見るうちに怪しくなってきている。午前中には数滴だけ雨が降るような状態が二度ほど訪れた。

今は雨が降っていないが、これは天気予報とは異なって、午後からは少しばかり雨が降るような予感がする。午前中の早い時間帯にエリック・サティの日記を読み終え、その次に発達心理学者のスザンヌ・クック=グロイターの二本の論文を読んだ。

それらは査読付き論文ではないが、一つ目の論文は“Ego Development: Nine Levels of Increasing Embrace (2005)”であり、もう一つは“Comprehensive Language Awareness: A Definition of the Phenomenon and a Review of its Treatment in the Postformal Adult Development Literature (1995)”という論文だ。後者の論文については再読を進めている最中であり、昼食後の今からその続きに取り掛かりたい。

まず午前中に読み終えた前者に関しては、改めて得るものが多かったように思う。新たな観点を得たというよりも、既存の自分の観点をさらに深めてくれることにとても役立ったように感じている。

特に、現在の自分の発達段階について深く内省する機会を与えてくれたことは大きい。これまでの自分の歩みをここで改めて振り返り、ここからまた新たな歩みを進めていくための羅針盤のような役割を果たす論文だと改めて思う。

特に印象に残っているのは、後慣習的段階の発達段階の特性に関する記述を読み返している時に、自分がなぜ突如として作曲実践とデッサンを始めたのかの発達的意味がわかった。端的には、これまでの発達段階の歩みが蓄積されていき、当時の私は、自然言語で意味を造形していくことの限界に間違いなく直面していたのである。

また、自然言語では捕まえきれない内的感覚が無限に自分の内側に存在していることを直感的に把握し、それらを外側に形にするためには自然言語では不可能だということを痛感していた。そこで突如自分の眼の前に現れたのが作曲とデッサンだった。

これら二つの実践方法は共に、音楽言語と絵画言語という異なる言語体系を持つ。自然言語で一度分節されてしまった「その全体世界(このリアリティの全体)」に自らの内的感覚を通じて入っていくためには作曲とデッサンが必要だったのだ。

この気づきが得られたことは自分にとってとても大きかった。それは自分が突如体験した創造活動への目覚めを発達論的に説明する上でも大切であり、同時にこれからそれらの創造活動に積極的に従事していく意味の足がかりを得られたという点においても大切であった。

後者の論文からも本当に得るものが大きい。おそらくこの論文を最初に読んだのは今から六年前のことであり、二読目は三年前に日本に一時帰国していた頃だったと思う。

この論文でも取り上げられているように、言語は世界認識方法に多大な影響を与えるというサピア=ウォーフの仮説について改めて考えていた。私はこの仮説に外国語を学ぶ本質的な意義が隠されているように思う。

自分の言語世界について考えてみると、英語とオランダ語の世界で生活するようになって以降、リアリティの地図が豊穣なものになってきているのを感じる。母国語ではない言語空間の中で生活をし続けてきたことは、自分の内側の主観的な世界と共に外側の客観的な世界の認識を間違いなく深くしている。

多様な言語体験はリアリティの多様な側面に気づかせ、それによって多様なあり方を自己に促す。日本人が外国語を学ぶ意義は、日本語で構築された自己及び自らの世界認識方法を対象化させることにある。

外国語を学ぶことによって外国人とコミュニケーションができることや、ビジネス上何らかの便益があるなどとというのは、人間発達の観点から見れば外国語を学ぶ意義に入らない。外国語を学ぶ意義は、日本語で構築された自らの精神的・文化的制約に気づくことにあり、そこから脱却して意味を構築し始めるようになることだろう。それが外国語を学習する本質だと思う。

しかし残念ながら周りにそのような意識を持って外国語の学習に取り組む人や、外国語を学ぶことによってそうした次元に到達した人を私はほとんど知らない。海外に居住するほとんどの日本人は、身体的には日本の外にあっても、精神的には日本の内にいるのと何ら変わりはないのではないかと思う。それほどまでに日本語という言語空間から自己を解放させることは難しいことなのだ。

日本を離れ、米国で暮らし始めた最初の年の「漱石体験」を思い出す。ロンドンで神経衰弱になった夏目漱石。

この体験については過去の日記で何度か書き留めているように思うため、ここでは繰り返し書かない。言語で自らの存在を規定できなくなり、言語を用いて世界を認識することが困難になった体験。

そこから一年ほど隔週で知り合いのサイコセラピストのもとに通い、少しずつこの体験を消化していったことを思い出す。自然言語を用いて自己を規定することが困難になるというのは、間違いなく実存的危機の一種であるため、そうした経験を多くの人がする必要は全くないと思う。

ただしそうだとしても、日本人の外国語を学ぶ姿勢や国外で暮らす日本人の精神生活の有り様はもう少し真面目に見直されるべきではないだろうか。日本国内でただ異質な言語記号を眺めることや、身体だけ日本の外にあるということに何か意味はあるのだろうか。少なくとも発達的な意味はそこにはない。フローニンゲン:2018/6/17(日)13:04 

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