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2702. オリヴィエ・メシアンの音楽世界と耳の再調律


天気予報の通り、昼食を摂っている最中から急に小雨が降り始めた。食卓の窓に少しずつ雨滴が付着する様子を静かに眺めている。

ゴッホは孤独の中で絵画制作に打ち込んだと言われているが、彼のそばには常に弟のテオがいた。ゴッホとテオとの手紙のやり取りを見れば、どれほど二つの魂が一つであったかがわかるだろう。

弟のテオに向けて手紙を絶えず書いていたゴッホの孤独さについて考える。ゴッホの手紙にはテオという読み手がいた。テオとの対話が手紙を通じてなされていたのである。

毎日四六時中日記として読み手のいない文章を書いている自分についてふと考えてみると、思わず可笑しさがこみ上げてきた。こみ上げてきた可笑しさの後に待っていたのは、それでも日記を書き続けていくという精神であった。

自分には本当にそれしかない。書き続ける中で日々を過ごしていくこと。

冷たそうな雨が静かに降っている。それは激しい雨では決してなく、雨滴が静かに窓ガラスに付着しては消えていく類の雨だ。

昼食を摂りながら、日本の伝統的な音楽を探究するという観点において日本中を旅したいという思いが湧いてきた。それは幾分民族音楽的な旅だと言えるかもしれない。

日本の伝統的な音楽を知るために探究をするのではない。あくまでも曲を作るために探究をしていく。

知るための探究はもうやめにした。今後は作るための探究しかしない。それは作曲だけではなく、その他の実践活動全てにおいて当てはまる。

画家がモデルの肖像画を描くように、人物を音楽として表現していくことも可能なのではないかとふと思う。その人から喚起されるイメージや内的感覚を曲にしていく。人物をスケッチするかのように、はたまた油絵として描くかのように、人物を曲として表現したい。

とにかく表現手段の技術を高めていく。それに合わせて思想も深めていく。技術と思想の双方を絶えず高めていくことに努めること。

それらの深まりは、自己及び人生を深めていくことだと知ってしまった。また、それらが深まりを見せれば見せるほど、この世界への関与も深まることを知ってしまった。

作曲に伴う技術と思想を深めていくことにこれからは一層精進したい。

昼食を摂りながら改めて午前中に調べていた書籍の何を購入するかを考えていた。結局、西洋音楽のコンテクストに基づくオーケストレーション技術に関する専門書を購入することはやめた。

理由は単純であり、交響曲を作ることに一切関心がないことが挙げられる。西洋が産み出した楽器に関してはピアノだけに焦点を絞り、ピアノ曲だけを作っていく。一夫一妻制を頑なに守ろうと思う。

一昨日、入浴中にオリヴィエ・メシアンのピアノ曲を聴いてみることにした。先ほどまでモーツァルトの音楽を聴いていた自分の耳には耐え難いような音楽であったので、すぐに音楽を消して再度モーツァルトの音楽をかけた。

しかし、なぜメシアンの曲があれほどまでに聴くに堪えないものだったのかに対して強い関心を持った。自分の耳が何らかの文化的な影響やこれまでの教育や生活によって慣らされてしまっており、それがゆえにメシアンの曲を聴くに堪えないものだと判断したのであればその判断を一度保留にする必要があると思った。

そうした幾分奇妙な観点からメシアンの音楽に関心を持ち始めた。一体彼がどのような思想と知識を持って作曲していたのかを知るために、メシアンが執筆した書籍の英訳“The Technique of My Musical Language (1956)”を購入することにした。

ピカソの晩年の作品を見てその世界観の深さがすぐにはわからないのと同様に、メシアンの曲にもそうした深さが伴っているように思える。メシアンが生み出す音の深くにあるものを理解するとき、自分の耳は再調律され、自分の内側にまた新たな音楽世界が広がるような気がしている。

結局、西洋楽器を用いたオーケストレーション技術に関する書籍を購入することをやめたので、その代わりに“Composing for Japanese Instruments (2015)”と“Traditional Japanese Music and Musical Instruments (2001)”、そして上記のメシアンの書籍を今日の夕方にでも注文しようと思う。フローニンゲン:2018/6/14(木)13:47 

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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