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2616. 失われゆく真理と叡智


早朝の空を覆っていた雲がどこかに消えている。今はうっすらとした青空が広がっている。

とても穏やかな雰囲気を漂わせている土曜日の午前中。小鳥の鳴き声が辺りにこだましており、時折目の前の道路を車が走り抜けていく。

書斎の窓から外を眺めてみると、犬の散歩をしている人やランニングをしている人の姿を見かける。穏やかな太陽の光りが街路樹を照らし、街路樹は優しい風に揺られている。

未だ眼の開かれぬ眠った人たちは真理など存在しないと述べるかもしれないが、そう述べるのは眼が開かれていないからであって、未だ眠っているからだ。先ほど、失われゆく真理について思いを馳せていた。

真理がこの世界からどんどん失われていく。実際には、真理は常にそこにあるはずなのだが、喪失感が自分の内側に漂う。

この世界は真理を失いつつある。そんな危機感を持っているのは私だけではないだろう。

真理の喪失は、そのまま叡智の喪失につながると言っていいかもしれない。過去の叡智が失われ、まだ見ぬ叡智がないがしろにされてしまっている。現代社会は真理や叡智を持たずしてどこに向かおうとしているのだろうか。

明日明後日あたりに集中して座禅をしようと思い立った。これは本当に突発的なな思いつきであり、同時に重要な思いつきであると言えるかもしれない。「思いつき」というよりもむしろ、何かに促されて私は座ることを決意したように思える。

座禅をしなくなってからしばらくたった。少なくともここ数年間は座禅をしておらず、欧州に来てからは一回も座った記憶がない。

確かに、毎日シャバーサナ瞑想のような形で昼寝をしているが、瞑想実践に関してもここ数年は時間を取って行うことなどなかったように記憶している。それがここにきて突如、座れという促しのようなものがあった。

この現象については説明がつかないため、これ以上語ることをしないが、明日明後日にはこの促しに従う形で久しぶりに座禅をしてみようと思う。どれだけ座るかはわからないが、できるだけ長く座ろうと思う。午前中に諸々のことを済ませ、午後から夜まで落ち着いた形で座ろうと思う。

先日、自分の内側にある内在的かつ刻印された日本人性を触知する経験をした。その日本人性は自分にとってとても大切なものとして知覚された。

その時の体験を思い出しながらデッサンをした。描かれるデッサンを眺めてみていつも驚かされるのは、その多様性だ。

それは内的感覚が多様であるからに他ならず、それが千変万化するような性質を持っているからだ。自分の内側の感覚もしくは心的イメージと呼ばれるものをデッサンするというのは、自分にとってとても実りの多い実践のようだ。

それは気づきの面においてもそうであるし、治癒と変容の面においてもそうだと言える。この実践は引き続き継続させていく。

自分の内側にある日本人性を超えて、誰しもの内側にある普遍性の発見に向けて一歩を踏み出していこうと思う。これはいつもと同じような決意のように思えるが、決意のたびにそこに含まれる意味はより深いものになっていく。新たな意味と新たな行動が何かを開いていくようだ。フローニンゲン:2018/5/26(土)11:04 

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