top of page

2561. 感性の鍛錬


どこからともなく祝福の歌が聞こえてくるかのような一日が始まってからしばらく経つ。時刻は午前九時を迎え、辺りは静かに活動的なエネルギーを表に出し始めた。

今日のフローニンゲンの空は快晴であり、自分の心の空もまた快晴である。雲ひとつない青空がこの街を覆っている。

再び自分の内側の何かが決壊したかのように、書物や論文を貪るように読もうとする自分が生まれた。これからも引き続き文章を書くことに重きを置き続けるだろうが、今からしばらくはまた膨大な量の文献を読んでいきたいと思う。

自覚的な意識がそれをしようと思っているのではなく、意思の及ばない何かが私に書物を読ませるように働きかけている。その促しに逆らうことなく、そこに全てを委ねる。

来月の中旬に論文を提出したら、それを境に、私は再び膨大な量の文献を読むことを行っていきたいと思う。そうした衝動を自分の中に感じる。

昨日に、上の階のピアニストの友人と話したこと、そして小林秀雄の全集を読んだことが大きな刺激となっており、少しばかり言葉を外に出す感覚が麻痺しているように思う。自分の内側にあるものを深めていく際に、こうした刺激というものがいかに大切であり、尊いものかを知る。

仮にそうした刺激によって自分の何かが麻痺したのであれば、それは本当の刺激であったことの証しだろう。昨日得られた刺激については、ゆっくりと咀嚼していけばいい。焦る必要は全くないのである。

今日も旺盛な読書を行い、合わせて作曲実践を積極的に行っていく。作曲実践に関しては、とにかく音楽言語に関する微細な感覚を養っていく。つまるところ、究極的に大切なのはその一点ではないかとすら思えてくる。

作曲に関する知識の拡充は非常に重要であるが、知識を拡充することの土台には感覚の鍛錬があるように思えてくる。感覚が知識に先行し、感覚の深まりが知識の深まりを促していく。何かそのような関係があるように見える。

自分で作曲をする際には、とりわけ感覚を磨くような意識を持つ。ピアニストのその友人が述べていたように、例えば、V-VIの進行が引き起こすちょっとした驚きの感覚、フラットとメイジャーの調が持つ独特の質感などを自分の感覚を通じて掴んでいく。

そうした感覚を自然言語を用いて文章として形にすることやデッサンとして表現することは、音楽的な感覚を他の表現手段によって客体化させることにつながり、自分の内側の感覚がより豊かになっていくだろう。つまり、これから私が意識するべき事柄は、音楽的な感覚を他の感覚に移し替え、その作業を通じて音楽的な感性を養っていくことだ。

音楽的なものを自然言語を通じた言葉にし、視覚的なデッサンとして残していくこと。とりわけそれらの実践を意識したい。

曲、文章、デッサンの全てを分離した実践として扱うのではなく、それらを一緒くたに一つの実践として捉えていく。欧州での三年目の生活は、知性の鍛錬を継続することだけではなく、とりわけ感性の鍛錬に焦点を当てたいと思う。

それを行うことを促されている自分がいる。そのために私は欧州にもう一年残ることになったのだろう。フローニンゲン:2018/5/14(月)09:28

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page