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2300. サン=サーンスの音楽と差異について


今日も夕方の時刻を迎えた。午後六時に近づき、これから夕日が徐々に沈んでいくことになる。フローニンゲンの日照時間は随分と伸びた。

今日は本当に一日中サン=サーンスの曲を聴いていた。特に、ピアノ協奏曲を長く聴いており、その美しさには思わず仕事の手を止めてしまうことがあった。

その時、曲の世界の中に自己を委ねてみようという意思を生み出すような促しをサン=サーンスの音楽の中に感じた。今すぐにではないが、近いうちにサン=サーンスのピアノ曲の楽譜を購入しようと思う。

彼の音楽にも範を求めたいという気持ちが高まっていく。作曲についてはとにかく焦らずに進んでいくことが肝要だ。

音楽院に在籍しているわけでもなく、師についているわけでもない私は、自由に作曲実践を行えるのは確かだが、時に自分の歩みの進度がわからないことがある。そうだとしても、その進度に対して焦る必要はない。

また、自分の現在の作曲技術に過度に絶望しないことも大切だ。とにかく焦らずに、着実に作曲実践を重ねる中で技術を少しずつ涵養していく。

夕暮れにこれから向かっていくフローニンゲンの夕日を眺めながら、そういえば午後の仮眠中に突如として過去の記憶が蘇ってきていたことを思い出した。それは幼少時代に飼っていた金魚とカナヘビの死にまつわる記憶だった。

両生命の死が自分の心と体に巻き付いているような妙な感覚があった。私がなぜ今日の仮眠中にその二つの生き物に関する記憶を思い出したのかはわからない。

だが、二つの生き物の死に直面したという幼い時の体験は、今の私に何か言い尽くせない影響を与えているようなのだ。

昨日は協働者の方との対話を通じて、差異について考えるきっかけを得た。対話の中でそれについて触れたわけではないのだが、対話の後に私の中に浮かんでいたのは差異に関するテーマだった。

これまでの日記で再三書き留めているように、差異は私たちの認識の光が当てられることによって新たな差異を生み出していく。もちろん、私たちが意識しないところで絶えず生み出される差異というものも存在しているが、私たちの認識世界を真に深めてくれるのは、こうした自らの認識を用いることによって発見される差異だけのように思える。

というのも、私たちの自己は一つのダイナミックシステムとして絶えず差異を生み出し続けているのだが、その差異に認識の光が当てられない場合、差異は谷底の往復運動をするだけであり、次の状態に移行して行かないからである。

まさにそれは、システムがアトラクターポイントの前後を行き来するだけであり、その地点に留まっている姿を示している。システム自身が次の状態に移行するためには、差異を次の状態に押し上げていくような実践が必要になる。

その実践の一つがまさに、自らの内側に生じる差異に気づきを与えていくことだと思う。差異に気づきを与えていくという小さな実践の積み重ねが、システム全体を次の状態に導いていく。

そういえば昨年に読んだ論文の中に、このあたりの考えにつながる内容が書かれていたことをふと思い出した。システム内のエントロピーの増大と次の状態にシステムが移行した後にエントロピーが一時的に減少することについて記述された論文だったように思う。フローニンゲン:2018/3/20(火)18:08  

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