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1993. 実感なき実感


昼食を食べながら、食卓の窓越しから外の景色を眺めていた。今日は曇りがちな一日であり、早朝には小雨がぱらついていた。

窓の外から景色を眺めていると、自分は一体日々何をしているのだろうか、という問いが現れた。この問いはとかく珍しいものではなく、頻繁に私のところに訪れる。

生きることの不確かさに包まれた心。あるいは、より強い生の実感を求める心が自分の中に存在していることに気づく。

今抱えている囚われや葛藤は一体何なのであろうか。その問題の核心はいつも不鮮明でありながら、私の見えないところで確かに存在していることがわかる。

自己を取り巻く囚われや葛藤からどのように私たちは解放されていくのであろうか。それはおそらく、既存の囚われや葛藤を超えて新たな囚われや葛藤に向かっていくことによって徐々に解消されていくものなのだろう。

究極的な解放への道のりは長く険しい。既存の囚われから解放されるためには新たな囚われが必要であり、今の葛藤から解放されるためには新たな葛藤が必要だというのは皮肉ではないだろうか。

だが、そのようなプロセスを辿っていかなければ、根本的には何も解放されないのだ。

白いカモメが曇った空を優雅に飛んでいる。飛んでいる空は曇っているのに、なぜあのカモメはそれをものともしないのか。

あのカモメは、解放の本質を体現しているように思える。12:53 目の前の通りを車が無機質に走り去る。それと何一つ変わらず、私はある哲学書の字面だけを追いかけていた。

以前にライデンの古書店で購入した、コスモロジーに関する哲学書は、内容的には充実しているのだが、それを読む自分はどこか虚しい。時が刻一刻と流れすぎるのと同じように、字面を追う視線だけが流れていく。

それに気づいた時、この本から一旦離れることにした。今の私が求めているのは、もっと自分を捉えて離さない、生の深い側面に触れた言葉なのかもしれない。

客観的な記述はいらないのである。そんなものよりも、徹底的に主観的な言葉が欲しい。

ある別の人間から生み出された、徹底的に主観的な言葉を私は欲している。どうにもならないような生の奥深さを真に語りかける言葉が欲しい。

そのような言葉を投げかけてくれるのは、私にとっては音楽であり、文学なのかもしれないというわずかな光が差し込んでくる。生きている実感も充実感も、人間の本質も、それらを外面的に語ろうとする言葉からは何も得ることが無いように思えてくる。

これから仮眠を取り、昨日の続きとして、再び福永武彦氏の『草の花』を読み進めたいと思う。一つの文学作品や音楽作品が、聖書や仏典と同じ働きを持ちうるということにただただ驚かされるばかりである。フローニンゲン:2018/1/10(水)13:30

No.628: Value of Literature

Ephemeral but eternal silence emerged. I was in there.

I was thinking about the possibility of literature, which seemed immense to me.

Literature is not a servant of philosophy in terms of disclosing inner truth.

Rather, it can unfold what philosophy cannot reveal.

Literature, it has unalternative precious value. Groningen, 16:46, Wednesday, 1/10/2018

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