【フローニンゲンからの便り】17267-17270:2025年8月23日(金)
- yoheikatowwp
- 8月25日
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タイトル一覧
17267 | 唯識・量子論・宇宙論/第146回のクラスに向けての予習(その1) |
17268 | 第146回のクラスに向けての予習(その2) |
17269 | 今朝方の夢 |
17270 | 今朝方の夢の振り返り |
17267. 唯識・量子論・宇宙論/第146回のクラスに向けての予習(その1)
時刻は午前6時半を迎えた。昨日からグッと肌寒くなり、家の中では上に羽織るものがないと寒くなってきた。今日は上に極暖を着て過ごそうと思う。まだ8月なのに極暖を着始めるとは予期していなかったことである。昨日ふと、ここからの人生の楽しみとして、唯識を通じた心の世界の探究、量子論を通じたミクロな世界の探究、宇宙論を通じたマクロな世界の探究があることについて考えていた。それらの三位一体の世界をそれぞれの学問分野から探究していくことを考えるだけで知的好奇心が刺激され、深い喜びがもたらされる。自分の学術研究上のライフワークはそれら三位一体の探究をすることである。
今日のゼミナールの第146回のクラスに向けて、受講生の方に共有した5つの問いについて予習をしておこうと思う。今日からこの3ヶ月学んできた総復習をすることになっており、今日は1本目の論文である“A Theory of Cognitive Development: The Control and Construction of Hierarchies of Skills”の内容を復習していく。1つ目の問いは基礎レベルのもので、「スキルとは何か?従来の「能力」や「構造」とどのように異なると考えられているかを説明せよ」というものだ。スキルとは、特定の課題や文脈において、個人が制御可能な行動・認知の単位であり、構造化された活動の集合である。従来の認知的発達理論、特にピアジェの構造主義的アプローチでは、普遍的で内容を超越した「能力(competence)」や「構造(structure)」の段階的出現が重視されてきた。しかし、スキル理論においては、スキルは文脈に依存し、個人の経験や環境との相互作用によって生成・修正される可変的・具体的な構成である。すなわち、スキルは抽象的な能力ではなく、制御可能な構成要素のネットワークとして捉えられるものである。スキル概念の独自性は、普遍的段階論を脱して「文脈における制御された行為」として捉える点にある。ピアジェとの対比を意識することが重要である。2つ目の問いは基礎~標準レベルのもので、「スキル理論における「変容規則(transformation rules)」の役割を簡潔に説明し、任意の1つを例を挙げて具体的に述べよ」というものだ。変容規則とは、あるスキルレベルからより高次のスキルレベルへと発達する際に用いられる構造的操作のことである。これらの規則はスキルの階層構造の構築を導くものであり、発達の予測可能性を保証する基盤でもある。例えば「複合化(compounding)」は、2つの独立したスキルを同時に制御することにより、より複雑な統合スキルを形成する操作である。例えば、子どもが「医者と患者の関係を演じるスキル」と「医者と看護師の関係を演じるスキル」を複合化することによって、「医者が看護師を通じて患者に働きかける三者関係のスキル」が発達する。変容規則は発達のメカニズムそのものであり、具体例を挙げて構造変化の方向性を明示できるかが評価の鍵となる。3つ目の問いは標準レベルのもので、「「模倣的技能(mimicking)」とはどのような現象か?それが本来のスキルとどう異なるかを説明せよ」というものだ。模倣的技能とは、より高次のスキルのように見える行動が、実際にはその構造的複雑性に到達していない下位スキルの組み合わせによって構成されている現象である。模倣的技能では、高次スキルに見られる柔軟性や統制力が欠如しており、行動は文脈依存的で再構成が困難である。例えば、レベル2のスキルを複合化することによって、レベル3のスキルのような行動を一時的に示すことができるが、それは持続的かつ汎用的なスキル制御ではない。したがって、模倣的技能は発達の過渡的段階に生じるが、本来的な構造統合には至っていない。模倣的技能は、見かけ上の能力と実際の構造制御の差異を理解するための重要な概念であり、「行動の表層」と「構造の深層」を区別できるかが鍵となる。要約すると、模倣的技能(mimicking)とは、下位レベルのスキルを組み合わせることで、あたかもより高次のスキルを使っているかのように見える行動を指すが、実際にはその子どもは高次スキルを柔軟に制御できていないため、似ているようで構造的に異なるものである。例えば、1歳前後の乳児が人形を視覚で確認しながら手を伸ばしてつかみ、顔の前に持ってきてじっと観察する場合、これは視覚、運動、把握という複数のスキルを同時に統合し柔軟に再構成するレベル3のスキルである。しかし同じ行動をレベル2の子どもが行うとき、それは人形を見てから別のタイミングでつかみ、その後無意識的に顔の前に持ってくるといった下位スキルの連鎖にすぎず、表面的には高次スキルに似ているが構造的には異なる。模倣的技能はこのように表面上は高次スキルのように見えるが、実際には下位スキルの逐次的な組み合わせであり、同時的な制御や再構成が欠けているため、あくまで「模倣」にとどまる現象なのである。それにもかかわらず、この模倣的技能はしばしば次の発達段階への橋渡しとなり、子どもがまだ新しいレベルのスキルを十分に獲得していない段階で見かけ上の能力を先取りしているように見えるため、教育や発達評価においては高次スキルと誤認しない慎重さが求められる。フローニンゲン:2025/8/23(土)07:00
17268. 第146回のクラスに向けての予習(その2)
先ほどの続きとして、大人における模倣的技能について考えている。大人においても、まだ十分に統合的な理解や柔軟な制御に至っていない段階で、下位スキルの連鎖や断片的知識を寄せ集めることによって、あたかも高次のスキルを身につけているかのように見える行動を見せることがある。例えば外国語学習において、文法体系を深く理解していない学習者が、暗記したフレーズを状況に当てはめて会話している場合、表面的には流暢に話しているように見えるが、実際には文法的規則を柔軟に操作して新しい文を構築することはできないため、それは高次スキルの「模倣」に過ぎない。このような模倣的技能は、行動の外見上は成熟したスキルに似ているが、基盤となる制御が不十分であるため応用範囲が限られており、それでもなお発達的には次の統合的スキルへの移行を促す重要な過渡的段階として機能するのである。
4つ目の問いは標準レベルで、「スキル理論における「不均一性(unevenness)」とは何を意味し、なぜそれが発達の原則とされるのか説明せよ」というものだ。不均一性とは、同一人物において異なる課題やスキル領域間で発達レベルが一致しない現象を指す。スキル理論においては、不均一性は例外ではなく、環境的要因や課題特性、個人の経験などによって必然的に生じる発達の本質的特徴とされる。従来の理論が普遍的段階や同時並行的発達を想定していたのに対し、スキル理論は文脈依存的な練習や学習の量的・質的差異がスキル発達に決定的影響を与えることを明示する。したがって、発達の正確な理解と予測には、不均一性を前提としたモデルが不可欠である。発達を均一的・直線的に捉える旧来の見方に対し、スキル理論は環境的・文脈的要因の重視により柔軟な理解を可能にする。その哲学的転換点を捉えることが肝要である。5つ目の問いは難問レベルで、「スキル理論における「スキル領域(skill domain)」の定義と、課題領域(task domain)との違いを明確に述べた上で、元祖スキル理論がこの問題において抱える限界と今後の理論的課題を論ぜよ」というものだ。スキル領域とは、複数の課題領域を横断し、共通するスキル構造によって連結される高次の枠組みを指す。各課題領域は、類似した構成要素を持つ課題群で構成されており、それぞれに特化したスキルが発達するが、スキル領域では、それらの課題領域にまたがって同調的に発達するスキル集合が形成される。現在のスキル理論では、スキル領域は主として経験的に定義されており、異なる課題間での発達的同期が環境要因によって説明できない場合に、同一スキル領域とされる。しかしこの定義は経験的逸話に依存しており、課題領域間を結びつける理論的「接着剤(glues)」の明示的定式化が未だ不足している。今後は、共有スキルの比率や構成の重なりに基づく段階的(gradated)スキル領域モデルの構築と、それに伴う予測的整合性の検証が求められる。この設問は理論の未完成部分と将来的発展可能性を問う。定義、現状、限界、展望の四層構造で答えることが論理性と深さを評価される鍵となる。上記の補足として、元祖スキル理論の発展系であるダイナミックスキル理論においては、スキル領域は単なる経験的事実ではなく、理論的に明確に定義される分析単位へと位置づけが変化した。すなわち、スキル領域は文脈依存的に構成されるが、その変化は普遍的な発達階層に制約されるものであり、ダイナミックシステム論の観点からは個体と環境の相互作用の中で生成される安定パターン(アトラクター)として理解される。また教育応用の文脈においては、経験的な後づけではなく予測可能かつ設計可能な枠組みとして機能するようになった。したがって、スキル領域は初期には経験的にしか捉えられなかったが、ダイナミックスキル理論においては理論的に定義される構造的・動的な単位へと発展したのである。フローニンゲン:2025/8/23(土)07:09
17269. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、東京の街を外国人留学生たちと数人の日本人の学生と共に観光していた。学校側がリストを作ってくれた観光地は、東京で生活する自分たちにとっては面白みにかけると思ったので、そのリストを無視し、自分たちが面白いと思う場所を外国人留学生に紹介することにした。街を歩きながら、特に隣にいた中国人の背の高く、体格的にもしっかりしている留学生と話をしていた。彼の日本語はネイティブ並みの流暢さで、まずはその点に驚かされた。うちの大学は留学生に課す日本語のレベルは極めて高いことを知っていたが、ここまで流暢に日本語を話せるというのは素晴らしいと思った。彼に話を聞くと、元々は中国の名門大学に通っていたが、大学3年生の時に寮の先輩のイタズラが度が過ぎたことに嫌気を指して中退し、日本の大学に編入することを決意したとのことだった。しばらく彼と話をしていると、目的地の街中にある巨大な観覧車に到着した。すると偶然にも、そこで知人の女性を見かけた。どうやら彼女は今から大学入試を受験するらしく、この観覧車に乗ることが試験科目の1つになっていると説明してくれた。何やら筆記試験はすでに終わっており、採点も済んでいるとのことで、その方は筆記試験の出来は良くなかったらしく、この観覧車の科目で挽回するしかないようだった。筆記試験の点数に応じて観覧車の動く速度が変わるらしく、点数が悪いほど回転速度が上がり、その恐怖に耐えられるかが試されるとのことだった。その観覧車の席丸いボールのような形をしており、その方はその中に入った。そこから高速にボールが360度の色々な方向に回転しながらも、彼女は恐怖心に打ち勝ち、見事にその課題をクリアして大学に合格した。このような入試方法もあるのだなと興味深く思っていると次の場面に移行した。
次の場面では、京都の舞妓さんたちの住む家で自分も修行を疑似体験していた。その家には、舞妓さんだけではなく、芸妓さんも何人か一緒に住んでいて、女将さんがその家を切り盛りしていた。自分は若い舞妓さんと一緒に京都の方言を学んだり、踊りや楽器の演奏を含めた芸事を学んでいた。1日の中で学ぶことやその他の雑事も多く、なかなか大変だと思いながらも、同時に楽しさとやり甲斐を感じていた。朝の稽古が終わり、朝食を食べて少しゆっくりする時間があったので、家の中の日の当たる場所でのんびりしようとしていると、家の受付のような場所にいた女性に話しかけられた。そこで自分がこれまで取得した学位について尋ねられたので、欧米の大学院で3つ修士号を取得したことを告げると、その年齢で3つも修士号を取得していることを驚かれたが、今の自分は4つ目の修士号と博士号を取得しようと考えているので、3つの修士号は何も驚くことではなく、むしろこれまで博士号を取得することなく悠長に過ごしていたと思っているぐらいだった。人によってある事実に対する受け取り方が全く違うという点を改めて感じ、まさに人人唯識だと思った。フローニンゲン:2025/8/23(土)07:36
17270. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の構造は二重の舞台装置のように展開している。前半は東京という現代都市において、留学生との交流と入試試験という制度的要素が織り込まれ、後半は京都という伝統的空間で舞妓や芸妓と共に修行を体験するという文化的・歴史的要素が表現されている。この対比は、近代的合理性と伝統的感性、制度化された評価と身体的・芸術的修練という2つの領域をつなぐ意識の働きを象徴しているように思える。東京での観光を学校側のリストに従わず、自らの判断で留学生に案内しようとする行為は、外部から与えられる規範や制度よりも、自身の経験や直感を優先する主体性の表れである。特に中国人留学生との対話は、文化や言語を越えて共感し合える可能性を示し、彼の流暢な日本語や逆境からの選択の背景は、適応と自己決定の力を映し出している。これは自分自身の内なる「異文化的自己」との出会いであり、自己の多層的な成長の可能性を照らす姿である。巨大な観覧車とそれを用いた試験は、人生における評価や挑戦の寓意である。筆記試験という静的で頭脳的な領域に対し、観覧車という身体的かつ感情的な挑戦が設定されている点は、知性のみならず感情の強靭さや胆力が問われる現代社会の暗喩である。速度が上がるほど恐怖が増す仕組みは、失敗や劣等感に直面したときこそ、心の安定が必要であることを示している。知人女性が恐怖を克服し合格を勝ち取る場面は、他者の成功を通じて自らに投げかけられた「困難を受け入れつつ突破せよ」というメッセージである。場面が京都に移ることは、外向きの競争や評価から、内向きの修練と美的感受性への転換を示している。舞妓や芸妓の家は、時間をかけて身につける芸事や言葉、所作を通じて、自我の研磨と感性の深化を求める空間である。ここで体験する稽古の多さと大変さは、単なる努力ではなく「修養」としての意味を持ち、そこに楽しさと充実感を伴うことは、学問的営みと芸術的営みが同じ根を持つことを示している。学位について問われる場面は、外部の評価と自己認識の差異を浮かび上がらせている。他者は「3つの修士号」という数の多さに驚くが、自分はむしろ博士号を取らずに来た悠長さを意識する。このズレの感覚は、唯識的に言えば、対象が人によってどのように構成されるかの違いであり、認識そのものの相対性を実感する瞬間である。つまり夢は、制度的価値や外的評価に依存することなく、自らの道を歩むことの重要性を改めて訴えている。全体を通して、この夢は「外部の規範と評価に左右されず、内なる判断と修養によって自己を深めよ」というメッセージを伝えている。東京の場面が示す主体的判断と挑戦の克服、京都の場面が象徴する伝統的修練と内面的深化は、両輪のように自己形成を支えている。したがって、この夢から導かれる具体的なアクションは、今後の学問や仕事において他者の評価や制度の枠組みに流されるのではなく、自分自身が真に価値あると思う学びや実践に意識的に時間と労力を注ぐことである。また、困難や恐怖に直面したときには、それを単なる障害と見なさず、心を鍛える稽古として受け止めることが求められているのだろう。フローニンゲン:2025/8/23(土)07:45
Today’s Letter
Everything, every day, is a play for me. Every moment and experience is a dance of reality. All I have to do is accept, embrace, and enjoy each moment as if it were a fun activity. Groningen, 08/23/2025

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