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1553. 不毛な試みに邁進する現代人


自己を求める人。自己を探そうとする人。それらはどちらも本質的に何かを見誤っているようである。 昨夜就寝前に、「自己の基底」に触れる体験にまたしても見舞われた。この体験についてはこれまで何度も書き留めているから、あえてここで繰り返して説明することをしない。

この体験の本質は次のようなものである。自己が「見つけた!」と叫んだ瞬間に、自己の基底が「それではまた」という挨拶すら残さぬまますぐに消え去るということだ。

仮に自己が自己の基底と合一した状態を維持していると、自己は自己の基底に安らぐことができる。自己が自らの身体でもなく、感情でもなく、思考ですらなく、それらを目撃する者ですらないという意識。

それらを目撃する者が広大な気づきの意識の中に溶け込み、全てから薄皮一枚完全に離れ、それでいて全てと一心同体であるという感覚の中に私はいた。この体験それ自体、あるいは自己の基底はいつも極めて狡猾だ。

いや、自己の基底が狡猾なのではなく、単に自己が愚鈍すぎるのかもしれない。つまり、自己が自己の基底を見つけたと気づくとき、「あぁ、自己の基底はこれだったのか」と一瞬でも自らの思考を挟むとき、自己の基底は一瞬にして姿を消す。

その理由は簡単である。なぜなら、自己の基底は見つけられるようなものではなく、最初から、しかも常にそこにあるものなのだ。

「ある」という言い方ですらおかしいかもしれない。なぜなら、私たちは常に、この基底意識と寸分違わず、日々の瞬間瞬間を生きているからだ。

私たちは、一度たりともそれと離れたことはなかったのだ。一度も離れたことのないものを求めるというのは、馬鹿げだことではないだろうか。

やはりそう思うだろうか。私もそう思う。

だが、現代社会の中で自己を求める人や自己を探そうとする人は、全員がこの馬鹿げた行為に邁進しているのだ。求めようとして見出される自己や探そうとして探し出される自己は、全て偽りである。

どれもがこの現代社会のイデオロギーに塗り固められた虚飾の自己である。本質的な自己は、基底意識に他ならず、それは全てから解放されていて、それでいて全てと同一だ。

また、それは一度たりとも私たちから離れたことはない。常にそこにあるものを見つけようとすることがどれだけ馬鹿げたことかについては、もう少し説明をしなければならないかもしれない。

昨夜の私もこの過ちを犯した。というよりも、この基底意識に出会った時にはいつも、そこでくつろぐことをせず、どうもそれを見つけたと頭の中で叫んでしまうのだ。

その叫びを発した瞬間に終わりである。なぜなら、それは見つけられるものではないからであり、気づかれるものではないからだ。

それは「見つける・見つられる」「気づく・気づかれる」という二元論的な性質を超越している。伝統的には、この現象は「非二元」と呼ばれるらしい。素晴らしい名である。

この非二元の意識は、見つけることや見つけられるという二元論的な事柄を完全に超越している。そして、ひとたびそれを見つけたと思った瞬間には、それは別れの挨拶をしないままにどこかに行ってしまう。

昨夜の私は、そのような性質を持つ体験をした。厳密には、それは体験ですらないのだが。

ある人:「すいません。あの門を通り抜けるにはどうしたらいいのですか?」 別の人:「えっ、あの門?あの門なら最初から開いてますけど」 人々は、最初から完全に開いている門を見て、それを何とか開けようとする。開いている門を開けるにはどうしたらいいのだろうか?

結論は簡単であり、そのようなことは不可能だ、ということである。要するに、自己を求める人や自己を探そうとする人は、最初から不可能な試みに乗り出そうとしているのだ。

自分の眼が、眼がどこにあるのか探し回る姿は、とても滑稽ではないだろうか。まさに人々は、この滑稽なことに真剣に従事しているのだ。

だが、それは滑稽さでは済まされない。そのようなことに従事して見出される自己は、完全に偽りのものであり、最悪の事態は、私たちがその虚飾に塗られた自己に固着してしまうことである。

そこには解放も自由もない。私たちは、最初から常にあるものを求めようとし、逆にそれからどんどんと離れていく。

この不毛な試みは、自己を苦しめ、解放や自由どころではなく、自己に制約を上塗りしていく。人々は一体何を見ているのか。

見ているのは幻影であり、自分の眼が確かにそこにあるということに一刻も早く気づくべきではないだろうか。2017/9/17(日)

No.199: Domain Specificity in Writing It seems that something within me is still kindling.

It is strenuous to relax the inner flame. In this state of consciousness, I am not writing.

Instead, “my writing is writing,” which sounds uncanny. In other words, in the present state of my consciousness, I am dissolved into the autopoietic flow to continuously generate itself.

There is no subject to write here, but there exists only writing at this moment. Writing refers to itself and regenerates itself to create something new. I am in that process; or I am the process. I was think about the domain specificity of writing. I had never engaged in personal writing in English in the last five years.

This is my sixth year to live outside Japan, and I have currently kept a diary in English everyday.

Since personal writings and academic writings are distinct, I can notice how differently both writing styles affect my thoughts and feelings.

I do not articulate the difference here, but it seems to stimulate different domains of my brain and mind because each writing has an interdependent disparate territory. 17:18, Monday, 9/18/2017

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