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1313. 一羽のカモメの教え:表現行為の動因から形へ


何かに近づきつつあるという感覚と何かとの距離が広がりつつあるという感覚が同居するような感覚。何かを積み上げては壊し、また何かを積み上げていく中で何かを生み出していく感覚。

そうした感覚を日々抱いている。一羽のカモメが書斎の窓の近くを横切り、早朝の夏の空を優雅に飛んでいるのが目に入った。

「なぜカモメはあのように空を飛ぶのか?」という問いが自発的に生まれた。この世界は、「なぜ」と問うてしまうと答えようのない現象や事柄で満ち溢れている。

世界の現象や出来事は、「なぜ」という問いに対して一つの論理で説明できるほど単純ではない。しかし私は、カモメがあのように空を飛んでいた理由について考えていた。

だが、その理由を直接的に考えることは難しく、カモメが空を飛んでいた意図や目的が何なのかについて考えを巡らせていた。仮にあのカモメに主観性があったとしても、その主観性を私が完全に理解することなどできない。

だが、主観性を発揮しながら飛んでいたあのカモメを動かす主動因のようなものなら、何か見えてくることがあるのではないかという思いがあった。あのカモメを動かし、飛ぶ行為を促したものの正体を知りたかった。

それは単純に、「飛ぼう」という意図が生じる前にカモメの内側に宿る、「駆り立てる何か」なのではないかと思った。飛ぶという動作を促す意図が発生するその前に、すでにその意図を促す何かがあるのだ。

その何かのことを今、「駆り立てるもの」という言葉を当てていた。それは意図する意図しないに関わらず、止むに止まれぬ形で生じるものだ。

そして、カモメにとって飛ぶという動作は、一つの表現行為なのではないかという考えがよぎり、そうであれば、表現行為はこちらの意図を超えた働きによってなされることになる。何かを表現するというのはやはり、自分の意図が生じる前からそれを促す動因のようなものがあり、その動因によって駆り立てられる形でなされるものなのではないだろうか。

あのカモメが、書斎の窓の近くから赤レンガの家の屋根に向かって飛んで行ったのは、カモメの意図を超えた表現行為だったのだと知る。おそらく、意図を超えた動因が先にあり、それが飛ぼうという最終的な意図を生み出し、あのカモメは空に飛びったのだ。

そして、飛行の最中には再び意図を超えた働きによって「飛ぶに任せて飛ぶ」という状態にあったのだ。赤レンガの家の屋根に降り立ったカモメは、その時に初めて、自分が飛んでいたことに気付くのだろう。

そこから私は大きなことを学んだようだった。日々の仕事を、あのカモメが早朝の空を飛んだのと同じように進めていこうと思ったのだ。

読むことや書くことの意図を超えた形で日々の仕事に打ち込むこと。言い換えると、表現行為の一種である読むことや書くことを促す動因に自らを委ねる形で、意図を超えた意図に従いながら一つ一つの仕事に取り組むこと。

その時、自らを駆り立てる動因を起点として、明確な意図を持ち、それでいて行為の最中は明確な意図を手放すのだ。「読むに任せて読む」「書くに任せて書く」という運動が始まるのはそこからだ。

そして再び私は自らの意図を持つことによって、一連の行為を収束させ、それまでの運動を一つの形として認識する必要がある。表現行為の絶え間ない生成とそれを形にしていく試みには、そのようなプロセスが介在している気がしてならない。 ベートーヴェンの声楽曲がとても美しい。名の知れぬソプラノ歌手の素晴らしい声が書斎の中に鳴り響く。

窓の空を見ると、カモメの姿はもうそこにはなかった。だが、私の内側には、表現行為に関する確かな考えがあった。2017/7/17(月)

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