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1187. 徹頭徹尾の一貫性


けたたましい慟哭が去ってからの朝は、奇妙なほどに静かだった。開放された書斎の窓から、小鳥のさえずりが聞こえ、書斎の窓から外の通りを眺めると、通りの上を一匹の灰色の猫が歩いていた。

一切合切をまたここから進めていこうと思う。 昨夜の夢は、激しい慟哭によって破壊された内側の瓦礫を洗い流すかのような夢だった。夢の内容があまりにも光に満ちていたのは、就寝前の内面世界の状況の反動からだろう。

ここでは夢の内容について書き留めることをしない。なぜなら、昨夜の夢も間違いなく、私にとっての大切な意味を内包しながらも、それは就寝前の慟哭に対する慰めの報酬に過ぎず、夢の中の光を信じることができないからだ。

真実の光の前には、常に偽りの光が存在しているように思う。真実の光に行き着くまで、偽りの光に目をくれてはならない。そのような思いが湧いてくる。 昨日の午後にふと、慟哭の中で探究を続け、世界に関与しようとした人間たちについて考えている自分がいたことを思い出した。彼らは一様に、止むに止まれぬものによる探究活動を余儀なくされ、彼らの途轍もなく個人的な問題が社会の問題と強く合致している様子が見て取れた。

おそらく、「探究」というものは、本来このようなものでなければならないのだと思う。先日の日記で、探究という言葉の持つ意味が変化し始めたことについて書き留めていたように思うが、あの時に書き綴っていたことの意味はまさにこれである。

個人的な問題と社会的な問題が、徹頭徹尾の一貫性を持ち、そこに一切の隙間もない状態。その状態の中で、止むに止まれぬものに突き動かされながら、絶え間ない思索と実践を遂行していくことが、探究活動の本質的な意味だと私は思う。 昨日の空を覆っていた灰色の薄い雲の大群が消え去り、雲ひとつない青空が広がっている。通りには道行く人も見えず、道路を通る車もない。

そこにはただ、朝日に照らされた世界があるだけだった。葉の先端がかすかに揺れる緑の木々と小鳥の鳴き声。書斎の中を流れる音楽と私。

もう一度、今日からここから始めなければならない。瓦礫の世界から離れていくのではなく、瓦礫の世界の再建に向けて立ち上がらなければならない。

日々が新たなものとして知覚されることと、日々が自らにとっての再出発として知覚されることを見るにつけ、人間の一生は、こうした出発の再帰性と同一のものなのだと強く思う。2017/6/18

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