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1185. 自己と集合を冒涜する日本語に無自覚な日本人


今日は、ドイツから来られた二人の日本人の方とフローニンゲンのレストランで昼食を共にした。フローニンゲンに来てから一年が経とうとしているが、知人の方がこの街に足を運んでくれることは初めてであった。

三人で昼食を摂りながら、様々な話題について意見交換をしていた。そこで話題に上がったどれもが、私にとって重要なものであり、これからの欧州生活を通じて、それが意味するものをより明確にしていかなければならないと思う。

時間としては二時間半ほどだったが、欧州で暮らす日本人の方とこのように話ができたことは、私にとって様々な意味で有り難かった。その方たちと別れた後、私はまた一人になった。

自宅に向かう道中、独り言を口ずさみながら、考えなければならないことを考えていた。自宅に到着し、すぐさま午前中の続きとして、論文を読むことを始めた。

論文の文言をいくら大きな声で音読しても、それよりも大きな音を持つ自分の内側の声が絶えずこだましていた。なにやらそれは、第二弾の書籍の主題に関するものだった。

結局私は、日本の中で、真の日本人がいかに少ないかを強く嘆いていることがわかった。そうした嘆きをもたらす現象は、日本人の中で、いったい何人の人が、その瞬間瞬間に自分が日本語を話していることに自覚的であり、いったい何人の人が、自分の日本語を鍛錬することを毎日意識しているのか、という問題意識の中に如実に表れている。

人間としての器の成長にせよ、能力の成長にせよ、それが日本語空間において営まれるものであるならば、自らの精神が拠って立つ日本語を涵養しなければならないと思うのだ。ここではあえて、言葉と器や能力との関係性については議論しない。

それはすでに、書籍の中に書かれているし、これまでの日記の中に書き綴ってきたことだからだ。器や能力の鍛錬を日本語空間の中で営む際に、それらが立脚している日本語の鍛錬の必要性に無自覚なのはなぜだろうか。

おそらく、私の嘆きは、日本語の鍛錬の無自覚さにあるというよりも、母国語を蔑ろにすることは、日本人としての義務の放棄につながっているのではないか、という考え方の中にあるだろう。母国語の鍛錬を放棄することは、自己への冒涜であり、日本の精神性に対する冒涜のように私には思えて仕方ないのだ。

この思いは、欧州での生活の日々が積み重なっていくことに応じて、より強さを増している。こうした冒涜行為を行ってしまうというのは、やはり、言葉の持つ意味と力、特に母国語の持つ意味と力に無知だからだと思うのだ。

母国語は、私たち個人個人の内面の深くにまで染み渡り、個人個人の精神生活に多大な影響を与える。また、母国語は、私たちの精神文化の土壌であり、文化を根底から支えながらそれを育んでいくものである。

しかし、そうした特性を持つ母国語への無頓着さと、それを保護し、さらにそれを涵養していくことの意志の希薄さに対して、私はなんとも言えない思いに駆られていた。

第二弾の書籍を執筆している最中に、私の内側にはそうした危機意識が絶えずあった。器や能力の鍛錬に躍起になる前に、私たちはもう一度、母国語が私たち個人と集合の精神に与える影響を捉え直さなければならないだろう。

そうした試みなしに実現される器や能力の成長は、本質が骨抜きにされたものにすぎないだろう。2017/6/17

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