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947. 無限と永遠の世界につながる扉:死の直前のモーツァルトが描かれた絵画から


昨日は、論文を大幅に加筆・修正するという作業を午後から夜にかけてずっと行っていたためか、昨夜の睡眠時間はいつもより一時間ほど長くなった。昨夜も十時前に就寝したのだが、今朝目覚めたのは七時であった。

目覚めた瞬間に、十分寝たにもかかわらず、もう少し睡眠を取ってもいいのではないかと思われるような薄い衣のようなものが全身を包んでいた。全身を取り巻くそうした衣を引き剥がしてくれたのは、朝一番に聴いていたモーツァルトの交響曲だった。

この曲を聴きながら身体を動かし、体が完全に目覚めたところで書斎の椅子に腰掛けた。すると、ザルツブルグのモーツァルト博物館を訪れた際の記憶が蘇ってきた。

モーツァルトが生誕したその場所で、私は一枚の絵画作品と出会った。この博物館は、実際にモーツァルトが生まれた場所であり、天井や床は当時のままなのだそうだ。

博物館の三階だっただろうか、そこで私は壁にかけられた一枚の絵に釘付けになっていた。その絵に描かれていたのは、モーツァルトがこの世を去った瞬間の様子であった。

そこでは、モーツァルトがベッドの上に横たわり、彼の家族や関係者が悲嘆にくれている姿が描かれていた。この絵はまちがいなく、悲痛さで満ち溢れたものなのだが、私はその絵の中に別の物を見出していた。

私が見ていたのは、モーツァルトの死という結果ではなく、死の前後で永続している何かだった。その絵画の中で、モーツァルトが死の直前まで『レクイエム』を書き続けていたことに、私は静かに感動していた。

死の直前まで何かに打ち込み続けた人物に私はいつも大きな励ましを受ける。モーツァルトが死の直前まで取り組んでいた『レクイエム』は完成を待たず、結局未完のままに終わった。

多くの人は未完のままに終わった作品の完成を望み、未完であることを嘆くかもしれない。だが、私はそれとは違った感覚を持っている。

完成のピリオドが打たれない未完の作品の終わりには、永遠への扉が開かれているように感じるのだ。完成されなかった『レクイエム』の作品が永遠の世界に開かれたものであるというだけではなく、それよりもむしろ、死の直前まで自分の仕事に打ち込み続けたという行為を通じて、モーツァルトの音楽そのものが無限と永遠に満ちた世界に開かれていったような感覚を私に引き起こすのだ。

モーツァルトの生家のある部屋に掲げられたその絵画を眺めている間中、私はそのような感覚の中にいた。自分の仕事が完成することなく、死から呼びかけがあったとしても、何ら問題はないのだと私は思った。

重要なのは、死の直前まで自分の仕事に捧げることのできる意志である。その意志こそが、無限と永遠だけが存在する世界につながる扉を開くのだ、ということを確信した。

私も最後の最後まで、自分の仕事に取り組み続けたいと強く思う。人間に宿命づけられた死という現象を私たちが乗り越え、いや真に受け止めることの鍵は、そうした意志の中にあるのではないだろうか。 早朝の晴天とは打って変わり、日記を書き留めている最中に不気味な雲が現れ、突如として雨が降り出した。しかし、日記を書き終える直前に雨が止み、不気味な雲は私の視界から消え去っていた。

そして、遠くの空に虹がかかっているのがかすかに見えた。その虹は、全てを捧げて何かに打ち込み続けた最後の瞬間に残る、無限と永遠の世界につながる扉を開くための透徹した意志を象徴しているように私には思えた。2017/416

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