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766. 書くことは留まること、留まることは真実に近づくこと


——すべて急ぎゆくものは、たちまちに過ぎる。とどまるもののみ、私たちを真実の世界に導く——リルケ 今日は午後から、「状態空間分析」に関する専門書を読んでいた。この分析手法は、現在取り組んでいる私の研究の中で重要な役割を果たす。

具体的には、この手法は、一つのダイナミックシステム——一つに限定されず、より多くのシステムを勘案することも可能——を構成する複数の要素が、状態空間の中でどのような挙動を見せるのかを可視的に掴むためのものである。

例えば、教師と生徒との間における行動を一つのダイナミックシステムと見なし、状態空間の縦軸に教師の行動を取り、横軸に生徒の行動を取ると、教師と生徒の振る舞いが、やり取りの推移に応じてどのように変化しているのかを捉えることができる。

この手法に関する専門書を読み進めながら、実際に専用のソフトウェアをあれこれと試していた。「複雑性と人間発達」というコースのクラスを通じて、このソフトウェアを活用したことがあったのだが、その時は与えられたデータセットに対して実習を行っていた。

今回は自分のデータに対してこの分析手法を活用しようと思っていたのだが、データファイルの作成方法が正しくなかったらしく、うまくこのソフトウェアを活用することができなかった。実習の際に用いたデータファイルの形を参考にして、自分のデータからデータファイルを作成しようとしていたのだが、どうもうまくいかなかった。

この点については、状態空間分析に精通しているサスキア・クネン先生に、月曜日のミーティングの際に助言を求めようと思う。 夕方から夜にかけて、現在執筆中である論文の理論的説明をする箇所に修正・追加を施していた。10ページを超す文章に対して、一つ一つの章の中における段落の整合性や章と章とのつながり、さらには語彙の密度についても一つ一つ確認しながら加筆修正を施していった。

この作業がひと段落し、手を止めて書斎の窓から空を眺めると、日が沈むのが幾分伸びていることに気づいた。すると突然、書くことは、対象の中に深く留まることを意味するのではないか、と思ったのだ。

内面世界を対象にした内省的な文章を書くことによって、徐々に内側の真実が明らかにされていくのも、外面世界を対象にした科学的な文章を書くことによって、徐々に外側の真実が明らかにされていくのも、書くという行為の本質の中には、留まるという現象が不可避に存在しており、留まることによって初めて、対象が真実を語り始めるのではないかと思ったのだ。

これは残念ながら、話し言葉にはないような力のように思える。話し言葉には、対象の深くへ私たちを導く力が弱く、刻印性という特性が乏しいように思える。

話し言葉は、たちまちに私たちの中を過ぎ去っていくような類いのものであり、よほど注意深く話し言葉を用いなければ、私たちは対象の中に長く留まることはできないように思える——経験上、ボームダイアローグやダイヤモンドアプローチなどの内省的な対話技法を用いるのであれば話は別である。

一方、書き言葉には、一文一文の中に留まりながら進むという特徴があることが見えてくる。書くという行為は、ある思考・感情・感覚に焦点を当て、一文一文の中に留まりながら、対象の中に徐々に徐々に深く入り込んでいくことを可能にする。

そして、それによって初めて、対象物は徐々に内包する真実を開示するのである。確かに、自分自身の体験からも、ある対象に焦点を当て、何かしらの文章を書く際には、その奥へ奥へと沈んでいく感覚がある。

それがまさに、対象の中に留まるということを意味するのだろう。同時に、対象の中に留まる最中、私という存在は自己の内側の深くに留まることも意味しているように思えてならない。

これは内面の成熟を促す際にも、ある知識体系や技術体系を構築する際にも、非常に大切なことのように思える。内側に留まり、対象に留まらなければ、開けぬ境地が確かに存在するのだ。

移りゆくものと共に移り行ってはならない。自己や対象というものは、本質的に移りゆくものなのだが、あえてその中に果敢に留まることをしなければ、私たちは何も掴むことができないだろう。

対象に留まることを可能にし、自分自身の中に留まることを可能にしてくれるのが、書くという行為の本質の一つであるということに気付けて嬉しく思う。書くという行為を通じて私たちは、対象と自己が開示する真実を徐々に目撃することになるに違いない。2017/2/21

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