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699. 地上を仰ぎ見、働きかける者


意識の発達が自己を超越するような極めて高度な段階に達した時、私たちは地上の素晴らしさや残虐さのありのままの姿に眼を開かれるという。事物のありのままを見ることに関して、私は少々誤解をしていたことにはたと気づかされた。

いや、そもそも意識の発達プロセスの捉え方を誤解していたように思う。より厳密には、小さな自己が解体されていったその先の自己のあり方について、見落としていたことがあったように思わされたのだ。

私たちの自己は、常にその段階の自分を超克する形でさらなる段階に辿り着いていく、というのはすでによく知られた考え方だと思う。つまり、私たちの自己は死を遂げることによって、新たな自己に成るのである。

このプロセスを辿ることが、意識の「高度化」であると発達心理学の世界では考えられている。だが、真に小さな自己が死に果てた末には、非常に逆説的なことが起こるように思うのだ。

小さな自己が死に果てた時、それは意識が極度に高度な段階に到達したことを示すものなのだが、それはこの世の地面に着地する感覚に近いのではないか、という気がしている。あるいは、地面に着地しながらこの世界を仰ぎ見る感覚と言ってもいいかもしれない。

地上の素晴らしさや残虐性を含め、事物のありのままの姿を真に受け止めるためには、決して天上から地上を見下ろすような傍観者的な姿勢では決してならないはずである。何にも増して、地上に足をつけながら、事物のありのままを鷲掴みにするような姿勢が必要なはずである。

意識が高度な段階に到達すれば、現象世界を俯瞰的に眺められるようになるのは確かだが、それはまだ自己の発達において道半ばの状態にすぎない。真に小さな自己が死を遂げる時、そこには天上を見上げるのみならず、地上すらも見上げるような態度が生まれるはずである。

そうであるがゆえに、真に自己を超越した者は、天上にも地上にも等しく全身全霊で関与しようとするのだろう。この世の事物がありのままにそこに存在していることを知った時、この世界の素晴らしさや残虐性に必ず眼が開かれるはずである。

そこには、この世を仰ぎ見るという謙虚な姿勢が確かにある。それは、この世を見下ろす姿勢とは全く別種のものである。

仮に、事物のありのままの姿を歪曲させるような働きかけが存在しているにもかかわらず、それすらもありのままと受け入れるのは、どこか傍観者的な態度に思える。真に自己を超越した者の眼には、ありのままとそうではないものの違いが見えるような気がしてならない。

そして、決意とともに、事物のありのままを阻害する存在と対峙する行動に移ると思うのだ。小さな自己が死を遂げ、真に自己を超越した者は、そのように世界を眺め、そしてそのように世界に働きかけていくように思えて仕方ない。2017/1/29

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