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455. 意味の玉手箱


非常に滑稽なことが起こった。例のホワイトヘッドの哲学に関する専門書を70ページほど読み進めた結果、自分がノートにメモを取ったのは「全ての実体は非線形的な変化を遂げる」という記述だけであって、その具体例として「人は同じ川を渡ることは二度とない」「人は同じ事柄を考えることは二度とない」「主体として同じ経験をすることは二度とない」ということがノートにメモされている。

これらは複雑性科学の領域において前提となっている事柄であり、他の哲学者も同様のことを述べているため、知識として目新しいことなどほとんどないのだ。しかしそれにもかかわらず、私はこれらの事柄をメモしていたのである。

どうやらこれらの事柄が意味する内容は、私が思っている以上に奥深いのかもしれない。今の私は直感的に、後々これらの事柄が、思わぬ意味を私の眼前に開示させてくれることを把握していたかのように思われる。

ホワイトヘッドのそれらの考え方はまるで、目には見えない重層的な意味が梱包された玉手箱のように映る。今回の読書体験では、私はホワイトヘッドのそれらの言葉が持つさらに一歩深い意味を紐解くことに向かわなかった。

いや、もしかしたら向かえなかったのかもしれない。とにかく私にとって重要なことは、ある事柄が仮に既知だと思われたとしても、何か引っかかることがごくわずかでもあったのであれば、それを書き留めておくことにある。

「それはすでに知っている」という態度である知識と接する光景を頻繁に目にするが、そうした態度ではその知識が内包しているさらに深い意味を発見することができなくなってしまうだろう。意味というのは無限に重層的なものなのだ。

ある知識をそれがすでに既知であるとして邪険に扱う態度は残念で仕方ない。自分が掴んだと思った意味の下には、さらに深い意味が隠されているという真実に気付く必要がある。そのようなことを今回の読書体験から学ばされた。

わずか数行のメモしか残すことができず、一見すると自分の内側で自己展開が起こらなかった今回の読書体験は、実は非常に充実したものが隠されていたのかもしれないと思った。今日の読書では、自分がすでに知っていると思われた箇所をあえて抜き出すことを行っていたのだ。

そして、抜き出した箇所から何か思考を深めていくというようなことを行ったわけでもなく、それはさながら玉手箱を発見しながらも、それを開けないままどこかに取っておいたような行為に似ている。

もしかすると、重層的な意味が梱包された玉手箱を常に開封する必要はなく、玉手箱の存在を明らかにしておくだけでも読書の意味はあるのかもしれないと感じた。今回のメモを見返すと、どうも今の自分ではそれより先に存在する一段深い意味を発見しに行くことは時期尚早であり、より深い意味を掴むためには自分の成熟が必要なのだと思う。

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