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438. 多様な文化から


以前紹介したように、現在私が履修しているオランダ語のコースには様々な国からやってきた受講生が集っており、各国の情報を教えてもらえる良い機会になっている。昨日のクラスで隣に座っていたイタリア人のファブリツィオと先週末に出されたライティングの課題について話をしていた。

この課題は、自国の食べ物を説明するというものである。寿司を取り上げるのはありきたりだと思ったため、私はお節料理を取り上げることにした。ファブリツィオに聞いてみると、彼はカルボナーラパスタを題材にしたらしい。以前から気になっていたことをいくつかファブリツィオに聞いてみた。

:「ファブリツィオは何を題材にしたの?やっぱりピザ?」

ファブリツィオ:「いや、カルボナーラパスタにしたよ。」

:「そういえばイタリア人は週に何回ぐらいパスタを食べてるの?」

ファブリツィオ:「僕は週に四回ぐらいかな。ピザは週に一回ぐらい。こっちに来てからピザは全然食べてないけど、パスタはやっぱり週に四回は食べてるね(笑)」

:「日本人にとっての米みたいだね(笑)」

ファブリツィオ:「そうかもね。それで思い出したけど、ミランでは日本食レストランが多くなってきていて、イタリア人にとって日本食レストランはなぜだかカッコイイものに響いてるんだよね。」

:「へぇ〜、それは面白い。日本では逆に、「イタリアン」と聞くとカッコイイものに響いてるんだよね。」

極めてたわいもない話であるが、イタリア人にとってのパスタの位置付けがわかったし、日本食レストランに対してイタリア人が憧れのような感情を抱いていることもわかった。日本人が「イタリアンレストラン」や「フレンチレストラン」という言葉に抱く心象イメージと同じようなものを、イタリア人は「ジャパニーズレストラン」に対して持っているようなのだ。

しかし、ファブリツィオが話をしている時の表情から察するに、どうも両者の心象イメージの根源は異なるように感じた。具体的には、日本人が「イタリアン」や「フレンチ」と聞くときに湧き上がる感情の根底には、やはり西ヨーロッパに対する「西欧コンプレックス」のようなものが横たわっている気がしてならない。

この種のコンプレックスは人口に膾炙している現象であるが、もはやそんなことはないと思っていても、自分の行動や意思決定の中にこの種のコンプレックスがもたらす影響を見て取れることが多々あるのではないだろうか。

一度根付いたこうした集合的なコンプレックスを払拭するのは非常に困難であり、ほとんどの人たちが今も無意識下でこのコンプレックスに縛られているように思う。一方、ファブリツィオの話し方や表情などから推察すると、そこには日本に対するコンプレックスのようなものはほぼ皆無であり、やはり「憧れ」という感情の出所は両者でまるっきり異なっているように感じたのだ。

その後、アテネ出身のギリシャ人のアンタと別のエクササイズを一緒に行っていた。私が参加しているクラスにはイリアーナというもう一人のギリシャ人がいるのだが、アンタにせよイリアーナにせよ極めて社交的な性格をしている。

アンタ:「ヨウヘイは香港出身よね?この間、別のクラスで香港出身の人がいて、彼の顔の形を見てヨウヘイを思い出したわ(笑)」

:「いや、僕は香港出身じゃなくて日本出身だよ・・・(笑)」

アンタ:「あっ、そうだったけ?(笑)いずれにせよ、顔の形が珍しいから印象的だったの。」

ギリシャから来たアンタにしてみれば、日本人と香港人の顔は同じものに映るのだろう。これもまた面白いことである。私はたいていの場合、中国人や韓国人と日本人の区別が付くが、やはり西洋人にしてみれば東洋人の顔の区別は難しいのだ。

逆に、東洋人にしてみれば西洋人の顔の区別は難しい。どの国に生まれたかによって、微細な差異を認識できる力が発揮される領域が異なるのだ、ということに改めて気付かされた。その後の会話で、アンタから夏のギリシャを勧められた。

これまでギリシャは私にとっては遠い存在だったのだが、最近少しずつその距離が縮まってきていることを実感している。実際に、来年の夏はギリシャを訪れようと思っていたので、アンタからの一声によって、ギリシャが一歩また私に近づいてきたように思えた。

クラスの帰り道、先週と全く同じ場所でファブリツィオと中国人のシェンが立ち話をしているのを発見した。私はすかさず彼らに近寄り、二人の肩を叩いた。二言三言の会話を交わし後、ファブリツィオは中央図書館の方向に消えていった。シェンと私は共に同じ方向に向かって歩きながら、言語と文化の話をしていた。

シェンから中国語の変遷に関する話を聞いてみると、何やら1940年代の終わりに、中国語を簡素化する動きが始まったそうだ。簡素化というのは、漢字の一部を崩すような表記に変わったことを意味するらしく、実際に幾つか例を見せてくれた。確かに、漢字の一部が崩されたように簡素化されていて面白かった。シェンにもこれまで気になっていたことを聞いてみた。

:「そういえば、中国人は漢字を忘れることや書けない漢字はないの?自分はどんどん漢字を忘れていくことや書けない漢字が多いことに愕然とすることがあるんだけど(笑)」

シェン:「う〜ん、基本的に忘れることはないね。書けない漢字もほとんどないと思う。」

:「じゃあ、今シェンが手に持っている日本語のテキストに描かれている「バーベキュー」という漢字は簡単に書けるの?」

シェン:「うん、もちろん書けるよ「烧烤」だよ。あっ、ちなみに簡素化される前の場合だと「燒烤」だね。」

:「すごいね!じゃあ、果物の「レモン」は?日本人でこの漢字を書ける人はほとんどいないんだけど。」

シェン:「はは、「柠檬」だね。簡素化前は「檸檬」。」

日本人の私からしてみると、このように難解な漢字をいとも簡単に書けてしまうことは驚きなのだが、よくよく考えてみると、「『バーベキュー』や『レモン』をカタカナで書いてください」と日本人に質問するぐらいのレベルなのだろうとわかった。いずれにせよ、今日のクラスを通じて、改めて文化的な差異に強い関心を持つようになったのは確かである。

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