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392. 進歩の実感


前回のオランダ語のクラスで自分の不甲斐なさを痛感したため、火曜日から金曜日にかけて工夫を凝らしながらオランダ語の学習を進めていった。その成果を試す気持ちで、本日の第六回目のクラスに臨んだ。

第五回目までに習った単語や表現を自分で使えるレベルにまで訓練を重ねていたため、語学センターへ向かうまでの今朝の足取りは大変軽かった。軽快な足取りに合わせて、ブツブツとオランダ語で独り言をつぶやきながら教室のある建物へ向かっていった。

人間の知性や能力は、これまで紹介してきたように、自分の感情状態や身体状態、そして置かれている文脈や与えられるタスクによって大きく変動する。もちろん、タスクや文脈に私たちが積極的に関与し、それを固定化させたり変化させたりすることは可能なのだが、最もマネジメントしやすいのは自分の感情状態や身体状態だろう——これも難しい場合があるが。

昨夜もいつもと同様に十分な睡眠をとり、本日の身体状態は極めて良好であった。そして、学習に最適な感情状態を生み出すために、教室に入るや否や、いつも以上に活気に溢れた挨拶をクラスメートに対して行った。

言葉には常に生命力や魂が宿っていると私は考えており、そういえばこの前のクラスでは、第一声に生気が宿っていなかったと反省をしていたのだ。教室空間に飲み込まれるのではなく、教室空間そのものを自分の学習に最適な状態にするかのように、まずは自分の感情状態を整えたのだった。

これが功を奏して、今日のクラスは終始、肯定的な気持ちのまま学習を進めていくことができた。先日のクラスを含め、これまでのクラスを全て振り返ってみたときに、自分の感情状態やオランダ語の能力が動的に変動しており、改めてこれは面白い現象だと思った。

もちろん、オランダ語の能力の成長プロセスを可視化するために、定性的・定量的なデータを厳密に収集しているわけではないのだが、常にクラスの前後で内省を行うことによって、大雑把な観察データを集めているようなイメージである。

そのようにして収集されたデータをもとに、自分を実験台として、あれこれ発達支援の戦略を練ったり、考案したささやかな発達支援手法を自らに適用している毎日である。ここのところ、もはや私は発達科学を学んでいるというよりも、発達科学を通じて生きているような気がするほどである。発達科学を学ぶために生きており、生きるために発達科学を学んでいる、というような感じだろうか。

それにしても、新しいことを学ぶ喜びや何かが少しずつできるようになる喜びというのは、幾つになっても変わらないものだとつくづく思わされる。これまでの私は、すべての感情は私たちの成熟に合わせて質的変化を遂げると思っていたが、感情に意味づけをする当人に質的変化が起こるのであって、感情の性質は不変的なのではないか、というように少し考えを改めている。

以前どこかの記事で紹介したように、幼少期と今を比べて、学ぶ喜びや進歩を実感する喜びの色や味が異なっているかのように解釈や意味づけができたとしても、それらの喜びの本質にあるものは同一のような気がしているのだ。

喜びとして湧き上がってくる「それ」に対してより深みのある意味を付与できたとしても、「それ」そのものの本質は変わらないと思うのだ。現在、私が試みているのは、湧き上がってくる感情と深く付き合うためにも、出来る限りの意味をその感情に付与し、それと同時に、その感情の本質そのものを絶えず捉えようとすることである。

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