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347. 地から天へ天から地へ


昨日の新たな友人関係の広がりについて少しばかり考えていた。つくづく人間は人との関係を通じて学ぶものだと思わされた。これは言い古された言葉なのかもしれないが、間違いなく私たち個人個人は人と人との間に存在している社会的な生き物である。それゆえに、ある個人が何かを学ぼうとするとき、学びや実践を共有する他者の存在は不可欠となると思うのだ。

昨日湧き上がっていた感情というのは、学びに関して実に根源的かつ必須のものなのではないかと思うに至った。成人期に入っても、いや成人期を迎えたからこそ、他者と共同することによる学びの重要性を痛感させられたのだ。

それにしても昨日シーサーに出会ったときに感じた閃光のようにほとばしる喜びは何だったのだろうか。学びには触発性があるのかもしれない。まだ一度しか会話をしていないこのキューバ人に対して、なぜだか強い親近感があり、彼が私の学びを刺戟する触媒のような掛け替えのない存在に思えるのだ。

改めて思い返してみると、そうした閃光のようにほとばしる喜びという感情が上から下へではなく、下から上へという動きを伴って生じるのが面白かった。ということは、どうやらこの感情の根源は地上にあり、地上から天上へと向かおうとする感情エネルギーが内包されているのかもしれないと思った。

学びに関するこうした地上から天上へと向かう感情は、よくよく思い起こしてみると、実際にこの瞬間に生きている他者と学び合う中で感じることが多いように思う。そういえば、これまで提供してきた発達理論に関するオンラインゼミナールの中で、受講生とやり取りをするときにこうした感情を度々感じていたことを思い出した。とても有り難いことである。

地から天へと向かうこうした感情を最近の私はどうやら忘れていたようである。感情の回路が閉じかかっていたところでシーサーに出会うことができたのだ。忘れつつあった感情を呼び覚ますようなやり取りが昨日の彼との対話の中であったため、閃光のようにほとばしる喜びが背筋を駆け昇っていったのだろう。

一方、学びに関する感情のベクトルはどうも地上から天上へという方向のみならず、天上から地上へという方向もありそうなのだ。過去の偉大な哲学者の思想と真に触れた時、あるいは過去の偉大な芸術家の作品に真に触れた時は、下から上へでは決してないのだ。上から下なのだ。

これは先日の欧州小旅行で訪れたシューマン博物館で得られた確信と関係があるかもしれない。過去の偉大な哲学者や芸術家が偉大であると言われる所以は、やはり彼らが残したものが普遍性と永遠性を身にまとったからだと思うのだ。

そして重要なことは、こうした普遍性や永遠性の帰属は天上にある。だからこそ、彼らの作品が体現する普遍性や永遠性に触れた時には、天から地への感情エネルギーが身体を駆け下りていくのではないか、と思った。

偉大な作品はどれも共通して「啓示的」な何かを内包しており、私たちの存在を宙吊りにするような力がある。「宙吊り」にされるためには、下からではなく上からの働きかけが必要だろう。

さらに、こうした啓示的な力は「頭を金づちで殴られたような感覚」と形容されることがしばしばある。地面から金づちで頭を殴られた人を見たことがあるだろうか?少なくとも私はない。金づちで頭を殴られるためには、その人よりも高い地点から何かしらの働きかけが必要なのである。これこそが天上から地上への働きかけだと思うのだ。

こうした働きかけを私にもたらしてくれたのはやはり過去の偉大な作品が多く、正直に過去の自分を振り返ると、現存する人物の作品がこのような感覚を私にもたらしてくれたことはほとんどないかもしれない。強いて挙げるとすれば、アメリカの思想家ケン・ウィルバーの作品などは天上からの衝撃に近かったように思う。

そう思うと、今に生きる人間が真に偉大なものを創出することが困難な時代に私たちは生きているのかもしれない。

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