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299. 自己超出の時へ


休日の今朝は、フローニンゲンの街を代表するサッカーチーム「FCフローニンゲン」のスタジアムまでランニングをしてきた。いつもと違うコースを走るというのは、何かと新しい発見があり、実に新鮮である。

街中を走るというのは、近くの公園を走る時とはまた一味違う意識状態の中で体が動いている感じなのだ。FCフローニンゲンのスタジアムを遠目で確認することができ、スタジアムに向かっていく感覚が強まるにつれ、逆にこれからの生活の中で何か手に負えない類のものがひたひたと自分の身に迫ってきているのを感じたのだ。

この瞬間、自分が再び生まれ変わる時が近づいているのかもしれないと察知した。より正確には、この世で生を受けた時に現れ出た自己が成熟を迎え、その自己から超出していくような時期が近づいてきているのを感じたのだ。

私たちは生誕する時に、産みの苦しみを感じることはない。もちろん、トランスパーソナル心理学の代表的な研究者であるスタニスラフ・グロフの理論に従えば、母親のみならず、生まれ出てこようとする私たち自身も何らかの苦しみを経験しているというのは確かだろう。

しかし、それらの苦しみに関する記憶が無意識の領域に残っていたとしても、顕在意識の領域でその記憶を思い出すことはなかなかできない。また、生まれ出てこようとする苦しみ自体を私たちは自覚的に経験しているわけでもないのだ。

一方、このように生まれ出てきた私たちの自己が成熟を迎え、それを超え出ていくような段階に至って初めて、再び生まれ出てくる自分自身に対して産みの苦しみを経験することになるのだと思う。

構造的発達心理学で言うところの「トランスパーソナル段階(自己超越段階)」というものが何を意味するのか、そしてそこに到達する際に経験しなければならない「人生の暗夜」というものが一体どのようなものなのかについて経験的に掴み始めている気がするのだ。

アメリカの思想家ケン・ウィルバーが自らの思想区分を「第二期」と呼んでいた時代に提唱された意識の発達モデルを改めて眺めてみると、私たちの意識は生まれ出てから一つの円弧を描くように再び元の位置に戻ってくるような図が提示されている。

これは生誕したのと同じ段階に退行するというような意味では決してないし、生誕時の未分化の世界観を礼賛するようなロマン主義的な見方でもない。自分の身に迫りつつある「この感覚」に忠実になろうとする時、ウィルバーが提唱したこの円弧を描くような図が重要な意味を持ち、そして否定することのできない妥当性を持ち合わせているような気がするのだ。

この半年間を境目とし、自分の知覚世界が独特の様相を帯びるようになり、毎日の自分の世界の捉え方や感じ方が新生児のようなものに思えていたのは、こういう理由からだったのではないかと腑に落ち始めている。こうした気づきに至るために、そして再び生まれ変わる自分に戻ってくるために、オランダという随分と辺鄙な場所に来てしまったものだと感じざるをえない。

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