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226. 普遍性の獲得プロセスとしての人間発達


チェコの作曲家アントニン・ドヴォルザークの『新世界より』がiTunesから流れ出す。これは、私が5年前に渡米する直前に知人から頂いたCDである。

この曲の第二楽章は、日本において『遠き山に日は落ちて』として広く知られている。私が長く時間を過ごした山口県の故郷では、夕方の時を伝えるためにこの曲が流れ、幼い時の私はこの曲を聴きながら日本語の歌詞を口ずさんでいたのを思い出す。

ドヴォルザークのこの曲は、時代も場所も問わずに聴き続けられてきたものだろうし、これからも受け継がれていくものなのだろうと感じた。この曲にはやはり普遍的な何かが存在しているのだ、そんなことを思った。

数々の発達論者が高度な段階を命名する時に用いる “principle” “axiomatic” “universal"という言葉は、これまでいまいち掴みどころのないものとして自分の眼前に立ちはだかっていた。しかし、目の前に覆われた雲が少しずつ消えていくのを実感しつつある自分がいる。

元ハーバード大学教育大学院教授カート・フィッシャーは、自身の理論モデルの最上位に "principle(原理・原則)”段階を置いている。また、マイケル・コモンズは、高度な発達段階は "axiomatic(公理的)”な特徴を持つと指摘している。

さらに、ロバート・キーガンの弟子であり、自我の発達研究で有名なジェーン・ロヴィンジャー(1918-2008)の理論モデルを洗練させたスザンヌ・クック=グロイターは、彼女の発達モデルの最上位に位置する発達段階6の特徴を “universal(普遍的)”という言葉で表現している。

それらの発達モデルで提唱される高度な段階の全てに共通する特性は、「普遍性」と言えるだろう。つまり、いかなる知性領域・能力領域においても、健全な成長・発達とはつまるところ、普遍性の獲得プロセスであるということだ。さらに言いかえると、どんな能力にせよ、高度に発達していくというのは、その能力が普遍性を帯びていくことに等しいのだ。

ここ最近、私はフランス文学者かつ哲学者でもある森有正先生(1911-1976)に大きく感化されている。彼が経験について語るとき、思想について語るとき、個人の経験や思想と密接に関係する発達理論を学んでいる私に対していつも大きな驚きをもたらしてくれる。

森先生は、人間には一人一人が個人になるということ、つまり真の意味でその人になることを後押しする「内側の促し」が存在すると指摘している。そして、内的な促しに応じて、独自の経験が私たちに提示される。そうした独自の経験に名前を与えるために言葉が生まれ出て、その言葉がひとつの体系を形成するときに初めて個人の思想というものが生成されると言う。

さらに重要なことに、体系化された思想になって初めて、私たち固有の内側の促しによって生まれ出た経験が結晶化され、万人がそれに参与することができるようになる、ということを森先生は述べている。

要するに、このコスモスで一回限りの輝きを放つ私たちそれぞれの存在が持つ独自の経験は、思想として結実化された時に、広く万人に参照され、彼らの経験を新たに縁取ることになるのだ。私はここに、普遍性を読み取る。

人間が成長・発達していくことは、自らの内側に普遍性を構築していくプロセスであり、自らが普遍的な存在になることなのではないか、そんなことを思わされた。奇しくも、フィッシャー、コモンズ、スザンヌ・クック=グロイター、森先生を筆頭に、人間の成熟を真摯に探究し続けた人たちが発見したことは、「普遍性」という言葉に凝縮されている気がしてならない。

どんな分野でも、その道で研鑽に励み、独自の思想を紡ぎ出している人に対して私は心を打たれる傾向にある。人を惹きつけてやまないもの、それは普遍性がこの世に具現化されたものなのだろう、ということを思う。

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