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222. 遠いオランダからの厚意に応えて


以前、「発達理論実践編ゼミナール」のFBグループディスカッションの中で、文科省で小中高校の英語教育に携わっておられた方から興味深い話を聞いた。第二言語を習得する際には、「生活言語」と「学習言語」という異なる二種類の言語能力を獲得する必要がある、という話だった。

生活言語とは文字通り、日常生活を営む際の会話の中で用いられる言語である。店でのやり取りや他者との挨拶・雑談などが例として挙げられる。一方、学習言語とは、活字を通して思考することや議論することに用いられる言語である。

とりわけ海外で暮らす帰国子女にとって、学習言語をどの国の言葉でどれだけ深く習得しているかは、彼らの後々の知性の発達に多大な影響を与えると思っている。日本語を母語として育った子供が海外で生活をせざるをえなくなる時、どれだけ強固な学習言語を日本語で獲得しているかが、第二言語で学習言語を習得していくことの鍵を握ると思う。

母国語というのは、思考運動において自分の利き腕のように機能するものだと考えている。ただし、物理的な腕と少し違うのは、利き腕の能力が伸びることによって利き腕でない方の腕、つまり他の言語を使うときの思考力も伸びていく、というような相関関係があるように思う。

人間の思考能力を一つの動的なシステムと捉えると、利き腕に喩えられる母国語能力は「コントロール・パラメータ」だと言える。コントロール・パラメータとは、ダイナミックシステム理論において、動的なシステムを変化させる鍵となる特定の要素のことを指す。

要するに、このコントロール・パラメータ——ここでは母国語能力——の成長がなければ、システム全体——ここでは思考能力——の成長が起こりえないということである。私は米国時代、Lecticaでの仕事と並行して帰国子女の教育に携わっており、その経験上、思考能力の成長を左右する母国語能力の重要性を痛感していた。

私は25歳の時にアメリカへ渡ったが、成人期以降に第二言語を習得することに苦戦を強いられ、様々な試行錯誤をしてきた。私は米国の大学院へ留学をしていたため、高度な学習言語を英語で習得し、それを駆使して思考運動することを迫られていた。

同時に私が抱えていた課題は、生活言語をどこまで身につける必要があるのかに関する線引きだった。私が取った手段は学習言語の鍛錬を優先させることだった。それは結果的に功を奏し、書き言葉の習熟に応じて、少しずつ米国の文化を理解し始めることができたように思う。

当時痛感していたのは、真の意味でその国の文化を理解しようと思ったら生活言語を習得するだけでは不十分であるということだった。文化は生活言語と学習言語が織りなす有機体のような存在だと思う。

どちらかが欠けてしまったら、その文化は死滅してしまうだろう。また、生活言語よりも習得が難しい学習言語の力が弱い場合、その国の文化を真の意味で体得しながら生きることは難しいと思う。

そう考えると、私はオランダという国の文化を真の意味で理解できない可能性があると今から危惧している。今から学ぼうとしている私のオランダ語は生活言語の域を出ない。

いっそのこと、英語を普遍語の地位から引きずり下ろしたい暗澹たる気持ちになったが、その思いを糧にオランダ語における学習言語の習得についても何か策を講じていきたいと思う。

書きながらやはりこの思いは嘘に満ち溢れていると感じた。オランダがまだ遠い。自分の中にオランダはいない。しかし、オランダは自分を快く受け入れてくれようとしている。

晴れてオランダから奨学生として認定していただき、返済不要の奨学金が支給されるという通知を得た。とても光栄なことだと思った。

オランダからの厚意に応え、自分の中にオランダを見つけるためには、制裁のような、鉄槌を振り落とされるような衝撃が自分には必要だと思った。

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