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152. 人材育成に蔓延する歪な「平等主義」:生得説の欠落


人間の発達を考える際に、発達は先天的なものであるという「生得説」と発達は後天的なものであるという「経験説」があります。どちらの説を採用するかは、長らく発達理論の分野において議論された論点です。

現代の発達科学の研究が明らかにしているように、どちらの説も一定程度正しいのです。しかし、人材育成コンサルティングや臨床実践(発達コーチング)を行っている経験からすると、どうも企業社会では生得説に対する認識が薄いような気がしているのです。

「人材育成」という言葉の裏には、「人間はトレーニングによって必ず成長していく存在である」という発想が横たわっていると思います。人間心理として、誰もが成長を希求する欲望を持っているのは周知の事実ですし、人間には無限の可能性があるという言説に乗っかりたいという思いが生じるのは仕方ないでしょう。

しかし、こうした発想はどれも、人間は環境や学習によって成長する存在であるという経験説に裏打ちされているものであり、生得説の観点が抜け落ちてしまっているのではないでしょうか。

生得説の観点からすれば、人間の成長には生まれついて持った固有の限界が存在します。それにもかかわらず、企業社会はこうした固有の限界を考慮に入れず、「全ての人間はトレーニングよって成長する」という歪んだ「平等主義」を信奉しているのではないでしょうか。

身も蓋もない言い方をしてしまうと、いくら質の高いトレーニングを提供しても、伸びない人は伸びないのです。身長170cmの人間に対して、専属トレーナーを付けて垂直跳びの訓練を毎日積めば、ダンクシュートができるようになるから頑張れと背中を押しているに等しい感じが私の中ではしています。

もちろんここで取り上げている「成長」や「発達」というのは、認知的発達心理学の枠組みに基づく、垂直的な認知構造の発達のことを指しています。そのため、トレーニングをすれば、表面的なスキルが身につくという効用はあるでしょうが、垂直的な発達に限って言うと、その人に相応の資質が備わっていなければ、発達など起こりようがないのではという考えに至っています。

「発達理論や学習理論の枠組みに基づけば、万民の成長を促すことができます」という主張は、一見すると親切に思えます。それに対して、「生得説と経験説のどちらも考慮すると、いくらトレーニングを積んでも成長しない人は成長しないので、無駄なトレーニングは控えましょう」という主張は、一見すると不親切に思えます。

さて、どちらが真の意味で親切な(真っ当な)主張でしょうか。もちろん、人間に与えられた潜在力を顕現させるために、発達理論や学習理論に習熟した支援者や教育者が必要になるのは言うまでもありません。

ただし、それと同時に大切なのは、そもそもその人間に賦与された資質を見抜く眼力を備え、上記の「真の意味で親切な提言」に基づいて支援を行うことではないでしょうか。

【追記:生得説と経験説】

生得説と経験説は実に精妙な概念関係が締結されていると思います。その様子は、陰と陽の関係、もしくは影と光の関係に形容できるのではないでしょうか。

すなわち、一方の言説を選択すると他方が見えなくなり、片方の言説のみを信奉してしまうという事態が生じます。インテグラル理論で言うところの高度な認識形態「ヴィジョン・ロジック」に到達していなければ、両者を同時に把捉することは不可能です。