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37. 生得論と目的論を超えて:発達の青写真と発達の行く末


これまでの記事で明らかなように、人間の発達は、実に複雑で神秘的ですらある現象です。それでは、私たち人間の発達に終着点はあるのでしょうか?

目的論的な考え方を採用すると、発達現象には目的があり、私たちはどこかに向かって発達しているとみなすことができます。しかし、実際のところ、私たちは特定の目的に基づいて発達しているわけではありません。

つまり、私たちの発達には最終的な目的地など存在せず、そこに待っているのは「死」です。仮に悟りの段階と呼ばれる高度な発達段階に到達したとしても、そこで発達が終わることはありません。

高度な発達段階に到達したとしても、何ら目的なるものが達成されたことにならないことを鑑みると、目的論的な発達思想には限界があります。目的論的な発達思想の限界を暴いたのが、ダイナミックシステム理論の考え方です。

そこでは、発達現象に目的を見いださず、人間の発達を動的なリビングシステムが内包する自己組織化の産物とみなします。

また、生得論者が述べるように、私たちの発達過程は、生まれる瞬間、あるいはそれ以前から設計されたものなのでしょうか?実際は、私たちの発達に青写真など存在せず、私たちはあらかじめ定められた道をたどって発達していくわけでもありません。

この点に関して、カート・フィッシャーは、私たちの発達はあらかじめ定められたものではなく、社会的現実世界という大海を生きる中で構築されていくものであると述べています。この指摘は、まさに「発達の網の目構造」という概念に現れています。

結論として、私たちの発達に目的論的な究極のゴールがあるわけでもなく、生得論的なあらかじめ定められた青写真があるわけではありません。私たちの発達は、今、この瞬間にリアリティで生起する文脈によって生み出される関係性の産物なのです。 質問・コメント・記事の共有をご自由にしていただければ幸いです。

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