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11451-11461: フローニンゲンからの便り 2023年11月30日(木)



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成人発達理論とインテグラル理論を楽しく学んでいただける「成人発達コラボラジオ」を2023年7月14日より始めました。

タイトル一覧

11451. 今日のマッシュルームの収穫と第2回目の栽培に向けて

11452. 今朝方の夢

11453. 「サイケデリクス非ナチュラル論争」 について思うこと

11454. 「サイケデリック·ナイーブ問題」 について思うこと

11455. ウィリアム·ブレイクの格言から自分がこの社会に対して行っていきたい貢献について

11456. 現在人が抱える窮屈さと閉塞感について/社会的に構築されたメンタルモデルを宙吊りにする効果を持つ古典的サイケデリクス

11457. バーナード·カストラップの文体から/無限曼荼羅の恩恵を受ける自己

11458. 今後の英文書籍の出版の方向性について

11459. 奴隷解放手段としてのサイケデリクス/宿便を溜めた宿便的現代人の救済手段としてのサイケデリクス

11460. 大規模で幻覚症を患う現代人/写像リアリティからの脱却

11461. 知的活動の基盤になる身体が構築されて/メタファーと詩的言語を活用して


11451. 今日のマッシュルームの収穫と第2回目の栽培に向けて


時刻は午前4時半を迎えようとしている。昨日は午後9時には就寝したのだが、今朝は午前3時ではなくてちょうど4時に起床した。このように、その日の身体の状態に応じて体が求める量の睡眠時間を確保したいと思う。夕食後の時間帯は午前中と比べると集中力が落ち、頭の働きも午前中ほどではないので、疲労感を感じる前に寝るのに限る。疲れたと思ってから寝るのではなく、疲れを感じる前に寝るというのが身体の速やかな回復を促す上で重要なのではないかと思う。疲労感を感じる前に就寝することによって、睡眠によって身体を回復させることに時間が奪われることが少なくなり、結果として早く起床できる。そのようなメカニズムがありそうだ。

今の気温はなんとマイナス3度である。室温も暖房の設定温度よりも下がっていて19度を示している。ここから正午までずっとマイナスの気温のようで、今日の日中の最高気温は1度とのことである。午後にジムに行く際には相当な寒さを感じるのではないかと思うが、今日のジムでのトレーニングも楽しみである。パーソナルトレーニングを終えたら、そこからもう30分間をローイングマシンとランニングマシンを活用する有酸素運動に充てたいと思う。散歩以外の有酸素運動を本格的に取り入れることによって、心身がまた肯定的な変化を見せており、ここからも有酸素運動を積極的に日常のトレーニングに組み入れていきたいと思う。

先ほど起床後の水を飲んだ後、シロシビン·マッシュルームの栽培キットを眺めた。すると昨日収穫しなかった小さめのマッシュルームが一気に大きくなっており、今日もまた収穫したいと思う。今回の収穫を1回目の収穫の最後とし、栽培キットの地中にある全てのマッシュルームを綺麗に取り除き、そこからまた2回目の栽培に向けて、同様のプロセスを減る形で栽培を再開させたい。ここからの栽培回数にはばらつきがあるらしく、少なくとももう一回は栽培が可能で、平均は2~3回、多くて5回も収穫が可能とのことである。そのばらつきがどのような要因で発生するのか気になるところである。栽培キットの中に外の菌を入れないというのは大切らしく、それが決定的な要因になるのかは不明なので、その他の要因についても仮説を立てたり、調査をしてみたいと思う。

今日の収穫においては、乾燥させる前に重さを測り、乾燥させて水分がどれだけ飛び、何パーセント重さが減少したのかを記録しておきたいと思う。昨日の収穫では乾燥後の重さを測っていたが、そもそも最初に何グラムだったのかは不明であり、最初に重さをきちんと測っておけば、オーブンでの乾燥によってどれだけ重さが減ったのかを知ることができたという反省がある。それは今後の栽培において役立つ情報だと思うので今回はきちんと記録に残しておこうと思う。フローニンゲン:2023/11/30(木)04:36


11452. 今朝方の夢


今朝は部屋の温度が暖房の設定温度よりも低いのにもかかわらず、暖房が入る音が聞こえてこない。暖房も少し休憩をしているようだ。あるいは外の気温が相当に低いため、暖房が入っているのだが外の気温の低さに負けて部屋の温度がそれほど上がっていないのかもしれない。

今朝方は2つほど夢を見ていた。まず覚えているのは、見慣れないテーマパークにいる場面である。そこは日本なのか外国なのかはよくわからず、雰囲気としては日本のようでいて、外国のようでもあった。実際にそこにいる人たちの中にいる人たちも日本人は少数で、むしろ外国人が多かった。そのテーマパークの中を歩いて散策していると、テーマパークの真ん中で行われている出し物に出会した。そこでは、小さなトナカイと火を使う人間が闘っていて、それを見せ物にする形のショーが行われていたのである。トナカイはまだ本当に小さく、外見も大人しそうで、人間と闘うようなショーには向いていないように思えた。人間の方はかなり筋骨隆々な男性で、国籍はどこかわからず、雰囲気は中世や古代に生きていた人間のように思えた。ショーの周りには人だかりができていて、火を使う人間と逃げ回るトナカイの闘う様子を人々は楽しんでいた。私はそのショーを見ながら心が痛んだ。どこからどう見てもそのトナカイは闘うことには向いておらず、人間側からの一方的ないじめに思えたのである。しばらくそのショーを傍観しながらも、途中でいてもたってもいられなくなったので、トナカイに火がぶつかりそうになったときにそのトナカイの前に立ち、火を払い除けてトナカイと一緒にその場から逃げた。そのような場面があった。

それ以外に覚えているのは、高校時代の友人(HH)と見慣れない大きな座敷で話をしている場面である。彼とはそこで最近の欧州サッカーの話をしていたのだが、途中からより真面目な話となり、海外留学の話となった。どうやら彼も海外での生活や留学に興味があるらしく、そこからは彼の相談に乗る形で自分の知っていることを伝えていった。しばらく話をしたらお腹が空いてきて、ちょうど座敷に食事が運ばれてきた。見ると、見事な日本料理が運ばれてきて、久しぶりにこんなに豪華な日本料理を食べられるぞと思って嬉しくなった。今朝方はそのような夢を見ていた。

それでは今から朝の呼吸法とアニマルフローを行い、今日も正午まではサイケデリック研究に没頭したいと思う。今日はいよいよ、先日届けられたオランダ人哲学者のバーナード·カストラップの書籍を読み進めていく。その途中に休憩がてら、メタ存在論やMIT出版から最近出版されたばかりのサイケデリクスに関する学術書を読み進めていきたい。フローニンゲン:2023/11/30(木)04:49


11453. 「サイケデリクス非ナチュラル論争」 について思うこと


時刻は午前5時半を迎えた。先ほど無事に2回目の収穫を終え、2度目の栽培に向けて準備をした。一度全てのマッシュルームを栽培キットから取り除き、20度を少し超えるぐらいの水を栽培キットに浸し、しばらく時間を置いて水を捨て、再び栽培キットをビニール袋に入れるというのがここからのプロセスだ。栽培キットの土を水に浸すのは5分ほどが目安になっていて、1日置きっぱなしにしないようにという警告があるが、Youtubeなどの動画では結構多くの人が冷蔵庫にそのまま入れて1日起きっぱなしにしていたりもする。自分は一応説明書に従い、5分よりも眺めに30分ぐらい水に浸しておき、後ほどモーニングコーヒーを淹れる際に水を捨て、次のプロセスに進む。次のステップは、栽培キットを付属のビニール袋に入れ、土ではなく栽培キットの下に水を注ぐような形で200mlから250mlの水を加えていく。それが終わるとビニール袋を2つのクリップで閉じて、あとは室温を20度から25度に保った形でキノコの頭が出てくるまで何もせず静かに待つという単純な流れである。

2回目の収穫は、フレッシュなマッシュルームの状態で31.7gだった。アルミホイルの重さが3.0gもあることに驚いたが、今使っている測りはとても便利で、下に敷く物の重さを一度計測したら、それを0にリセットする形でその上に測りたいものを置くと純粋にその物の重さが測れる。さてこれからオーブンで数時間ほど乾燥させ、どれくらい重さが減るのか楽しみである。

マッシュルームの収穫をしながらぼんやり考えていたのは、「サイケデリクス非ナチュラル論争」 と命名できるであろう主張についてである。それは端的には、「座禅や瞑想は、サイケデリクスを摂取するよりもナチュラルだ」という主張である。あるいは、「サイケデリクスの摂取はナチュラルではない」という主張だ。果たしてこれは妥当性のある主張なのだろうか。自分の答えは否である。おそらくこうした主張はサイケデリクスが何かを知っていないという知識不足と、サイケデリクスとハードドラッグを混同し、サイケデリクスは悪だとみなす文化的枠組みに縛られているところから生まれるのではないかと思う。サイケデリクスにはいくつかの種類があるが、例えば古典的なサイケデリクスの今育てているシロシビン·マッシュルームを例に取ってみよう。またアヤワスカというある種のハーブティーと読んでもいいお茶を例に取ってみよう。果たして長時間座ることとマッシュルームを食べることやハーブティーを飲むことのどちらが動物としての人間としてナチュラルだろうか。座禅や瞑想はそもそも自然の中にあったものではなく、人間が人工的に修行の目的で作り出したものである。座禅や瞑想こそ非ナチュラルだと言えるかもいれない。一方マッシュルームは自然に生息しているものである。人間が人工的に作り上げた実践をするのと、自然に生えているマッシュルームを食べるのとどちらがナチュラルかと問われた時に、サイケデリクスに関する論調になると前者がナチュラルだと答える人が多く、さらに後者は悪いものだとみなし、規制の対象にするという論調が起きるというのはどこかおかしいのではないだろうか。 こうした荒唐無稽な事態が生じるのも、無知と社会的バイアスからの脱却ができていない証拠であり、この問題の解決に向けて様々な取り組みをしていこうと思った次第である。それでは今からモーニングコーヒーを淹れ、栽培キットの地中の水を捨てて、2周目の栽培プロセスに入りたい。フローニンゲン:2023/11/30(木)05:48


11454. 「サイケデリック·ナイーブ問題」 について思うこと


つい今し方、オーブンで乾燥中のマッシュルームをひっくり返し、2周目の栽培に向けた準備を終えた。ここからまた静かに10日から20日ほど待って、地中からマッシュルームの頭が出てくるのを待つだけである。2周目の栽培でどれだけの収穫量があるのか今から楽しみである。

2周目の栽培に向けて準備をしている最中にふと、サイケデリック研究者とサイケデリクスに関する規制立案者の「サイケデリック·ナイーブ問題」について考えていた。これは哲学的な主題の1つで、サイケデリクスに関係する問題だけではなく、他の分野においても当てはまる。サイケデリクスの文脈において言えば、サイケデリクスを摂取したことのない人にサイケデリクスの研究や規制立案ができるのか、という問題である。これはもう少し言葉を変えると、サイケデリクスを摂取したことのない人にどれだけ有用なサイケデリクスの研究や規制立案ができるのか、という問題と言い換えてもいいかもしれない。この問題について考える時には、「サイケデリックエリート主義」の観点を考えなければならないし、サイケデリクスを摂取したことがないからこその客観的な意見の価値も認めなければならない。とりわけ後者は客観的な意見が重要なのだが、これは実はサイケデリクスを摂取したことのある人の場合でも等しく重要になる。サイケデリック研究とサイケデリクスに関する規制の立案は実務領域が異なるので、現在自分が従事している前者の話で言えば、よく例に出されるのは、「モーツァルトの曲を一度も聴いたことのない人にモーツァルトの曲の研究ができるのか?」というものである。これについては、研究そのものは自分は可能だと思う。モーツァルトの楽曲の音素構造分析を科学的な手段で解析していく際には、モーツァルトの曲を聴いたことがなくてもそれは可能かと思う。宇宙物理学者は宇宙に行ったことはないが、立派に宇宙について研究している。こうした例は枚挙にいとまがなく、直接体験を積んだことがなかったとしても研究できるものはたくさんあるし、研究の仕方もたくさんあるのだ。しかしながら、主観性の領域をテーマにする場合は少し話が変わってくるかと思う。インテグラル理論で言えば、とりわけ左上象限に関するサイケデリック研究、すなわちサイケデリクスがもたらす主観的体験の研究においては、自分は直接体験はないよりはあった方が良いと考えている。当然ながら主観領域も内と外に分けられ、構造的発達心理学の枠組みを採用する場合には、内面現象を外側から眺める形になるので、サイケデリクスの摂取体験の有無がもたらす影響は幾分弱まる。しかしながら全体としては、主観領域の研究する場合には、当事者意識や当事者感覚を持つためにサイケデリクスを摂取することによって、サイケデリック体験についてその体験がない人よりも共感的に深く理解できることはあるだろう。ここでも自身のサイケデリック体験が思わぬバイアスや思考の盲点を生まないようにすることが注意が必要であるが、それはサイケデリック体験がない場合においても当てはまることである。とりわけ自分のようにサイケデリック体験を現象学的に研究したり、言葉を超える超越体験を難解な宗教的·神秘主義的テキストを参照して文献学的に研究する場合には、自身のサイケデリック体験はきっと活きてくると思うし、それは研究上の財産になると考えている。サイケデリック·ナイーブ問題についてそのようなことを考えながら2周目の栽培に向けて手を動かしていた。フローニンゲン:2023/11/30(木)06:30


11455. ウィリアム·ブレイクの格言から自分がこの社会に対して

行っていきたい貢献について


自分がある意味科学的なアプローチではなく哲学的·宗教的なアプローチからサイケデリクスがもたらす主観的体験を研究したいのは、ウィリアム·ブレイクが残した「一粒の砂に宇宙を見る」という名言の背後にある価値観と感性を自分が大切にしているからなのだと思う。一粒の砂に宇宙を見るためには、一粒の砂を客観的な測定手法で測定しているだけではダメなのである。一粒の砂に対して意味を構築する生き物としての自分の全存在をかけて向き合い、そこから汲み取られる無限に豊かで多様な意味宇宙に関心があるのだ。本当の意味で個を大切にすると言うのは、その人に固有の意味宇宙を大切にすることであり、そこから汲み取られた科学的な計測可能なものに還元できない固有の意味の1つ1つを大切にすることなのではないだろうか。

科学が大切にする真実と主観的真実は異なり、究極的真実もまた異なり得るのだ。それらは重なるものもあれば、多分に差異が生じるものなのだ。科学において重要視される真実は、コントロールされた実験コンテクストでの観察された事象が何度も繰り返し見られる形で担保される。そうして発見される真実も重要だが、いくつか手続きと前提条件におかしなものが科学には絶えず内包されていることに気づく。まずは、コントロールされた実験コンテクストという前提である。私たちのリアリティは、科学者が整備するような無菌状態ではない。私たちのリアリティは絶えずもっと生々しく、絶えず変化に富んでいる。そうした生々しさと変化を捨象する形で整えられた実験コンテクストを出発点に科学的な実験がなされることに注意しなければならない。もちろん社会科学においては、自然科学よりもよりリアルに近いリアリティに入っていく形で実験や研究を進めていく場合もあることも覚えておく必要がある。もう1つ科学のおかしな発想や、整えられた環境の中で発見された事柄が何度も同じ現象として現れることをもってして真実とみなすことである。確かに、リアリティの階層構造が上がってくると、抽象的なメカニズムや法則性はかなり不変的である。しかしロイ·バスカーが指摘するように、リアリティは絶えず変化し、生成を繰り返すものなので、不変的と思われていたメカニズムや法則が変化したり、消滅したりすることも十分にあり得るのだ。それくらいにリアリティは本来変化と可能性に満ちているのである。また、前提条件やパラダイムが変化すれば、そのメカニズムや法則性に変化が生じたり、全く妥当なものではなくなってしまうこともあるのだ。端的には、科学には最初から人為的に虚構性が付きまとっているということである。

自分が大切にしているのは、その人に一回しかやってこないかもしれない真実の開示や現象である。これは科学のように繰り返しの現象顕現や繰り返しの測定を重んじる態度とは馴染まないものである。一見すると、その人に一回しか訪れない真実の開示や現象は客観性の観点から科学に劣ると思われがちだが、実はそんなことはない。認識論における真実の妥当性確保の手続きを踏めば、科学と同等の妥当性をその真実や現象は獲得することができるのだ。現代社会の科学主義的な発想や態度に風穴を開け、科学を大切しながらも、科学ではない学問分野の発想や感性を涵養していくこと。おそらく自分はサイケデリック研究を通じてそのようなことを社会に対して行っていきたいのだろう。それがこの社会への自分なりの貢献の1つの形である。フローニンゲン:2023/11/30(木)07:28


11456. 現在人が抱える窮屈さと閉塞感について/

社会的に構築されたメンタルモデルを宙吊りにする効果を持つ古典的サイケデリクス


おそらく人は怖いのだと思う。自らの主観性を大切にすることや、自らの主観的真実を見ることを恐れているのだろう。さらには、現代社会が重要視するエビデンス重視の科学的な態度ではない態度を表明することを恐れているのだろう。結局多くの人は逸脱を恐れているのだ。他者の目を気にし、社会の目を気にする形で、己の内側の真実や感覚に不誠実となり、それらを蔑ろにする形で外側に適応しているのである。果たしてそうした在り方や生き方は健全なのだろうか。客観的であろうとする態度を一度手放してみたらどうだろうか。手放すのが怖ければ、一度脇に置いてみて、またそうした態度に戻ってみてもいい。とにかく一度今の発想や態度そのものから離れてみることを推奨したい。現代人が感じている窮屈さや閉塞感はきっと、己の真実や感覚を見ない形でそれらに嘘をつきながら、外側の客観的と喧伝されるようなものに自己を還元してしまっていることにその大きな理由の1つがあるように思える。自分が自分から切り離され、計測可能で個別性を失ったものに還元されてしまえば、それは誰でも苦しさを感じるものである。社会が良しとする態度や価値観ではなく、己の内側に素直になってみること。己の内側に純粋になってみること。それは過去の発達段階への退行ではなく、逆に超越の道の歩みである。多くの現代人が苦しみから脱却するための道はもう明確なものとして知覚され始めている。あとはそれを多くの人が実践できるように社会実装ないしはソーシャルデザインしていくだけか。

とりわけ古典的サイケデリクスは、脳のフィルター機能を緩め、これまで自分が無意識的に信奉していた、あるいは搭載していた種々のメンタルモデルを一度宙吊りにする。現象学的にはまさに「エポケー」の状態である。一度これまでの自分のメンタルモデルをある意味強制的に括弧で括られることを通じて、今ままでの自分がどれだけそれらのメンタルモデルに縛られ、またそれらのメンタルモデルを通じてこのリアリティを部分的に切り取っていたかに目覚めさせられる。そのようなことが往々にして古典的サイケデリクスの摂取において起こる。大抵の場合私たちのメンタルモデルはこの社会に適応する形で構築された虚構性を内包したものなので、そうしたメンタルモデルを一度宙吊りにして、それらのメンタルモデルを通じてでは見えなかった自己の真実やリアリティの本当の顔を見てみるというのは検討するべき事柄かと思う。とりわけ現代人のように社会適応する形で構築された病理的な無数のメンタルモデルで苦しんでいる状況を見ると、綿密な学習と調査の上でのサイケデリクスの摂取は真剣に検討されるべきことなのではないかと思う。フローニンゲン:2023/11/30(木)07:56


11457. バーナード·カストラップの文体から/無限曼荼羅の恩恵を受ける自己


時刻は午前8時半を迎えた。ようやく夜が明けて、明るい世界が目の前に広がっている。依然として今の気温はマイナスのままであり、家の前の車庫の屋根にはうっすらと雪が積もっている。今日の日中の最高気温からすると、その雪が解けることはないだろう。むしろ明日からの雪によってそれはさらに増していくのではないかと思う。

昨日は日本思想に関する書籍、そして哲学の関心分野に関する学術書の読解をひたすらに進めていた。ひるがえって今日は、30代から積極的かつ注意深くサイケデリック体験を積んだオランダ人哲学者バーナード·カストラップの書籍を読み始めた。彼の単著は全て購入し、出版年の古いものから順番に読み進めていくことを通じて、彼の思想体系の変遷を捉えるようにしている。カストラップの単著での処女作は、ちょうど自分がデロイトを退職し、ジョン·エフ·ケネディ大学に留学した年に出版されたものなので、何かの縁を感じる。同時に、かつての自分はカストラップの存在について全く知らず、そこから12年経って邂逅を果たしたことにも人生の運命的なものを感じる。

カストラップの文体は非常に親しみやすく、彼の一連の書籍のテイストはドイツの哲学者ビョンチョル·ハンのそれに近いと感じる。古くはアラン·ワッツやオルダス·ハクスリーの文体と似ている感じがして大変好感が持てる。自分もサイケデリック哲学に関する英語の書籍を書くのであれば、彼らの文体を参考しにし、特にカストラップのそれを参考にしたいと思う。カストラップの文体の背後には、彼の豊かなサイケデリック体験と思索の積み重ねがあると感じられる点に感銘を受け、自分も彼のような形でサイケデリック哲学の仕事に従事していこうと思う次第だ。

かつてユングは、曼荼羅は自我(ego)から生まれてくるものではなく、その人の自己(self)の深層的な部分や集合的な無意識から生まれるものであると述べていた。自分が日々描いているデジタル絵画は、何か最初にこれを描こうという作為は一切なく、アプリを開いて即興的に即座に描き始める形で生まれたものである。それは自分にとってユングが述べる曼荼羅的なものである。また、毎日行っている即興演奏作曲もまた同様である。そこで生み出される曲は音楽的曼荼羅なのである。そうした絵画的·音楽的曼荼羅を毎日生み出していく中でふと気づいたのは、それらが自分の知覚空間における原材料になっているということである。別の表現で言えば、自分の顕在意識下での思考のもとになっているのがそうした原材料的曼荼羅なのだと気づいたのだ。仮に自分の思考や発想にユニークさがあるとすれば、それは自分の深層部分から生まれる曼荼羅を毎日生成することを通じて、曼荼羅と思考の間を繋ぐパイプを浄化·強化しているからであり、思考の原材料に自分固有の曼荼羅があるからなのではないかと思ったのである。これからも自分は無限に曼荼羅を生み出していき、無限曼荼羅の恩恵を受けながら自分の仕事に取り掛かっていく。フローニンゲン:2023/11/30(木)08:34


11458. 今後の英文書籍の出版の方向性について


かつて尊敬する鈴木大拙氏は積極的に英語での書籍を執筆していた。彼の日本語の本のほとんどは英文書籍の翻訳なのである。大拙氏が欧米に禅を紹介した功績に思いを馳せながら、今後の英文書籍の出版の方向性としては、まずは欧米の大学院でサイケデリクスに関する博士号を取得し、とりわけそこでのサイケデリック哲学·サイケデリック神学の研究をもとにした博士論文をベースにした学術書を出版することについて考えていた。その書籍はできれば生粋の著名な出版社から出版することを希望し、そうして1冊ほど硬質な学術書を出版した後に、一般の人たちにもアクセスできるような学術書兼一般書を出版していくことができればと思う。もちろん継続して硬質な学術書を書き続けるという方向性もあり得るが、そこで厳密性を強調しすぎると、自分の思考が硬直したり、狭まったりする可能性があるので、理想的には定期的に硬質な学術書も出版しながらより多くの人に読んでもらえるような英文書籍を出版していくのがいいだろうか。あるいは硬質な学術書に代替する形で、査読付きの学術論文を書き続ける形で、それをわかりやすくした形での書籍を執筆していくのが色々と良さそうである。査読付き論文の執筆を通じて、他の学者からのフィードバックを得ることやその学術分野への貢献を果たせるだろうし、大学機関への終身雇用の獲得条件を満たすことにもつながる。そして一般書を執筆することの良さは、学者ではない広く多くの人たちからフィードバックをもらえる可能紙を生むことであり、また自身の学術研究を通じて多くの人の人生をより豊かなものにしてもらえる可能性があることだろう。さらに自分にとっては、学術論文で書くことのできなかった大胆な仮説や主張を展開することも一般書でなら可能だろうから、それを通じて自分の思考の枠組みをさらに広げていくことも行っていきたい。今後の英文書籍の出版に向けてそのようなことを考えていた。

その実現に向けて、今年の冬のハーバード大学神学大学院(HDS)の出願を抜かりのないものにしたい。HDSは非常に競争率の高い神学大学院なので合格する保証はどこにもないが、とにかく悔いのないように今の自分が持っているものを全て出願資料の中に込めていくつもりである。明日はシロシビン·セッションの第20回を予定しているが、その前にHDSに提出予定のライティングサンプルをいよいよ最終版のものにしたいと思う。出願の締め切りは、2024年の1月4日だが、来月の中旬までには出願を完了させるつもりである。先日にレジュメを完成させ、それをオンラインアプリケーション上にすでにアップロードしたので、あとはライティングサンプルと志望動機書を完成させるだけである。HDSへの出願もいよいよ大詰めを迎え、本当に悔いのない形で出願を完了させたいと思う。そうすれば、あとはもう天命に任せるのみである。フローニンゲン:2023/11/30(木)08:48


11459. 奴隷解放手段としてのサイケデリクス/

宿便を溜めた宿便的現代人の救済手段としてのサイケデリクス


社会的に合意された匿名的リアリティの中で、社会的構築物としての虚構の認識の枠組みや知識にマインドがフルな状態で、それらを疑うことなしにマインドフルネスの実践をすることは大変めでたいことである。とても皮肉な意味でそうだ。自らの存在と思考を規定する一段高いリアリティ構造を見据えることなしに行うマインドフルネスの実践は、単なる心の気休めにすぎないのではないかと思う。少なくともそこには解放の力はない。あるのは対処療法的な現実適応効果のみである。本来マインドフルネスは、虚構のリアリティから真実のリアリティに目覚めるために開発された宗教技法だったのだが、その本質が骨抜きにされてしまったのが現代社会で流行しているマインドフルネスの実践の姿である。現代社会においては大抵の国において、少なくとも先進国のにおいてはかつてのような奴隷制度はないが、隠れた奴隷制度は存在しており、現代人のほぼ全ては虚構のリアリティの奴隷である。ハーバート·マークーゼのサイケデリック思想を発展させた形で、現代の奴隷解放手段としてサイケデリクスをいかに活用していくことができるのか。それに伴う規範性と倫理性の問題を含めてその可能性を模索したい。それに乗り出していなければならないほどに、現代社会には魂が疲弊したあるいは喪失した奴隷で溢れているのである。

私たちの腸には排便では排出されない形で宿便が存在している。それは腸壁にこびりついていて、食べ物の吸収を妨げている頑固な存在である。現代人の多くは結局そうした宿便的な存在なのだろう。現代人そのものがと言うよりも、現代人の思考は宿便まみれになっていると述べた方が正確だろうか。現代人の食実践として、それはそもそも腸に宿便が溜まりやすいようなものになっていて、社会適応型のマインドゆえに、ボディの次元だけではなく、マインドの次元においても宿便的な慣習的思考がこびりついているのだ。ボディとマインドが宿便まみれの状態の現代人は、当然ながら魂が病む。腸に宿便がこびついていて栄養吸収や消化機能が低減している人が病気になりやすいのと同じで、ボディとマインドに宿便のような旧態依然とした思考を持っている人は魂が病みやすいのである。それは即、存在の入れ子のさらに高次元のスピリットの病にもつながる。現代人はそうしてボディからスピリットまで一気通貫して宿便によって病を患っている状態なのだ。ボディの次元における宿便の解消はファスティングなどの他の手段に譲るとして、マインドからスピリットにかけての宿便症状の脱却にサイケデリクスは非常に重要な役割を果たす。そもそもの魂とスピリットの次元における宿便を生み出している旧態依然とした価値観や発想といったマインド次元での宿便をサイケデリクスは対象化し、それを溶かす働きをする。インペリアル·カレッジ·ロンドンにかつて所属していたロビン·カーハート·ハリスたちの研究部隊の功績であるデフォルトモードネットワークの解体現象にあるように、脳内でそうした解体現象が生じ、それは意識内においてはこれまでの自分の宿便的な思考や発想の溶解を促す。そこでは思考の内容物だけではなく、内容物を生み出し、内容物を解釈する思考の構造そのものも溶解させてくれる現象が起きるのである。存在の入れ子の全てに宿便を溜めた宿便的現代人を救済をする大きな手段としてのサイケデリクスの役割をまた発見した形となった。自らも現代人の1人として、大なり小なり宿便的存在であり、明日のシロシビン・セッションでは、残存する宿便の一部をまた溶解させることができたらと思う。他の宿便的存在を救済するためには、まず最初に自らの宿便をできる限り排出しておかなければならない。宿便的存在に他の宿便的存在を救うことなどできないのだから。フローニンゲン:2023/11/30(木)09:25


11460. 大規模で幻覚症を患う現代人/写像リアリティからの脱却


早朝よりバーナード·カストラップの書籍を読み進め、3冊目の初読が終えた。カストラップはコンピュターエンジニアリングと哲学に関する2つの博士号を取得しており、自然科学と人文学の観点から意識とリアリティについて随所にユニークな思想を展開している。カストラップの処女作から読み始めてみたところ、彼の思想の根幹を支えているのはやはり彼の内省的なサイケデリックの積み重ねだと実感し、処女作の中にサイケデリクスへの直接的な言及があることに大変好感を持った。後の出版作の中にはチャプタータイトルにサイケデリクスという言葉が入っているものがあることを知っていたが、まさか処女作からサイケデリクスに関する話が出てくるとは思ってみなかったので嬉しい驚きである。

カストラップの書籍を読みながら、幻覚の存在意味を否定する人たちに残念なのは、彼自身が社会的な幻覚を見ていることに気づいていないことであるという点について考えていた。私たちの文化はある種集合的な幻覚を生み出していて、私たちは日常生活をその幻覚の下で営んでいるのだが、それに自覚的な人は驚くほどに少ない。時代は大量生産大量消費時代から、水面下で「大量幻覚時代」に入っていたことに気づいている人はほとんどいないのではないかと思われる。そうなってくると、現代社会で生きる人たちは幻覚症を患っていて、それに無自覚で生きているために夢遊病者でもあると言うことだ。

社会的に構築された幻覚としての夢ではなく、己の夢の世界に参入すること。そして己の夢を超えて、己の夢を創造している創造の基底を見つけ、その基底に足をつけて現実世界を生きること。それが激しく求められている現代社会に私たちは生きているのではないだろうか。自己の想像性(imagination)と創造性(creativity)は存在の基盤から生まれるものであり、そうした基盤と繋がって初めて非二元の境地が開示される。開示された非二元的リアリティを大切にしながら、現実世界を虚構の自我ではなく真正な自己を通じてたくましく生きることを推奨したいし、自らにも徹底させたい。

私たちのメンタルモデルはリアリティを映し出す鏡なのであって、リアリティそのものではない。それを認識しない形で、メンタルモデルに映し出された写像をリアリティそのものだと誤解している人たちが多いように思う。現代の混乱の根本原因と現代人が患う種々の病理の根本原因には、そうした誤解が横たわっているように思えてくる。メンタルモデルをリアリティそのものだと認識してしまうことは多大な苦を生み出す。ある意味私たちはメンタルモデルを通じて映し出されたリアリティの写像で構築されたゲームの世界を生きているのであって、それに気付くだけでまずは認知的負荷量が減退し、心身が軽くなるのではないだろうか。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2023/11/30(木)10:31


11461. 知的活動の基盤になる身体が構築されて/メタファーと詩的言語を活用して


時刻は午後5時半を迎えた。先ほどジムから帰ってきて、シャワーを浴びて今に至る。この日記を書き留めたら夕食の準備をしよう。ジムから帰ってくる頃にはもう辺りは真っ暗で、日の入りも本当に早くなったものだと思った。今日は結局最高気温は2度ではなく、1度までしか上がらず、ジムに行く際も随分と寒さを感じていた。

今日から月曜日ではなく木曜日にパーソナルトレーニングをしてもらうことになり、ちょうど今回で毎週のパーソナルトレーニングも丸1年となった。継続は力なりとはよく言ったもので、この1年間を通じて筋肉量は着実に増加した。それ以上に、身体のキレが以前にも増し、知的活動を長時間行う基盤的器が構築されていることを感じる。筋肉量を増やすことが主たる目的というよりも、知的活動に長い時間集中して従事する身体の構築を目的にしていると言った方が正確であり、この1年間でその目的は相当に達成されたと思う。ここ最近から始めたローイングマシンとランニングマシンによる有酸素運動は早速効果的面であり、それを始めて以降の集中力の質と持続時間は間違いなく高まっている。

今日のトレーニングでは1つ大胸筋に進歩があった。以前までは動かすことができなかった重さを10回動かすことが可能になったのである。ついこの間まではその重さへの壁を感じていたが、トレーナーのエリーザ曰く、自分がメンタルブロックをかけていたようであり、それを今日外してもらうような言葉掛けをしてもらったところ、彼女を信じて試してみたら実際にその重さを動かすことができたのである。次回かはらその重さで10回繰り返すことを意識して取り組みたいと思う。

ジムからの帰り道、このリアリティのフラクタル性について考えていた。宇宙と人間はフラクタルであり、自然と人間はフラクタルであること。それを思った時に、現在取り組んでいる意識の諸問題について、宇宙や自然を参考にしようと思ったのである。宇宙を直接観察することは難しいので、日々自然を観察しながら、自然の何気ない姿を見て、脳と意識の関係性と意識についてメタファーを考えてみようと思った。脳と意識の関係性や意識の本質について日常言語で考えることには限界があり、メタファーを導入するというのは素晴らしいと思った。実際に、今日読み進めていた哲学者のバーナード·カストラップは優れたメタファーもいくつも提示してくれていて、そのおかげで自分の理解と思考が格段に進んだのである。それを受けて、自分でも絶えず自然からメタファーに思いを馳せてみる実践を日々課してみようと思った。まずは意識的に毎日メタファーに思いを巡らせ、それが自然な習慣になるところまでまずは意識的に取り組んでみよう。それと、メタファーだけではなく詩的言語を活用するということも極めて重要だろう。偉大な神秘詩人たちは脳や意識についてではないが、リアリティの本質について実に素晴らしい詩をいくつも残している。それを参考にしながら、詩的言語を用いて意識とは何か、リアリティとは何かを直観把握していこうと思う。そのようなことを考えながら帰路に着いた。フローニンゲン:2023/11/30(木)17:42

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