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11430-11439: フローニンゲンからの便り 2023年11月28日(火)



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成人発達理論とインテグラル理論を楽しく学んでいただける「成人発達コラボラジオ」を2023年7月14日より始めました。

タイトル一覧

11430. ここ最近の就寝時間・起床時間

11431. 今朝方の夢

11432. キリスト教の起源とサイケデリクスの関係性から考える現在まで続く厳しい法規制について

11433. 汎心論的超越一元論者としての自分

11434. 書物を通じた不在の不在化/人類の叡智的テクノロジーとしての書物

11435. 闇への愛/収穫間近のシロシビン・マッシュルーム

11436. 歩き続けるための慣性力/日本の歴史と伝統宗教に立ち返った新たな社会的ディスコースの創出に向けて

11437. トラウマの2つの分類/「アレシデリクス」としてのサイケデリクス

11438. サイケデリック体験における言語不可能性について/今後のサイケデリック学探究における文献参照の方針/シロシビン・マッシュルームに共鳴・共振する自己

11439. 少し早いクリスマスプレゼントを受け取って


11430. ここ最近の就寝時間・起床時間


時刻は午前3時半を迎えようとしている。今朝方は午前3時を少し回ったところで起床した。昨日はジムでのトレーニングがあったので筋力の回復に向けて身体がもう少し睡眠を必要としているかと思ったが、予想とは違って3時にすっきりと目覚めることができた。確かに昨日は午後9時過ぎには早々と就寝したのでそれが良かったのかもしれない。ここ最近は就寝時間が以前よりもさらに早くなり、起床時間もそれに呼応する形でさらに早くなっている。就寝時間に関しては、以前は午後10時前だったが、ボストン旅行の最中に風邪のような体調を治すために早く寝ていたことがボストン旅行後にも習慣になった。習慣の力はすごいものがある。これまで長らく午後10時前に就寝するというのが習慣だったが、習慣はひょんなことから変化し、変化後の行動がまた新たな習慣になる可能性があるのだ。もちろん以前の習慣に戻るという方向性もありうるが、自分の場合はそれを選ばなかった。自らの意思でその行動を選択し、習慣化させることを意識していたのである。そもそも夕食後の夜の時間は集中力が低下しており、そこから学術研究をしていても大して実りはない。集中力が低下している状態で読書をすることは自分にとって望ましくなく、夜はリラックスする時間として、早々と寝てしまうに限ると思い始めたのだ。そうしたことから最近は遅くとも午後9時半にはベッドの上で横になっている。ベッドの上で横になって数分後には夢の中の世界にいる。あるいは夢を見ない深い眠りの世界であるコーザル意識の状態にある。それくらいに入眠は良好で、通称ゴールデンタイムと呼ばれる午後10時から午前2時までは完全に眠りの世界にいて、おそらくその期間はずっとコーザルの状態かと思う。午前2時を過ぎて、起床直前の数分間の中でサトルの意識状態となり、サトルゆえにそこで脳のシンボル生成機能が活性化され、実に様々な夢を見る。それが自分の睡眠の特性である。

仮説としてジムに行った日の翌朝の起床時間は少し遅れるかと思ったが、そうではなく、今朝の様子を見るとすっきりとした目覚めが実現されたので、ジムに行った日は身体の回復を意識していつもより少しだけ早めに就寝することを心がければ午前3時あたりには起床できるのかもしれない。今のところ理想の就寝時間は午前9時半前であり、起床時間は午前3時から4時の間がベストだ。その時間帯に寝て、その時間帯に起床すれば、1日が気力に満ちた形で十分な時間を自らの探究活動に専心没頭できる。今日はまさにそのような日となる。今の気温は1度と寒く、ここから午後にかけて気温は全く上がらず、最高気温は2度ほどで、いよいよ今夜はマイナスの気温となり、明日以降からしばらくは雪マークが付されている。そんな寒さの中で、寒さを消し飛ばすような情熱に今の自分は包まれている。フローニンゲン:2023/11/28(火)03:38


11431. 今朝方の夢


昨日ふと思い立った夢の意識状態とサイケデリクスの意識状態について、厳密はそれぞれがアクセスするとりわけ無意識層の違いについては引き続き考察を展開させていきたいと思う。夢がサイケデリクス的なのか、サイケデリクスが夢的なのかはわからないが、夢もサイケデリクスもどちらも興味深い研究対象であり、それらが開示するものは等しく摩訶不思議である。その摩訶不思議なものを摩訶不思議という言葉に留めないで、1つ1つ紐解いていき、この実在たる各種の意識現象と開示内容について検証していこう。

今朝方は2つほど記憶に残る夢を見ていた。まず覚えているのは、小雨が降りしきる世界の中にいたことである。そこはおそらく日本のどこかの山間の町の近くかと思う。ちょうど私は自転車に乗って、町から山の方に向かっていた。町と山の間には大きな川が流れていて、川を架ける橋で工事が行われていた。工事のために道が狭くなっていて、自転車が通る際には車は道を通れず、その逆もまた然りだった。ちょうど私が橋に到着した時には車が優先して道を通るタイミングだったので、橋の横で待とうと思ったら、そこに10人ぐらいの自転車の列ができていた。彼らは一様に黙っていて、表情1つ変えず少し不気味な感じでそこにじっとしていた。すると気がつけば私は全く違う場所にいた。気づくと大学の構内にいたのである。講義棟の中の階段を降りていると、そこに大学時代のクラスメートがいた。彼は法学部で学部は違ったが、彼をせっかく見かけたので後ろから話しかけてみた。すると驚いたことに、彼が私に英語で話しかけて来たのである。とっさに私も英語で返し、そこからは英語での会話となった。彼が英語を意外と流暢に話せることを知っておらず、彼が英語を話して来たときには驚いたが、普段日本語では見えない彼の側面が見えたし、同時にそれは自分にも多分に当てはまっているのだと思った。さらには、お互いが日本語での自己とは違う側面が開示されているということを受けて、そこで構築される「私たち空間」もまたいつもと違っていた。より忖度のない活発なやり取りがそこでなされていて、言語を変えるとこうもお互いの自己の在り方と関係性が変わるのだと思った。

次に覚えている夢の場面としては、サッカーのトレーニングをしている場面である。私はユース世代の日本代表に選出されていて、その合宿に参加していた。行っていたメニューはシュート練習だった。いざ私の番が回って来た時、後ろの選手がボソッと「ボールを受ける前に歩幅が合わない場合にはどうしたらいいのだろうか?コーチが言った通りにボールを受けてシュートしないといけないのだろうか?」と述べた。その問いは重要だと思ったので、自分の番がやって来たときに挙手をしてコーチに尋ねてみた。コーチは中年の男性で、正直なところ見るからに頭が固そうで、自分の古い価値観に縛られて、先端的なトレーニング方法に開かれておらず、新しいトレーニング理論を学んでいないように思えたのであまり期待せずに質問をしてみた。すると案の定、私の質問の意味を全く理解しておらず、いきなりに私に「そんなことは気にしないでいいから言われた通りにシュートを打て。君のプレーはそもそも大胆さがなくてつまらない」と言われた。それに対してもちろん私は少し気持ちが揺さぶられたら、それを横に置いて、言うべきことは言っておこうと思った。私は包み隠さず素直に、「コーチは頭が悪過ぎで、学識も全くないようですので問いの意味がわかっていないようなのでもう一度後ろの彼の問いの意味を言いますね」と述べた。するとそのコーチもそうだが、そのコーチ以外のコーチ陣も私の歯に衣着せぬ物言いに驚き、黙っていた。私は心底、こうした低能無学な下につく人たちが不便でならず、低能無学で慣習的なマインドを持った人間が人の上に立つ不幸な社会をなんとか変えていかなければならないと思った。サッカーの場であっても、低能無学な人間に低能無学と直接的に伝えることによって、少しでも自分は社会をより良いものにしていこうと思っているのだと改めて思ったところで目が覚めた。フローニンゲン:2023/11/28(火)03:59


11432. キリスト教の起源とサイケデリクスの関係性から考える現在まで続く厳しい

法規制について


キリスト教の起源とサイケデリクスの関係性を考古学的化学と文献学を通じて探る力作“The immortality key: The secret history of the religion with no name”の著者ブライアン·ムラレスクのインタビュー動画を視聴しながら、サイケデリクスが現在において厳しい規制の下に置かれている理由について改めて考えていた。確かにオランダやポルトガル、さらにはカナダやアメリカの一部の州などはサイケデリクスの規制に対して寛容路線を採用している。しかしそれはここ数十年のことであって。1960年代後半からの「ドラッグ戦争」を受けて、サイケデリクスは他のハードドラッグと同様の締め付けにあった。その背後には、サイケデリクス研究がまだ十分になされていなかったためにハードドラッグとの明確な区別をする主張的根拠に乏しかったことと、それ以上に重要な理由としてはとりわけ世界各地で起こった学生運動やその流れを受けてのヒッピームーブメントと絡められて、政治的な理由からサイケデリクスは規制されたと考えていた。これは確かに妥当な考えだと思うが、ムラレスクのインタビューを聞きながら、その理由よりもさらに深い理由が歴史的にあると気付かされたのである。それは端的には宗教的な理由である。ムラレスクはキリスト教の起源にある古代ギリシャに立ち返り、自身のギリシャ語を含めた古典語に関する素養から関連文書を読み漁り、そしてギリシャを含めた古代キリスト教の重要な地域を巡りながら、キリスト教の起源とサイケデリクスとの関係性を探究していった。端的には、古代ギリシャのエリート層たち、例えばソクラテス、プラトン、アリストテレスたちは、「エレウシスの秘儀」と呼ばれる「キキオン(カイキオン)」と呼ばれる後にLSDの原料となった麦角菌かシロシビン·マッシュルームから作られたサイコアクティブな飲み物を飲みながら精神変容の儀式に参列していた。そうした物質を摂取した古代ギリシャの哲学者たちの思想はキリスト教の形成に大きな影響を与えた。他の書籍ではあるが、4世紀か6世紀頃のキリスト教の絵画にも、キリストがベニテングタケを彷彿とさせる赤いマッシュルームを両手に握っている絵などが残されているし、スペインにある中世の教会の門には露骨にマッシュルームの石の飾りが取り付けられていたりする。そうしたことから、キリスト教においてもサイコアクティブな物質を宗教儀式で活用していたことはほぼ間違いなく、その可能性は極めて高いというのが学者たちの見解である。しかしながら現在においては、サントダイミやウニアオ·ドゥ·ベジタルのようなキリスト教系の新興宗教がアヤワスカというサイケデリクスを活用した宗教儀式を行っているが、伝統的なキリスト教の教会ではそのような儀式が行われることはない。キキオンの顕教的な側面はアルコールとしてのワインで、密教的な側面はサイケデリクスとしてのサイコアクティブな飲み物だったのだと思われる。いずれにせよ、ムラレスクの調査から、4世紀においてキリスト教が転換点を迎え、何かしらのサイケデリクスを活用した宗教儀式は秘教的なものになり、そこから時代下ると魔法や魔女の問題ともぶつかり、徐々にその伝統が廃れていってしまったのだろう。結局のところ、そうした伝統が廃れてしまったことにより、サイケデリクスへの無知さから厳しい締め付けがなされたのではないかと思う。仮に現代まで伝統的な教会でサイケデリックな飲み物がずっと提供されていたら、1960年代後半からのあのような厳しい締め付けはなかったはずである。なので今の自分は、サイケデリクスの法規制の締め付けの背後には宗教歴史的な背景があり、宗教的な伝統の喪失が最大の理由としてあったのではないかと考えている。ティモシー·リアリーやラム·ダスを含めたヒューマンポテンシャルムーブメントやヒッピームーブメントとベトナム戦争を絡めた政治的理由によるサイケデリクスへの締め付けは表層現象であり、根幹現象ではないというのが今の自分の見立てである。フローニンゲン:2023/11/28(火)04:48

(追記)さらに調べたところ、エレウシスの秘儀が行われていた寺院は、キリスト教をローマ帝国の国教に定めたローマ皇帝テオドシウス1世によって392年に封鎖された。


11433. 汎心論的超越一元論者としての自分


時刻は午前5時を迎えた。依然として気温が1度なので、暖房がせっせと働いてくれていて、家全体を温めてくれている。暖房の音を聞きながら、つい今し方モーニングコーヒーを淹れていた。フレンチプレスで抽出中のコーヒーをこれから味わうが、その前に、コーヒーを淹れながら考えていたことを書き留めておきたい。

コーヒーを淹れながらふと、自分は実在論者かつ神秘主義者なのだと思った。後者の神秘主義者については別に強調する必要もなく、全て実在論の観点から自分の立場を語れるかもしれない。端的には、自分は意識と脳はどちらも共に実在していると考える。意識が脳を生み出すわけでも、脳が意識を生み出すわけでもなく、どちらも共に別の存在として実在しているという立場を取る。それだけで見ると二元論的だが、この二元論的な側面を含んで超える形で、意識を意識たらしめているもの、あるいは意識を生み出している存在としての超越意識の実在を想定している。また、脳の物質的な組織化や脳の機能を生み出している高度な力や働きを生み出しているものとしての超越意識の実在を想定しているのである。そうなってくると、自分の思想的立場は超越意識を中心にした一元論的なものなのだろうか。それもまた違うような気がする。一元論は、意識と脳の片方をもう片方に還元する形でどちらかの実在しか認めないはずだから。であれば、意識と脳の実在を認め、超越意識の実在も認める自分の立場は「超越一元論」的なものなのだろうか。そのようなことを思ったが、そのような造語をする必要もなく、自分は2つを認めて1つを認める非二元論者なのだろうと思ったのである。結局両者は同じ存在の実在を指していて、同じことを述べている。超越一元論においては、意識と脳の実在を認めながら、同時に意識と脳の双方を超え、意識を意識たらしめているもの、脳を脳たらしめている超越的な存在の実在を認める。すなわちそれは一者と呼ばれるものであり、非二元論の考え方も同様であろう。

そのようなことを考えながらコーヒーを淹れ終わると、超越一元論、ないしは非二元論的な考え方を持つ自分が汎心論(panpsychism)に惹かれている理由は何かと考えていた。汎心論はスピノザの汎神論(pantheism)は少し異なっており、汎神論は全てのものに神性が含まれ、それらの存在が1つの全体を作る形でこの宇宙を形成していると考えるのに対して、汎心論は端的には全ての存在に意識のようなものが存在していると考える立場を指す。ここから本格的に宗教学や神学を学べば汎心論よりも汎神論に傾く可能性があるが、今のところは逆の側に傾いている。確かに自分は、全ての存在に神性な性質を認めながらも、その神性な性質が何かと問われたら超越意識を内在させた意識だと答えるであろうから、今のところはより哲学的な意味合いの強い汎心論を採用している。なのでそれと合わせて考えると自分は、汎心論的超越一元論者、あるいは汎心論的非二元論者なのだろうと思った。今のところの意識と物質に対して、そしてこのリアリティに対してはそのような思想を自分は持っているのだと気付かされた。おそらくここからサイケデリクスの摂取体験をより豊かに積み、その過程の中で研究と思索を深めていくと、何かまた新たな思想的立場を採用するかもしれないが、現時点での自分の思想的立場が言葉の形になったことを嬉しく思う。そのおかげで今から飲むコーヒーの旨味も増すだろう。フローニンゲン:2023/11/28(火)05:35


11434. 書物を通じた不在の不在化/人類の叡智的テクノロジーとしての書物


ここのところは心の哲学に余念がなく、過去に購入していた学術書や論文集、さらには最近追加で購入した学術書や論文集を読み進めている。そこでの読書体験から、先ほど明らかになった自分の意識と物質及びこのリアリティに対する思想的立場について、これからさらに洗練されたものになるであろうという確信が芽生えた。端的には、二元論も一元論も、汎神論も汎心論も、非二元論も今の自分の浅薄な理解を超えてもっと深いものなのである。過去から現在にかけての哲学者がいかに緻密にそれらの思想的立場を構成していたかを文献読解から感じることができ、彼らの仕事を丹念に辿りながら、絶えず初心を忘れずに、それらの思想についてもっと深く知っていく試みを継続させていきたい。ロイ·バスカーが述べる「不在の不在化」は弁証法的な思考や発達に不可欠な要素であり、それは思想の発展においても等しく当てはまる。今の自分が見落としていることを明らかにしていくこと。この試みをやめたとき、人の成長は止まる。思想の発展もなしえない。今の自分では気付いていないことを気づかせてくれる過去の哲学者·神秘主義者たちには本当に感謝しなければならない。彼らが書き残した書物は、今の自分が気づけていない認識的欠落の宝庫であり、その宝物を1つ1つ発見し、それを自分に体現させていくことが思想的発達において重要なことなのだろう。今日の学術研究もその道を辿るものになる。

さて今日は、まず最初にメタモダニズムに関する書籍の再読をしようと思う。ひょっとしたら3回目の読書かもしれないが、山積みになった書籍の山の1つからその書籍を取り出して来たので、それをまず読み進める。この書籍を読み返そうと思ったのは、ポストモダンな現代社会、いやブルーノ·ラトゥアーが指摘するように依然としてモダンな現代社会の思想からサイケデリクスを捉えるのではなく、ポストモダンを含んで超えたメタモダンな思想からサイケデリクスを眺めてみようと思ったのである。メタモダンの観点からサイケデリクスを見ると、どのようなことがまた見えてくるかに関心を持ったのである。確か昨年にこの書籍を読んだ時には、当時はテクノロジーが最大の関心テーマだったので、テクノロジーに対してメタモダンの思想を適用していたように思う。今回はそのテーマ変数をサイケデリクスに置き換えてみる。関心テーマを変数と見立て、変数を入れ替えながら書籍と向き合うと、与えられた変数によって新たなものが開示されることが本当に興味深い。書物というのは一体どれだけ可能性を持っているものなのだろうかと考えさせられてしまう。ひょっとしたら人間にとっての最大のテクノロジーは依然として言語と書物なのかもしれない。それらはテクノロジーであるがゆえに、良薬と毒薬の側面を持っていて、現代社会は言語も書物も力を失い、地盤沈下してしまい、その毒薬の側面が勢力を増している。現代社会の各種の病理は、言語と書物という人類の叡智的テクノロジーの弱体化さらには不適切利用に由来することが多分にあるのではないかと思う。フローニンゲン:2023/11/28(火)05:49


11435. 闇への愛/収穫間近のシロシビン・マッシュルーム


闇に次ぐ闇。闇の中の闇。深い闇のそのまた向こうにある闇。闇の心地良さを心底味わうのに最適な季節が到来した。人間の心の闇を探求し、治癒するシャドーワークに終わりはないが、自らの闇の側面が溶けてしまいそうなぐらいに深い闇の世界の中で毎日過ごしている。心の闇を溶かすほどの自然環境の闇。自分は闇を愛する。自分の内側の闇も愛すべき存在であり、自然環境における闇も愛すべき存在だ。

それにしても今日は足元から冷える。外の気温がやはり1度だと、暖房の力も少し追いつかないようで、設定している室内温度よりも低い状態が続いている。現在、シロシビン·マッシュルームを室内で育てていて、彼らを育てるのに最適な温度は20度から25度であり、今この瞬間は19.5度と温度計が表示していたので、室内設定温度を少し上げ、21.5度にした。これで室内温度がどう変化するかを観察しよう。観察の観点で言えば、育てているシロシビン·マッシュルームは本当に立派になった。もちろん彼らには個性があり、発育の早いものとそうではないものに分かれるが、大きくなっているものは本当に大きくなっていて、少なくとも今週末には数本のマッシュルームを収穫することになるだろう。マッシュルームの乾燥にはオーブンを活用しようと思っているのだが、オーブンを6時間から8時間くらい使わなければならないので、一括して乾燥させたいところである。発育速度にばらつきがあるので、そのあたりをどうしようかと考えている。とは言え収穫のタイミングのばらつきは、1日か最大で2日だと思うので、最初に収穫したものを洗わずにキッチンペーパーで包んでジップロックに入れて冷蔵庫で保存すれば、最大で1週間ぐらいはもつようなのでそのような形で保存し、一括してオーブンでの乾燥にかけようと思う。次回のシロシビン·セッションで自分が育てたマッシュルームを摂取できるというのは本当に楽しみである。

今日は午後に、ハーバード神学大学院(HDS)のオンラインアプリケーションの提出書類の1つであるレジュメを最終版にしようと思う。レジュメに関してはもうほぼ最終版だったのだが、改めて誤字脱字がないかを確認し、最終版をPDFにして、オンラインアプリケーションのシステム上にアップロードしておきたい。今週の金曜日にはいよいよライティングサンプルも最終版にする予定だ。HDSでの研究アイデアについて書き留めたこのライティングサンプルは、アドミッションの方々も述べていたように、その研究を実際に入学後に行うかどうかは大切ではなく、あくまでもアカデミックライティングの力を見るためのもなので、ライティングサンプルに書かれた研究案に縛られる必要はない。むしろきっと研究案が磨かれていき、より広く深い研究を行うことになるろう。そうした前提でライティングサンプルを最終版にする。今日はその他にも、レジュメを最終版にした後に、近所の玩具屋に立ち寄って書籍を受け取りたいと思う。最近発見したオランダ人哲学者のバーナード·カストラップの書籍を含め、20冊近くの書籍を受け取りに行く。それは自分にとってサンクスギビングのプレゼントであり、少し早いがクリスマスプレゼントでもある。明日からは、その届けられた書籍の初読を楽しみながら旺盛に行っていきたい。フローニンゲン:2023/11/28(火)06:05


11436. 歩き続けるための慣性力/

日本の歴史と伝統宗教に立ち返った新たな社会的ディスコースの創出に向けて


自分を追いかける者はいないであろうが、自分を待つ者のために走り続けること。歩み続けること。自分にできる可能な限り遠くまで走ること。歩くこと。走ることも好きだが、自分はウサギではなくカメなのであり、カメのように絶え間なく歩き続けること。どこまでも果てしなく歩き続けることを自らに課し続けたい。きっとのその過程で、そしてその先に、自分を待っている人との深層的な出会いがあり、歩いて来た中で身に付けた知識や技術、そして経験をその人や社会に役立てることができる日が来るだろう。その実現に向けて、自分は一心不乱に歩き続ける。走る必要はない。歩き続ければいいのだ。今、歩き続けるための慣性力が自分の存在を貫いていて、歩き続けることが可能になっている。それをいつまでも続けるより高次元の慣性力を高めていきたいと思う次第だ。

そう言えば、早朝にブライアン·ムラレスクのインタビュー動画を視聴しながら考えていた宗教とサイケデリクスのつながりについて考えていたように思う。ムラレスクはキリスト教に焦点を当てたが、自分は神道と仏教に関心を持っており、同様の観点の研究を水面下で進めている。仏教においては、元々その起源にあるヒンドゥー教やゾロアスター教において「ソーマ」「ハオーマ」と呼ばれるサイコアクティブな飲み物が宗教儀式に使われていたことはよく知られていることであるし、それに関しても考古学的な証拠がいくつも提示されている。古代仏教絵画にもキリスト教絵画と同じく、シロシビン·マッシュルームと思われるマッシュルームを持つ仏陀が描かれているものがいくつもある。仏教もかつてはサイケデリクスを活用して来た歴史があり、その伝統が骨抜きになっていることが残念でならない。現在世界を見渡しても、仏教系新興宗教を除けば、伝統的な仏教の寺院でサイケデリクスを活用した宗教儀式が行われているという話は全く聞かない。

神道に関しては、まだその歴史の中でサイコアクティブな物質を使っていたかの確証的な証拠は自分の中では得られていない。もちろん神道の象徴でもある麻について、それを精神活性化のために使っていた可能性は十分に考えられるが、今のところの自分の文献調査だと確証的な記述に至らない。神事の中で、あるいは神職が神社の奥で麻のサイコアクティブな物質を摂取して精神を活性化させ、それを神への奉仕に活用していた可能性は非常に高いが、それが本当だったとしても、仏教と同じく今の神社でそのような宗教儀式が行われているとは話に聞かない。神道においても何か密教的な要素、ないしは本質的な要素が骨抜きにされてしまっている感じである。

日本でサイケデリクスが本当の意味で安全かつ安心に活用されるためには、新たな文化運動としての方向性だけではなく、伝統に立ち返る方向性も模索していく必要があるかと思う。伝統に宿る歴史的集合意識の力を蔑ろにしてはならない。それは文化的·歴史的な安全基地なのであり、そうした深層的な基地がないところで、新たな文化運動としてサイケデリクスに関する社会的ディスコースをいくら構築しようとしても空虚なだけであり、脆さが依然として残り続けるように思えてならない。自分がやるべきことは、現代の科学と哲学を基盤にしたサイケデリクスに関する新しくかつ成熟した社会的ディスコースを生み出すことと、日本の歴史と伝統宗教に立ち返り、そこに堆積された目には見えない集合意識の基盤を回復させながら、その基盤の上に新たな社会的ディスコースを乗せることである。こうした方向性もまた、自分が「サイケデリック保守主義」の立場から生まれたものだと改めて思う。フローニンゲン:2023/11/28(火)06:32


11437. トラウマの2つの分類/「アレシデリクス」としてのサイケデリクス


時刻は午前8時を迎え、ようやく辺りが随分と明るくなった。この時間帯までに読書はすでに随分と捗っていて、着実にリサーチノートにアイデアや考察が蓄積されている。先ほど、ピーター·ショステッドの書籍を読み終え、今はスタニスラフ·グロフの書籍を読み返している。その中でグロフがトラウマを2つに分けていることが興味深く思った。1つ目の分類は一般的なもので、外的に負わされた身体的·感情的なトラウマである。もう1つの分類が興味深く、それは成長に関して肯定的なサポートや機会がなかったことによって生じるトラウマである。現代の教育は、その双方のトラウマで形作られている傾向が多分に見える。目に見える形で身体的·感情的なトラウマを負わされることはなかったとしても、そもそも学校という場が成長機会をうまく提供できておらず、それが隠れたトラウマを生んでいるという状況があるように思える。成長の機会と成長のためのサポートが受けられないこともまたトラウマを生じさせると声高に主張してもいいのではないだろうか。おそらくそうした教育の現状そのものが何かしらの集合的トラウマから生じたものであることも見据えなければならず、個人レベルと集合レベルのトラウマの早期の治癒が教育現場に求められる。これは子供の教育だけではなく、大人の教育にも当てはまる事柄である。大学·大学院さらには企業も、まだ十分に成長の機会と成長のためのサポートを提供しているとは言い難い。

そこからはふと、イギリスの思想家ロイ·バスカーの批判的実在論、あるいはそれを発展させたメタリアリティーの思想に基けば、私たちがこの世界に真実をもたらすのではなく、この世界が私たちに真実を課していることが見えてくることについて考えていた。真実の発見というのは、私たちが生み出した真実なのではなく、あくまでもこの世界が私たちに対して生み出した真実なのだろう。真実に関してさらに興味深いのは、サイケデリクス体験において究極的な真実が開示されたかと思ったら、それはとてもありふれた真実であったことに気づくことや、逆にありふれた真実が究極的な真実に気づくということが起こることである。サイケデリクスはひょっとしたら、マインドを開示するというよりも、真実を開示するものなのかもしれない。サイケデリクスの語源は“mind-revealing”ではなく“truth-revealing”の方が適切で、“psychedelics”という言葉よりも“alethedelics(アレシデリクス)”という言葉の方が適切なのかもしれない。この点については今後の論文の中で自らの造語として紹介する機会が来るかもしれない。

かつて闇があったところに光が差し込み、そこに真実が開示されるだろう。さらにはかつて幻想があったところに光が差し込み、そこに真実が開示されるだろう。自分の内側に存在する闇と幻想は、光と真実にとって不可欠な存在なのだ。それらは光や真実にとっての大地、さらには養分であるとすら言えるかもしれない。フローニンゲン:2023/11/28(火)08:20


11438. サイケデリック体験における言語不可能性について/今後のサイケデリック学探究における文献参照の方針/シロシビン・マッシュルームに共鳴・共振する自己


午後の光の輝き。今日は早朝から見事な空が広がっている。午後2時を迎えようとしているが、すでに太陽の光は柔らかく、夕方の太陽のそれを思わせる。この時期のフローニンゲンの太陽の光は常に優しい。

再びピーター·ショステッドのサイケデリック哲学書を読みながら、サイケデリック体験における言語不可能性というのはその瞬間において言葉にするのが難しいだけの場合があり、そこから知識や洞察、そして体験を深めていくと、最初に言語化が不可能だと思われた体験も言葉にできることがある。当然ながら体験そのもの全体を言葉で表すことは他の全ての事物·現象に対して不可能なのと同じだが、確かに過去において言語化不可能だったサイケデリック体験の意味が後に紐解かれていき、言葉の形になることがよくある。次回の体験でもまた言語化不可能な現象に突き当たるだろうが、それもまた楽しみであり、後に言葉の形になっていくこともまた楽しみである。

ここからサイケデリック学についての探究を深めていくにあたっては、知識の獲得と思考の枠組みの涵養の2つに細分化し、前者については科学的な最新論文をとにかく読んでいくようにし、後者については哲学的な学術書を読んでいくようにする。サイケデリック科学についての書籍は、生粋の学術出版社から出たもの以外はもう購入しないようにする。科学的な一般書は科学論文を寄せ集めたものを希釈したものであるから。サイケデリック哲学に関する書籍も同様で、深い思考と思索が体現された生粋の学術書だけを購入するようにする。ここからは低質な情報と低質な思考を避ける形で文献と向き合っていくことを意識する。

昼食を食べた後、シロシビン·マッシュルームの栽培キットを眺めたところ、早朝から昼にかけてもマッシュルームがぐんぐん育っていることに驚いた。その成長力は本当に見事である。こうして生き物としてのマッシュルームを育てていると、日々育っていくマッシュルームを眺めているだけで心が癒されることに気づく。そして自分のそうした心の状態が波動を生み、そのエネルギーがマッシュルームにフィードバックされてさらに健やかに育っている印象だ。やはりマッシュルームにも汎心論的に意識のようなものが歴然として存在しており、自分の意識と共鳴するのだろう。しかもその意識のエネルギーが肯定的なものであればあるほどに、お互いの肯定的なエネルギーが共振し合い、相互の治癒や成長につながるという現象が生じているように思える。そうしたことを考えると、シロシビン·マッシュルームを自ら育てる利点は、単にそれを摂取してサイケデリック体験を積めるだけではなく、その過程の中でサイケデリック的気づきや学びがもたらされることにもあるように思う。今後も合成系のシロシビンではなく、そして今後生まれてくるであろう遺伝子操作されたシロシビンではなく、天然のシロシビンを自らの手で育て続けていきたいというのはそうした学びの多さにあるのだろう。フローニンゲン:2023/11/28(火)13:56


11439. 少し早いクリスマスプレゼントを受け取って


時刻は午後3時半を迎えた。先ほど、ハーバード神学大学院に提出するレジュメを無事に最終版にし、それをオンラインアプリケーションのシステム上にアップロードした後、近所の玩具屋に書籍を受け取りに行った。気温が2度だということを知っていたので暖かい恰好をして外に出かけたが、やはり相当な寒さだった。気分転換を兼ねてジョギングをして玩具屋に向かったところ、外気の冷たさに鼻呼吸がしづらいほどであった。

無事に玩具屋に到着すると、季節はもうクリスマスを控えているので、玩具屋に収納されている荷物の量がいつもより多いことに気づいた。今日は合計で14個の梱包を受け取り、書籍の数で言うと20冊以上の数となった。今回は梱包の数が多かったので、なんと自分専用のプラスチックのケースに全ての梱包を一箇所にまとめてくれていた。今日もヨスとティムがいて、彼らに色々と親切な対応をしてもらった。14個の梱包は自分にとって早めのクリスマスプレゼントだと笑いながら述べると、ヨスが「ツリーを用意してそこに飾らないとね」と笑顔でユーモアたっぷりに述べたのにはこちらも笑わされた。そこからは大きな梱包に関してはカッターが必要だろうということで、ヨスがカッターを貸してくれた。また、梱包の段ボールのゴミはいつもは自分で帰り道にリサイクルのボックスに捨てるのだが、今日はヨスが親切にも全てゴミをその場で回収してくれた。その最中にヨスが、「そう言えば、アレに関心があったよね···あの生き物。アレは何だったけな···」と考え事をし始め、アレが何なのかとても気になった。「地球外生命体のこと?」と聞くとそうではなく、「神話上の生き物?」と聞いてもそうではないと答え、少し考えた後にヨスがスマホを指差して、「思弁的生物学(speculative biology)!」と述べた。その学問分野は初めて聞いたので、それに関心を持っているのはおそらく他の客だと伝えたところ、その学問分野について説明をしてくれた。ヨスの説明を聞く限りだと、どうやらそれは疑似科学のようだが、お気に入りのYoutubeチャンネルを教えてもらい、ちょっとチェックしてみようと思う。疑似科学だからと言って素通りするのはもったいなく、発想の枠組みを広げたり、ユニークな観点や仮説を得る意味でもそうしたものに触れるのには利点がある。ヨスやティムとのやり取りだけではなく、この玩具屋の他の店員とのやり取りもいつも心温まるものであり、こうした玩具屋にはいつまでも存続していて欲しいと思う。自分にとってこの玩具屋はおもちゃに関する用ではなく、書籍の受け取りを通じて憩いの場になっている。時々行われているゲーム大会の日に居合わせると、その熱気も感じられることがあり、大人たちが真剣に様々なカードゲームを遊んでいる様子を見て、何か夢があるなと思う。自分は今は一切のゲームをしていないが、日々の学術研究と捜索活動はゲームのように楽しい。とても素敵な午後の時間を先程過ごすことができたことに感謝したい。夕食後にゆっくりと書籍の梱包を紐解いて、書籍が届けられた日を書籍に書き込むことがまた楽しみとして残っている。フローニンゲン:2023/11/28(火)15:46

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