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11397-11405: フローニンゲンからの便り 2023年11月24日(金)



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成人発達理論とインテグラル理論を楽しく学んでいただける「成人発達コラボラジオ」を2023年7月14日より始めました。

タイトル一覧

11397. 明日のピザパーティーに向けて

11398. 今朝方の夢

11399. 現代の意味の危機・霊性の危機に対して

11400. 日本語での日記執筆と英語での論文執筆に架け橋が結ばれて

11401. 実在·無·創造とサイケデリクス:サイケデリック体験の言語不可能性について

11402. サイケデリック研究におけるブルーオーシャンに乗り出して

11403. サイケデリックセラピーの研究から学ぶサイケデリックトレーニング/ホワイトヘッドのプロテス哲学より

11404. サイケデリクスの本当の固有性は何かという問いに直面して

11405. 日本語そのものに立ち返ることと日本思想に立ち返ることの真相的な価値を見出して


11397. 明日のピザパーティーに向けて


時刻はちょうど午前5時を迎えた。今、この瞬間は真っ暗で外は何も見えないが、穏やかな世界がそこにあるように感じる。ところが天気予報を確認すると、今日は強風と雨が混じった1日になるようで、予報ではこの時間帯も風と雨が強いはずのようだ。当初の予定では、今日もまたアクティブレストの散歩がてら玩具屋に立ち寄って書籍の受け取りをしてこようと思っていた。そしてその足でオーガニックスーパーに立ち寄り、明日敷地内の住人たちと来客を招いてピザパーティーをすることになっているので、スーパーで何か飲み物を買っておきたいと思っていた。今日はどうやら風が強く雨も降るらし、明日の午後は晴れるようなので玩具屋に行くこともスーパーに行くことも明日にしようと思う。

今述べたように、明日は敷地内の住人とオーナーのフレディさんとペイトラさんが2人客人を招いてピザパーティーをすることになっている。ピザパーティーと言ってもピザ屋でピザを購入したり、スーパーで購入したものにトッピングを加えてアレンジしたりするのではなく、ピザ生地から全て自分たちで作り、オーブンを活用するのではなく、窯を活用することになっている。ペイトラさんの兄のバスさんがアムステルダムに住んでいて、窯が必要なくなったか、近所で窯を見つけたかで、今日窯をわざわざトラックで運んできてくれるそうだ。今住んでいる家の敷地は広く、様々な設備や空間があって、フレディさんがどこかに窯を設置し、バスさんと一緒に今日はテストで窯が使えるかを試してみるとのことだった。フレディさんは大工でもあり、大工仕事だけではなく、基本的に何でも自分で作り、何でも自分で直す相当に器用な人である。なのできっと窯もうまく使えるようにしてくれるのではないかと思う。

明日のピザパーティーの参加者は、マークを除く全ての隣人である。マークはどうやら体調を崩してしまったらしく、また今はしばらくフローニンゲンを離れているようなので、彼だけ参加が叶わなかった。サハルの家族と自分、そしてフレディさんとペイトラさん、2人の来客の8人ぐらいで明日はピザパーティーを行う。こうした食事会が敷地内で行われることはお互いの関係性を深める上で大切であり、敷地内の住人の間の関係性はすでに深いのだが、こうして半年に1回ぐらいのペースで食事を共にするというのはいいことである。明日のピザパーティーに向けて自分は飲み物を準備したい。もうアルコールは飲まないので、サハルの息子のフィンのためと自分のために、オーガニックのビーツジュースの瓶詰めボトルを購入しようかと考えている。明日のピザパーティーはきっと良い気分転換になるだろうし、大いに会話を楽しめるだろう。フローニンゲン:2023/11/24(金)05:12


11398. 今朝方の夢


強い風が吹いたり吹かなかったりが続き、小雨が降り始めた。やはり今日は家でおとなしくしておくのが良さそうだ。書籍の受け取りとピザパーティーに向けた飲み物の買い物は明日の午後に回そうと思う。

今朝方はいくつかの夢を見ていた。まず覚えているのは、見慣れない教室にいて、アメリカ人の中年男性の先生が教壇に立ってにこやかに生徒を眺めている場面である。私を含め、生徒たちは数学の問題を解いていて、問題の全てがかなりの計算力を要求するもので大変だった。問題そのものの手の付け所はすぐに閃くのだが、解法を思いついてから答えに辿り着くまでの計算が本当に複雑で大変だった。一応それは試験のような感じではあったが、先生は私たちに数名のグループで協力することを認めてくれていたので、私は近くにいた2人の生徒たちと一緒に意見を出し合いながら問題を解いていた。クラスの全員は国籍はバラバラだが全員英語が流暢で、日本人は自分しかいなかった。私が一緒になったのは2人のアメリカ人の男女で、彼らも計算には苦戦しながらも、特に女性側の生徒の計算の工夫が見事だったので参考にさせてもらった。計算の工夫の仕方と、そもそもノートを2つに分けて丁寧で読みやすい文字で書いていくことを参考にさせてもらった。すると自分も他の問題においても最後まで答えに辿り着けそうな気がした。

この夢以外にも、これまたアメリカ人がたくさん出てくる夢を見ていたのを覚えている。私は海沿いの見慣れない宿泊施設にいた。そこでは勉強合宿のようなもの、あるいは勉強だけではなく精神変容を目的としたアクティビティを含むリトリートが行われていた。私はその一参加者だった。そこでは基本的にほぼ全員がアメリカ人で、最初のうちは日本人は私だけだった。ところがしばらくすると、小中高時代の小柄な友人(YU)が現れた。リトリートの前半では、日本人がいない中、まずは近くにいる人たちを中心にして話しかけていき、彼らと関係性を作っていった。特にアフリカ系の2人の男性が気さくで、彼らとはすぐに打ち解けた。なので日本人の友人が現れたときには、真っ先に彼を2人に紹介した。そのときに、友人の彼は小柄で、背が低いことを自虐ネタにしていたので、中学校時代における小ささのエピソードをバスケと絡めてしたところ、2人の大柄なアメリカ人の彼らは大いに笑った。私は狙った通りの笑いを得ることができて嬉しくなり、そこからは話題を変えて4人でしばらく雑談をしていた。そこからはどうやらこのリトリートの最後には、リトリート期間中に研究したことを発表する場が設けられているらしく、グループでの発表があるようだった。私はまだ誰とグループとなるかを決めておらず、仲良くなった2人のアフリカ系アメリカ人の彼らと組むのがいいのか、それとも別のアメリカ人と組むのが良いのかを考えた。日本人の友人の彼とはグループを組む気はなく、彼には英語を上達して欲しいという思いがあったし、彼の人間関係の範囲を広げて欲しいという思いがあった。

そのような夢を見た後に、もう1つ夢を見ていた。そこでは、中学校の部活時代に対戦相手だった中学校のエースかつ高校は同じところに通っていた友人と小中学校時代の親友(HS)と一緒にバスケの話を屋外のバスケコートの脇でしていた。3人とも特に中学校時代にはバスケに熱を上げていて、当時の懐かしい思い出を話していた。高校から一緒になった彼は小学校からバスケをやっていたので、中学校の時には本当に上手く感じ、なかなか止めるのが難しかった。しかし、3人に共通しているのはどうやら優しさだということに気づき、1人で強引にシュートを打ちにいくような傲慢さはあまりなく、ディフェンスにおいても優しさが現れるような場面がよくあったなということを話し合っていた。そこから小中学校時代の親友がふと、私はポイントガードではなく、本当はフォワードのポジションをやっていた方が良かったのではないかと述べ、私はそれに大きく賛同した。間違いなくチームで一番得点力があったのは自分で、私も自分がフォワードをすれば良かったと今だったら思うが、当時はポイントガードへの憧れが強くあったことを懐かしく思い出した。そんな思い出話に花が咲く時間を過ごしていた。フローニンゲン:2023/11/24(金)05:33


11399. 現代の意味の危機・霊性の危機に対して


内在神は外在神であり、外在神は内在神である。外側の神を内側の神と合一させること、内側の神を外側の神と合一させること。内側で発見した神は必ず外側にもいる。外側で発見した神は必ず内側にもいる。自己と神は本来絶えず一致しているのだから。

現代における意味の危機。それは至るところで見受けられる。学問の世界においても、実務の世界においても、教育の世界においても、私生活の世界においても、現代人は意味を喪失し切っているようだ。こうした意味を喪失した時代においてサイケデリクスが果たす役割を考えたときに、サイケデリクスを通じた意味の回復と育成においてはサイケデリック哲学が決定的に重要な役割を果たすだろう。現在の神経科学を基盤にしたサイケデリック科学にはそれはできない。そもそも研究のスコープから意味など除外されている、ないしは盲点になっていて、意味など探究する意味などないと思っているか、そうした問題意識が立ち現れないぐらいに脳の研究に視野狭窄になっている状態である。視野狭窄になっているおかげで発見事項が増すこともあるのでそれそのものは否定できないし、主観領域の重要性をわかっているロビン·カーハート=ハリスのような有望な神経科学者もいることは確かである。こうした研究者がサイケデリック科学の分野でより増えてくるためには、サイケデリック哲学がもっと盛り上がりを見せなければならない。サイケデリック科学者に比べてサイケデリック哲学者の数は圧倒的に少なく、そこには時代の精神性を見る。科学優位な時代において、哲学の立場を今一度真剣に見つめ直さなければならず、ある意味主観的な意味を射程にほとんど入れない科学優位の時代の進展に相まって、意味の危機が現代社会に生じた向きもあるかと思われる。そうしたことを考えてみても、哲学の復権は大事であり、とりわけサイケデリクス学の世界においてはまだまだサイケデリック哲学は肩身が狭く、少数者の集まりである。圧倒的多数のサイケデリック科学とどのように共存共栄していくか。それを検討したい。

サイケデリック哲学よりもさらに不毛な分野がサイケデリック神学である。サイケデリクス研究を主戦場にしている宗教学者や神学者は哲学者よりもさらに少ない印象である。もちろんハーバード神学大学院の世界の宗教研究センターには何人かの研究者がいるが、宗教や神学の観点からサイケデリクスを論じていく必要性も大いにあると感じている。それは意味の危機に加えて、霊性の危機も現代において深刻だからである。自らの実存性に関する意味の喪失と、自らの霊性に関する霊性の喪失は現代を覆う非常に大きな病である。こうした病の治癒に向けて、サイケデリック哲学とサイケデリック神学が重要になるのではないか。そうした思いから自分はとりわけこれらの領域の研究を進めていく。もちろんこれまで科学者としての活動をしてきた自分を含んで超えていくためにも、サイケデリック科学を切り捨てることなく、それも含んだ形での哲学·神学·科学の三位一体でのサイケデリック研究を進めていく。それが包括的で豊かな実践に結実するはずである。フローニンゲン:2023/11/24(金)06:31


11400. 日本語での日記執筆と英語での論文執筆に架け橋が結ばれて


気がつけば時刻は午前6時半を迎えていた。今し方、朝の楽しみでもあるモーニングコーヒーを淹れた。今、フレンチプレスでその抽出が終わるのを待っている。この待っている時間にもコーヒーの香りが室内に漂っていて、そのアロマで癒され、心地良さを感じている。

昨日かどこかで何気なく書き留めていた日本語での日記の執筆と英語での論文の執筆についてまた気づきがあった。自分の中で幸いにもそれらは好きかつ得意というベン図の重なりにある表現実践なのだと思った。英語で自分の心の機微を描写することは、そのための語彙の不足から難しく、得意ではない。かつては英語でも日記を執筆していたが、日本語で日記を執筆する方が喜びと楽しさがあり、日記は完全に日本語となった。一方、学術論文を執筆することに関して言えば、自分は日本での教育は学士止まりであるので、確かに卒業論文は日本語で執筆したが、日本語で論文を執筆する作法と技術についての修練はほとんど積んでいない状態である。だが英語に関してであれば、3つの修士号の取得を通じて3回ほど修士論文を執筆し、またアメリカとオランダでの大学院では研究の集大成となる修士論文だけではなく、受講するコースでことごとく英語でのタームペーパーの執筆を要求され、それがアカデミック英語の文章を執筆する最良の訓練になってきた。また不思議なことに、英語で日記を書くことにはさほど喜びや楽しさを感じられないのだが、英語で論文を書く際にはそこにある何とも言えない少しずつ何かが構築されていく建築的営みに大きな喜びと楽しみを見出している自分がいる。それはどこか作曲実践に似ている。即興で曲を作るのは日本語での日記の執筆で、構築的に1音1音を緻密に選んで曲を作っていくのが英語での論文の執筆に対する自分なりのイメージである。そう考えてみると、自分にとっては日本語での日記の執筆にせよ、英語での論文の執筆にせよ、どちらも作曲行為なのだとわかる。どちらも自分の音楽を生み出す営みなのだ。この発見は大きい。自分にとってはどちらも自らの存在を媒介にして立ち現れた音を音楽の形にしていく創造的な営みだったのである。だからこうも楽しいし、だからこうも喜びに満ち溢れるのである。そしてだからこそ永遠に継続されるものなのだ。

ここからはその得意かつ好きなことを活かして、日々のサイケデリック研究を通じて閃いた自分の考えを日本語で書き残している日記を、将来の英語での論文執筆の種にしていこうと思ったのである。日本語での日記の記事を将来の論文の下書きのラフスケッチとし、それを清書する形で英語の論文を執筆していくという両者が何か架け橋で繋がったのである。今はとにかく画家が下積み時代に膨大にスケッチを通じてアイデアの醸成と技術の涵養に修練するかのように、ラフスケッチとしての日記を書きに書いていく。どんなに短くてもいいのでスケッチを残していく。残しに残していく。それがいつか英語での旺盛な論文執筆につながるであろう。フローニンゲン:2023/11/24(金)06:57


11401. 実在·無·創造とサイケデリクス:サイケデリック体験の言語不可能性について


実在。無。創造。自分の関心はそれらであるという気づきが夜が明けぬ真っ暗な世界の中でやって来た。自らのサイケデリック体験をもとに展開されるサイケデリック哲学の営みの中で、今のところ最も抽象的なテーマで扱いたいのは、実在·無·創造である。それらはサイケデリック体験のとりわけピーク時に直接体験される現象であり、それらを自然言語の形で思想として展開していく試みをしたい。あの直接体験を言葉にしていくこと。ウィリアム·ジェイムズはかつて、神秘体験の要素の1つに言語不可能性(ineffability)を挙げた。確かに神秘体験として知覚されるサイケデリック体験のピーク時における知覚現象は言語を超えたものだが、言語が全く適用できないかというとそうではない。そもそも人間が知覚したものは、その知覚全体を全て詳細に言語で語ることはできなかったとしても、その部分であれば言葉で語ることはできるはずである。満月を見据えて半月を語ることを通じて満月に迫ることは可能である。言葉で語ることを諦めるのではなく、言葉で語れるところまで迫っていく試みを絶えずしていくことを通じて、自らの言葉を常に超えていく形で、自分の今の世界を超えていき、さらに高次元のリアリティにアクセスできるようになっていくのではないかと思う。基本的に何も知識を持たず、体験を解釈する枠組みを持たないレクリエーション目的でサイケデクスを摂取しても、結局はその人の深層的な学びに繋がらず、さらには内省的に体験を振り返らないことによって、自らの世界を超え出ていくという運動が生じず、今の段階でのリアリティ理解にとどまることがよく見られる。こうしたことを自分は避けたいという思いから、果敢に言葉を当てていくという実践をしたい。もちろんここで述べているのは自然言語にとどまらず、自分の場合には音楽言語と絵画言語がある。毎日即興作曲実践をしているのも、デジタル絵画の創作をしているのも、言語不可能性に満ちた究極的リアリティにより迫っていくための地道な実践なのだ。また、迫って知覚された風景を記録するという意味合いも多分にあるし、その記録を通じて自らの存在の入れ子全てに新たな記憶が醸成され、その記憶の積み重ねが存在の入れ子の全ての階層の肥やしとなって自らの存在全体が育まれているというありありとした感覚があるからそれらの実践を続けている。

実在·無·創造。これらのトピックに対しては、これまで学んできたことを総動員しながら、同時にまだまだ学ばなけれならないことが無限にある。少なくともそれらのトピックに対する哲学思想と宗教思想をつぶさに研究していきながら、その過程で自らの思想を醸成していく。それらのトピックとサイケデリクスを絡めると博士論文級の研究ができるかもしれない。その前に、それぞれの項目に分けて1つ1つサイケデリクスと絡めて探究していこう。まず実存について思いつくのは、これまで学んできた批判的実在論と思弁論的実在論の活用である。無については日本思想に関心を持ち始めた自分にとっては西田幾多郎先生の仕事が非常に重要な役割を果たすだろうと思う。創造についてはベルグソンが概念を提唱し、その概念を受けたホワイトヘッドが発展させたプロセス哲学を参照する必要があるだろうか。いずれにせよ、これまで自分が少なからず研究として触れて来た思想家の仕事がサイケデリクスに吸い込まれるようにして新たな研究として形になろうとしていることを嬉しく思う。フローニンゲン:2023/11/24(金)07:11


11402. サイケデリック研究におけるブルーオーシャンに乗り出して


夜明けまでもう少しのところまで時間が進んだ。超越的なリアリティには時間はなく、それは時間の外にあるのだが、こちらのリアリティには時間があり、時間のある世界で生きることもまた一興だと最近感じる。先ほどの日記の中で、実存·無·創造について自身のサイケデリック哲学研究で取り上げていきたいと述べていた。それに加えて、自己にも関心があることを改めて思った。自己(self)とは何かをサイケデリクス体験から紐解いていくこともサイケデリック哲学の営みの中で必ずやっていこう。それは私たちの存在そのものに関わる重要なテーマだと思う。

昨日は6冊ほどの書籍を受け取り、その中に日本思想の論文集がある。オックスフォード大学から出版されるハンドブックシリーズの論文集は秀逸で、実は同シリーズの社会科学哲学と科学哲学の論文集を昨日受け取っていた。その2つの書籍については、サイケデリクスに関する自然科学と社会科学の在り方を見つめ直すためというのが最大の購入目的である。現在のサイケデリック研究は自然科学、とりわけ神経科学のアプローチがブームであり、社会科学的なアプローチは実は少ない。今後、社会科学からサイケデリクスについてアプローチする研究も増えていくことが望まれる。今のところはサイケデリクスの使用に関する社会学的な研究や、世界の歴史を踏まえての古代から現代にかけての世界の様々な地域でサイケデリクスが活用されて来たという点についての文化人類学的な研究があるくらいである。

届けられた日本思想に関する論文集は今の自分にとって極めて重要である。自分が日本人であることの意味を考えたときに、そして独自の観点でサイケデリクス学に貢献する道を考えたときに、日本思想を深く学び、その観点を活用することが重要だと思ったのである。これまで日本思想を英語で学んだことはほとんどなかったが、探せば英語での学術書は結構出版されており、論文ベースであればさらに多くの量になる。基本的に日本語で日本に閉じられた日本思想を学ぶことはせず、英語で世界に開かれた形で研究されている日本思想を学んでいく。そのためにはこの論文集はうってつけであり、その他にもまだ数冊日本思想に関する学術書が近日中に届けられる。ここからは英語空間で展開されている日本思想研究に精通していき、そこに欠けているものをサイケデリクスと絡めて研究していきたい。日本思想、批判的実在論、思弁的実在論、インテグラル理論の観点からサイケデリクスについて論じている人は今のところほぼ皆無で、それは完全にブルーオーシャンである。今自分は、サイケデリック研究におけるブルーオーシャンに乗り出しているのだと思った。幸いにも、そうしたブルーオーシャンに乗り出していくに際して必要な船をこれまで作って来たのだと気付かされる。日本思想の船はこれから作っていくが、その他に関してはすでに船がある程度の形になっている状態である。もちろん自分には発達理論という船もあり、その船の先にも広大なブルーオーシャンがある。それらのブルーオーシャンに乗り出し、そこで見えた景色を共有していくことが自分に課せられた大事な使命なのだと改めて深く感じる。今から行う読書もまた、ブルーオーシャンに向かっていく試みであるし、ひょっとしたらもうそれはブルーオーシャンを船で航海している行為なのかもしれない。フローニンゲン:2023/11/24(金)07:35


11403. サイケデリックセラピーの研究から学ぶサイケデリックトレーニング/

ホワイトヘッドのプロテス哲学より


リック·ダブリンが設立した“Multidisciplinary Association for Psychedelic Studies”という組織から出版されているスタニスラフ·グロフの“LSD psychotherapy: The healing potential of psychedelic medicine”という書籍を読み進めている。自分はLSDを自らのセルフセッションの核とはせず、シロシビン·マッシュルームとDMTを核にしていこうと思っているが、本書の中でグロフが言及しているサイケデリック·セラピーの枠組みは、自分のセルフセッションに大いに活用できると思った。昨日にジムで筋力トレーニングをしている最中に気づいたように、サイケデリックトレーニングは無限に奥が深いし、今はそのトレーニングを進めるにあたってインストラクターやトレーナーのような存在は基本的にいない。そのような未知なる領域の中で、色々と手探りでセルフセッションをこれまで進めて来たが、既存のサイケデリックセラピーの研究の知見を自らのサイケデリックトレーニングに大いに活用できると思わされた次第だ。セット、セッティング、服用量の基本的なところから、サイケデリック体験中に生じる現象学的な現象へ理解を深めていけばいくほどに、自分のセルフトレーニングはより進歩を遂げていくのではないかと思われる。サイケデリックセラピーの研究の何がどのように自分のセルフセッションに活かせるかを常に考えながらその研究成果に触れていこうと思う。

早朝からの読書は捗り、今3冊目の書籍の再読に取り掛かっている。それはサイケデリック哲学者のピータ·ショステッドの書籍で、今回が3読目なので一言一句精読をしている。偶然にもサイケデリクスと創造を絡めたテーマに対してはホワイトヘッドのプロセス哲学が参考になると思っていたところ、昨日からの続きとしては今日はホワイトヘッドの思想の箇所から読み始めることになった。

ホワイトヘッドのプロテス哲学には様々な重要な点があるが、1つ面白いなと思ったのは、ある実体が他の実体に速やかに融合していくという指摘である。実体は経験でも思考でもよく、確かにこうして思考が1つ生まれた瞬間にもはやそれは別の中にかと結合しているように知覚される。主体だったものが客体になる瞬間にも、それは新たな客体になりながらもまたそれがさらに新たな主体の中に組み込まれていくような現象も同様に説明できる。ホワイトヘッドのプロセス哲学は多分に仏教的な生成思想ともつながっていることが見えて来ているので、ここからはプロセス哲学との関係性の観点で仏教の生成思想を見ていこう。ホワイトヘッドから学ぶことはまだまだたくさんあり、まずはショステッドのサイケデリック哲学思想のレンズを通じてそれを理解していく。フローニンゲン:2023/11/24(金)09:35


11404. サイケデリクスの本当の固有性は何かという問いに直面して


サイケデリクスの本当の固有性は何かという問いについて考えている。その問いをもたらしてくれたのは、昨日届けられたオックスフォード大学出版から出版された“Psychedelic experience: Revealing the mind (2023)”という最新書である。これは生粋のサイケデリック哲学書で、実に読み応えがある。著者のアイダン·リオンはまだまだ若い哲学者で、同世代だと思われるが、彼のこの著作物に色々と刺激をもらっている。

書籍の流れとして、彼のユニークな3つの仮説をまず提示し、その仮説の検証に関して様々な科学的発見事項や過去の哲学者の理論に触れていく形で進む。まず斬新な仮説に目を開かされたし、それらは盲点になっていた仮説でもあるので、仮説を立てることそのものが哲学的な貢献の1つであるし、仮説を受けてこちらの思考がさらに広がることが哲学に触れる価値でもあると思った。

そこからサイケデリクスの固有の特性について考えていたのだが、考えれば考えるほどサイケデリクスだけに固有の性質などあるのだろうかと思ってしまった。その脳内の働きや度合いについて1人で頭の中で議論してみても、ことごとく自分で反対意見や反証事例が提示され、サイケデリクスに固有の性質などなく、それに類似する実践や存在が無数に存在するように思えて来た。そもそもサイケデリック体験とは何かということについても立ち返って考えさせてくれるのがリオンの書籍の素晴らしさで、哲学の意義の1つである前提を疑うということがまさにこの瞬間の自分に起きている。前提を疑い、本質問うことが自分の身に起こっていて、明確な解答が持てないような状況ではあるが、それがまた新しい思考や気づきを生む原動力なのだとも思う。

サイケデリクスによって引き起こされる内的ビジョンの知覚にせよ、無意識の深い層へのアクセスにせよ、非二元体験のようなトランスパーソナル体験にせよ、それらは全てサイケデリクスの専売特許ではない。いずれも何かの実践を通じて起こるし、何なら何も実践しなくても自発的に生じることすらあるのである。そうなってくると、サイケデリクス体験は逆に言えば至って自然な現象でもあると言える。それらの現象を引き起こす頻度を上げ、度合いを強めてくれるのがサイケデリクスのユニークなところだという主張も説得的ではない。なぜなら、それでは仮にそれらの現象を引き起こす頻度を上げ、度合いを強めるテクノロジーが生み出されたときにはそれをサイケデリクスと見なさなければならないくなってしまう。もっと多角的にサイケデリクスの固有性と定義を見つめ直していく必要性に直面し、その課題を通じてサイケデリクスそのものに対する理解がさらに深まるだろう。とりあえずこの問いを温めることにし、また何か気づきや考察が生まれたら、それについて書き留めておきたい。フローニンゲン:2023/11/24(金)10:44


11405. 日本語そのものに立ち返ることと日本思想に立ち返ることの

真相的な価値を見出して


今日は確かに天気予報の通り風が強い1日だったが、天気予報に裏切られたのは、ほとんど雨が降らなかったことである。実際に時折晴れ間が顔を覗かせていたし、今も夕方の空に夕日が浮かんでいるのが見える。そんな今日もひたすらに読書に打ち込み、何か閃くものがあれば英語でのリサーチノートと日本語での日記の執筆につなげる活動を継続させていた。

先ほど、800ページに及ぶオックスフォード大学出版から出版されている日本思想に関する論文集の初読を終えたのだが、これは秀逸な学術書であった。日本語ではなく英語で日本思想に触れることによって思わぬ発見があったし、日本語の説明ではよくわからない概念もすっきりと理解できるという現象がたびたびあった。この書籍は、今後サイケデリック哲学研究をする際に必ず引用することになるであろう。

京都学派の哲学思想に関する書籍の中の論文を追いかけていると、なぜ体験から言葉が生まれてくるかがわかったという直感があった。体験は「事」であり、事は即座に自己認識と言葉に分岐するのである。「言葉」が「言の葉」であるということはよく聞くが、「言の葉」は「事の葉」でもあり、ゆえに体験には絶えず何かしらの自己認識と言葉が生じる可能性が内包されているのだ。そこから体験を深めるというのは、事としての体験によって自発的に生じた自己認識と言葉の双方を深めていくことなのだ。まさにこうして自らの体験に対して言葉を当てる日記の執筆というのは、自己認識と言葉の双方を育んでくれる最良の実践かと思う。

そこから自己を自分と捉えると、ひょっとしたら「自分」という漢字が示唆するように、自己は己を分けることを本質に持っているのではないかと思った。他者と自分を「自ずから分ける」ことを通じて自己認識を確立し、自己は無限に言葉を発しながら自ずから分ける形で生命活動を続けるような存在に見えてくる。それ以外にも、日本の自然観と自らのサイケデリック思想の見つめ直しとさらなる醸成に向けて、日本の自然観について深い考察を残した思想家の学術書や論文を英語で読んでいきたいと思う。先ほど読んでいた論文集の中にも日本の自然観に関する論文が掲載されていて、それは参考になるだろうし、そこで引用されている文献をどんどんと辿っていこう。こうした分岐現象は探究の本質であり、それもやはり先ほどの自己に内在する分ける力によって生じるものなのだろう。今、日本語そのものに立ち返ることと日本思想に立ち返ることの真相的な価値を見出した思いで一杯である。フローニンゲン:2023/11/24(金)16:26

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