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11115-11123: フローニンゲンからの便り 2023年10月18日(水)



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成人発達理論とインテグラル理論を楽しく学んでいただける「成人発達コラボラジオ」を2023年7月14日より始めました。

タイトル一覧

11115. 今朝方の夢

11116. サイケデリクスによって引き起こされる通称「バッドトリップ」について

11117. 芸術鑑賞と芸術創作の背後にあるもの/集中の重要性

11118. 死ぬまでに一度の景色と真実を胸にしまって

11119. 存在の入れ子を貫く慣性の法則/芸術と学問の意義と役割

11120. 聖なるテキストを必要として/言葉・学問・創作活動

11121. 目覚めとサイケデリクス/フィルターとしての脳と意識

11122. フィルターとしての意識と発達測定/サイケデリクスを通じた自我の死の受容に向けたエリザベス·キューブラー=ロスの死の受容モデルの適用可能性

11123. ホモ·ヴィアトアーとしての人間/巨人の言葉と自分の言葉


11115. 今朝方の夢


時刻は午前5時半を迎えた。今朝は起床した時から暖房が自動で入り、家全体を温めてくれている。自分が寝ている間から暖房は動き出してくれていて、その働きに感謝である。ここから後2時間ぐらいは真っ暗なままである。そこからようやく夜明けを迎える。自分にとってはこの寒く、真っ暗で静けさに包まれた世界に身を置く時間が貴重である。そこには愛おしささえある。


今の気温は4度で通りで寒いわけである。この日記を書き終えてアニマルフローの実践をしたら体は温まるだろうが、湯たんぽを使ったほうがいいかもしれない。今年新しく買い直した湯たんぽはまだ一度も使っていないので、早田航さんからいただいた温度計付きのケトルで70度に温度を設定して、早速今日今年最初の湯たんぽの活用を検討したい。


昨日はシロシビン·セッションの翌日ということもあってか、さほど印象に残る夢を見ていなかったが、今朝方は少しばかり夢の解像度がいつものように高まっていた。夢の中で私は、小中学校時代のある友人が住むアパートに向かっていた。彼は長らく不登校になっていて、それが心配で2人の親友(NK & YU)と一緒に彼の家を訪れた。玄関をノックすると、中から彼が出て来た。いつもは彼のお母さんが玄関に出てくるのだが、何やら彼のお母さんは現在病院に入院中で、1年間は家に帰ってこないそうだった。それはとても大変だと私たちは思い、彼を労った。家の中に入れてもらうと、親友のうちの1人がふと、「実は俺も不登校なんよね」と笑いながら述べた。いつも陽気な彼は自分が不登校であることをオープンに語ってくれた。彼の語り口と表情を含め、彼が不登校であることはむしろ彼が毎日やりたいことに従事できるゆえにとてもポジティブなことに思えた。自分の中では学校はただの建物、あるいは単なる箱に過ぎず、自分もまた学校に閉じられた学びをすることだけは絶対にしたくはないと思っていた人間なので、不登校になった2人には本当に共感していた。そこから私たちはテレビゲームをし始めた。すると気がつけば、ゲームの中の世界と現実の世界が混ざり合い、彼のアパートの周りが不良たちの巣窟になっていることを知った。アパートの周りを歩いていると、幅広い年齢層の不良が溢れていて、こちらに危害を掛けてこないか心配になった。すると、私の左横に年上の小さな不良がいて、彼が私にカネを要求して来たが、それは強引な形ではなく、あればカネをくれという感じだったため何とか無視して逃げることができた。すると気がつけば、私たち4人はスポーツショップにいて、そこの店長が何とLSD研究の泰斗であるスタニスラフ·グロフ教授だった。グロフ教授がカウンターで突然流暢な日本語で話し始めたことに驚き、彼がふと、「そう言えば、君たちの学校にちゃんとうちの店のポスターを貼っておかないとね」と笑顔で述べた。私は小さく会釈をし、そこからはその店に置かれているサッカー用品を見て回った。そのような場面があった。それ以外にも、中学校時代の数学の女性の先生がなぜか古文を教えていて、私は先生が笑顔で投げかけてくる問題に次から次へと答えていった。すると周りの友人たちは私が矢継ぎ早に全ての問題に正解していく様子に舌を巻いていたが、先生は引き続き嬉しそうに私に問題を出していた。フローニンゲン:2023/10/18(水)06:02


11116. サイケデリクスによって引き起こされる通称「バッドトリップ」について


朝の静けさ。闇の世界に包まれた朝に満ちる何か。そこには溢れるエネルギーがあって、それが自分を力強く後押ししてくれる。


先ほどアニマルフローを終え、ヘンプパウダー、小麦若葉のパウダー、そしてカカオパウダーに蜂蜜を加えた飲み物をいつもように飲み始めた。アニマルフローと温かい飲み物のおかげで、湯たんぽを使う必要は今のところなさそうだと思った。しかし低い気温が昼頃までずっと続くようなので途中で湯たんぽにお湯を入れるかもしれない。少し様子を見てみよう。


セロトニン系やトリプタミン系のサイケデリクスがもたらす内的ビジョンについてはこれまで言及していたが、それらのサイケデリクスは単に内的ビジョンを私たちに与えてくれるだけではなく、その人にとって必要な真実を顕現させてくれる点も見過ごすことはできない。ここで言う自分にとって必要な真実とは、これまでの自分が気づけなかった、あるいは気づいていたけど確信がなかったり、見て見ぬ振りをし続けていた深層的な意味と置き換えてもいい。こうしたことがサイケデリクス体験が深まってくると次から次に開示されてくる。それはこちらが望むと望まないとに関係なく顕現してくるものであり、こうした現象を指してハンフリー·オスモンドはサイケデリクスを“mind-manifesting“と名付けたのである。しかしそれは単にマインドが顕現されるというよりも、ソウルやスピリットが顕現してくると述べたほうが正確だろう。もちろんサイケデリクス体験には深まりの階層があるので、マインドの階層で顕現してくるものもあれば、ソウルの階層で顕現してくるものもあり、スピリットの階層で顕現してくるものもあるという図式は押さえておくべきだろう。


通称「バッドトリップ」というのは、サイケデリクスを摂取する目的、環境、服用量によって生じることがあり、特に環境設定に難がある場合や自分の心身の状態が優れない状態で摂取する場合に生じることがある。しかしそれ以上に重要なことは、自らの体験をバッドトリップと形容する人は、開示される内的ビジョンと真実に圧倒され、押し潰されそうになってしまったのだろう。その恐怖たるや凄まじいものがあることは承知である。高服用量で深い体験を得ようとすると、それだけ強烈な内的ビジョンと真実が開示されるのである。サイケデリクスに関する知識をしっかり持つだけではなく、実存的な器や霊的な器がある程度涵養されていなければ、顕現されるものに圧倒され、恐れ慄く現象が生じてしまう点はきちんと認識しておく必要があるだろう。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2023/10/18(水)06:44


11117. 芸術鑑賞と芸術創作の背後にあるもの/集中の重要性


第18回のシロシビン·セッション、それは初めてと言っていいぐらいに本格的にシッター役を務め、そこでの体験から得られたものが非常に大きく、セッション後2日が経つがまだ振り返りをする必要があるぐらいである。


昨日のラジオの中で早田航さんが語ってくださっていたように、絵画や音楽というのはある種身体を通じて見たり、聞いたりできるグロスの世界を超えて、作品の背後には大きく分けるとサトル、コーザル、目撃者、非二元の階層性が存在している。芸術鑑賞において1つ重要なのは、そうした作品の背後に世界を感じ、知覚することなのだと思われる。作り手の芸術家にとってみれば、自らがそうした奥深い世界を感じ、知覚した上でそれを自らの芸術手段を通じて形にしていくことが重要になる。よく巷で言われるように、作品の浅さ深さというのはこの点に現れる現象なのだ。


それともう1つ航さんが体験中の「集中」の重要性について語っていたことも印象的である。サイケデリクスの摂取によってサトル空間において幾何学模様を知覚することはさほど集中はいらないかもしれないし、粒子や波動的なものが知覚されるコーザル空間までならさほど集中をせずとも勝手に導かれていく可能性がある。しかし、目撃者空間以上に入っていくためには集中が求められる。とりわけ目撃者の状態へ入るフェーズと非二元に入るフェーズにおいては集中が求められるかもしれない。少なくとも目撃者の状態においては集中は鍵であろう。意識の凝縮力を活用しないと目撃者からすぐにコーザルに転げ落ちてしまう可能性があるし、非二元に入っている時にもある種意識が世界そのものに溶解するという状態にとどまるための凝集力がなければすぐに目撃者の意識状態に転がり落ちてくる。意識状態というのは興味深いもので、まるで瞬間移動するかのように様々な意識状態の階層に出たり入ったりを繰り返すことができるのだ。この時にポイントになるのが、仮にその状態に留まりたい場合には集中の力が必要になることである。集中といってもそれは覚醒状態におけるマインドの集中とは少し異なり、非二元の意識状態における純粋なマインドにおける集中や、1点としてのソウルにおける集中が求められると述べればわかりやすいだろうか。いずれにせよ、こうした高度な集中力がセッション中に求められ、だからこそ日々の瞑想実践が重要なのである。瞑想も座禅も、究極的には意識状態の深い階層に入っていくためにあるだけではなく、その状態に留まることを可能にする集中力を養うことを目的にしているのだと思われる。ここ最近はサイケデリクスの探究と実践を本格的に始めたことに伴い、日々の瞑想実践を見つめ直し、とりわけ瞑想をする時間を少なくとも寝る前にはしっかり取るようになった。そう考えてみると、そもそも一時期は瞑想実践から離れていたのであるが、IELTSやGREの試験に向けて集中力が求められたので、それらの試験を受けるタイミングから瞑想実践を数年ぶりに再開させた。今から思うと、瞑想実践の再開は、単にそれらの試験を突破するためにあったのではなく、サイケデリクスの実践を深めるためにあったのだと自覚する。世界はこのように偶然の導きと偶然という名の必然性に満ちているのだとありありとわかる。フローニンゲン:2023/10/18(水)07:23


11118. 死ぬまでに一度の景色と真実を胸にしまって


死ぬまでに一度訪れて見たい場所。この地球上にはそんな場所が各人にあるのではないかと思う。サイケデリクスが知覚させてくれる世界というのもまた、もしかしたらそのようなものなのかもしれない。万民には勧められず、しかし準備ができて、死ぬまでに一度見て見たい真実の世界を見にいくことは、絶えず誰しもに開かれていて欲しい。人はこの地球上で足を運びたい場所に関して制限を加えられているわけではなく、行こうと思えばいつでもそこに行ける。そんな場所に一度足を運ぶことができただけで幸せであり、再びそこに足を運ぶことはもはやしないかもしれない。初めて訪れたその世界での体験を心の中に大切にしまいながら、2度目の体験でそれを薄めてしまわないようにこの人生を終えていくこと。それもまた素敵な生き方である。中毒性が限りなくゼロに近いサイケデリクスもまた死ぬ前に一度体験するだけで十分な可能性がある。自分は研究上定期的にそれを摂取しているが、地球上で死ぬ前に一度その景色を自分の目で見ることができたら十分なのと同じく、サイケデリクスが開示する世界を一度自分の全存在階層で知覚することができたらそれで十分な人もきっと多くいるだろう。今はそうしたことができないほどに法律でがんじがらめにされてしまっている国が多く、法律の規制があることそのものが集合意識と個人の意識に影響を与え、本来はその人にとって重要で崇高ささえあるビジョンや真実を歪めた形で見させてしまう可能性がある。人々が安全に、そして社会が健全に機能していくための規制は本当に重要なのだが、現在の多くの国のサイケデリクス規制は耐用年数が経過していることを通り越し、もはや病んでいて末期症状なのである。ゆえに先進的な国がその症状と真摯に向き合い、規制の改革に乗り出している状況なのだ。


そのようなことを考えながら、サイケデリクス科学を進めていく際の注意点について考えていた。サイケデリクス科学もまた科学なので、科学の本質である反証可能性に絶えず開かれていることを忘れてはならない。すなわち、サイケデリクスに関する既存の理論や発見事項が覆る可能性が絶えずあるのだ。それらの前提が覆る反証データが提示されたら、理論も発見事項も覆る可能性が常にあることを絶えず念頭に置いて研究を進めていかなければならない。日々論文や学術書を読む際にも、その理論や発見事項を覆す反証事例や反証データを考えたり、集めたりする態度を常に持ちたいものである。フローニンゲン:2023/10/18(水)08:17


11119. 存在の入れ子を貫く慣性の法則/芸術と学問の意義と役割


洗濯機が止まったようだ。しかし自分の探究は止まらない。自分の歩みにはもう慣性の法則が働いていて、それが止まることは今後一生あり得ないだろう。そして自分がこの肉体を手放し、あの世に行ったとしても自らの探究は進む。それは自分の仕事を受け継いでくれた人たちによって実現される事柄である。存在の入れ子構造の全てに慣性の法則が働くということを知っているだろうか。物理的な世界において、すなわちグロスの世界における物体に慣性の法則が働くだけではなく、マインド、ソウル、スピリットの次元においても慣性の法則は働くのである。それらの次元で慣性の法則を働かせること。それが次世代への継承の本質的な意味なのではないだろうか。


シロシビン·セッションの振り返りの中で、早田航さんが、「芸術の深層的な意味を初めて知りました」「学問でしか表現できない世界があるということを深く理解しました」という趣旨のことを話しておられたことを思い出す。そうなのだ。内的ビジョンの奥の奥にある目撃者や無に転換される前の無限の有が結晶化した光の世界を形にし、表現するのが芸術と学問の役割なのである。前者は絵画や音楽といった特殊な表現手段を持ち、後者は自然言語という人間に与えられた表現手段を持つ。オランダにやって、なぜ自分が学問に深く目覚めたのか、そしてオランダでの生活の2年目に芸術表現に目覚めたのか来ての意味が今であればありありとわかる。あの世界を自分なりの方法で形にし、それをしかるべき人に届けるためだったのだ。


今後も自分は自らの言葉を紡ぎ出し続けていくだろう。それは日記の形式として、書籍の形式として、学術論文の形式として行われていくだろう。そして自然言語的な言葉だけではなく、絵画と音楽という表現形式を採用しながらあの世界を絶えず表現していくであろう。それにキリがないことも知っている。しかしそもそもこの宇宙にはキリがないのである。この宇宙は絶えず無限と永遠に貫かれているのである。だから自分は宇宙と合一しながら、宇宙が持つ無限性と永遠性を体現しながら、無限に永遠に自己を通じて開示させてもらったあちらの世界の景色と真実を伝えていくだけなのだ。自分は宇宙の深層にある景色と真実を伝える媒介者なのだ。そのようなことを改めて思いながらふと窓の外を眺めた。そこには朝の静けさとライトブルーの朝空があった。フローニンゲン:2023/10/18(水)08:30


11120. 聖なるテキストを必要として/言葉・学問・創作活動


シロシビン·セッションを終えてまだ2日なので、知覚も感覚も鋭敏かつ敏感になっている。そんな時は静かな環境で、今の状態にふさわしいものを心身共に摂取していく必要がある。くれぐれも雑多で低質な情報を取り入れないようにしたい。夕方まで英語の書籍を読み進めていき、夕食後には脳を休める意味でも今回のシロシビン体験に紐づく霊的なテキストを紐解こうと思う。先ほど1階に降りていき、段ボールから数冊ほど候補となる和書を引っ張り出してきた。ここからは聖なるテキストを夕食後に読んでいく日々をしばらく過ごす。


サイケデリクスセッションで開示された自らの知覚体験に傲慢にならず、絶えず謙虚な姿勢を保つためにそれを創作活動を通じて表現し、学術的な言葉で語ろうとすることの大切さを改めて思う。またサイケデリクス学者として、サイケデリクス体験について学術的な言葉で理解を深めていくことやそうした言葉を紡ぎ出すことがどれだけ重要なことなのかも痛感する。この実践に終わりはなく、どこまでいっても自らの言葉の限界に直面するのだが、それを今後もやり続けていく。仮にそれを行うことに関心が向かなくなった時。その時はサイケデリクス学者のやめ時なのだろう。


体験にあえて名付けをすることで、他者が実際にその体験をする際に、その体験の未知さに恐れ慄くことを防げる可能性がある。また、体験者がさらに深い名付けを可能にするための跳躍台にもある。自分の仕事は全て他者のための跳躍台なのである。言葉を当てることの意味や役割を疑う者は寝ていればいいのである。言葉を当てることは学問の基礎的行為なのである。学問の道を歩むのであれば言葉を当て続ける行為に従事しなければならない。それが嫌なら最初から学問の道を歩まなければいいだけだ。そして学問だけではなく、知覚体験を表現する手段は他にいくらでもある。創作活動は最たる例であるし、言葉や作品の形態を取らなくても、その知覚体験を他者への感謝の気持ちや愛の気持ちとして行為を通じて表現することも可能なのだ。


そのようなことを考えながら、言葉だけの教育の限界を思う。とりわけサイケデリクス教育や性愛教育も、言葉だけでは限界があるのだ。倫理的に難しいかもしれないが、実際にそれらの体験をさせてみての学びを設計することができないだろうか。言葉と体験の両輪を絶えず大切にすること。それらは陰陽の関係にあるのだ。片方だけでは不十分であり、両方揃って初めて意味のある教育が実現できる。今後自分がサイケデリクス教育を子供から大人まで提供するに際して、どのような学びのデザインができるのか。それについてはこれから自身の学びと実践を深めていく中で絶えず真剣に検討していきたい。フローニンゲン:2023/10/18(水)10:51


11121. 目覚めとサイケデリクス/フィルターとしての脳と意識


時刻は午後2時を迎えた。つい先ほど仮眠から目覚め、すっきりとした脳の状態で今ここにいる。ここから夕食の準備まで再びサイケデリクス研究を進めていく。午後4時頃になったらジョギングがてら近所のコピー屋に立ち寄って書籍を受け取ってきたいと思う。今読み進めている再読の書籍を終えたら、ゼミナールの次の課題図書を選定し、それが決定したら明日からでも補助音声教材を作っていこう。今ゼミナールで取り上げている事柄や教材そのものが今後は英語となって、世界のどこかの学術機関で授業を受け持つ際に活きてくるのだろうと展望が開けてくる。


往々にして私たちは知らず知らず大切なことを忘れながら日々を生きている。神秘家のグルジェフが述べるように、大半の人たちは眠ったままなのだ。大切なことに気づかずに眠ったままの状態、真実の世界に目覚めることなく眠った状態なのだ。サイケデリクスはある種目覚めをもたらす。私たちが忘れている大切なことを思い起こさせてくれる働きを持つのである。また、大切な事柄に対するこれまで気付いていなかった深層的な意味を開示してくれる働きも持つ。


ベルグソンが提唱した「減量バルブ理論」というのは、脳が宇宙からの無限の情報をフィルターのように減量させる形で私たちに情報を送っていることを示唆するものだ。そこでのフィルターは、私たちが無限の情報に圧倒されないように、目的に応じて情報を選別する形で私たちに情報を送り届けてくれる働きがある。排便の際には排便に関する情報を脳が察知しておく必要があるし、横断歩道を渡る際にはその情報が必要であるし、偏微分方程式を解く際にはその次元での情報が必要なのだ。この宇宙には無限のグラデーションがかかった次元があり、そこに情報が隙間なく無限に満ちているような状態なのである。それらの全ての情報を脳が受信すると脳は混乱し、精神は錯乱する。それを防ぐために脳がフィルターの役割を果たしているのだ。インテグラル理論の観点で言えば、脳と意識は相互作用しているので、ベルグソンが提唱した減量バルブ理論は意識にも当てはまるだろう。意識もまた宇宙からの情報を選別するフィルターとして機能していると見ることができるだろう。つまるところ意識の発達とはこのフィルターの質的差異を表し、情報摂取量と解像度を規定するものなのだ。ゆえにサイケデリクス体験で仮に大きな体験や洞察を得られたとしても、それは今の自分の意識段階という意識のフィルターを通じて知覚されたものに過ぎない。そうした謙虚さが必要であり、そうでなければこの分野の研究など続けようがないし、サイケデリクス研究の泰斗たちがある程度の頻度でサイケデリクスを摂取し続けていたというのはまさに、自身の意識段階というフィルターの限界性ゆえであるというのも1つの理由になり得るだろう。確かにサイケデリクスは、既知だったものの既知性を高め、確証さをもたらしてくれる。しかしながら、未知なるものがまだ無限に広がっているということを認識しておかなければ、サイケデリクス体験という、いや人間の内的体験という宇宙規模の無限な広さと深みを持つ世界の探究などできないということを肝に銘じておきたいと思う。フローニンゲン:2023/10/18(水)14:18


11122. フィルターとしての意識と発達測定/サイケデリクスを通じた自我の死の受容に

向けたエリザベス·キューブラー=ロスの死の受容モデルの適用可能性


意識の発達というのは、意識のフィルターの涵養に他ならない。情報で満ちた宇宙から何を汲み取り、何を生成するかのフィルターとしての意識を磨いていくことが意識の発達という意味である。そのような気づきがやってきた。発達心理学の研究に基づく発達測定というのは、まさに意識というフィルターを媒介にして言葉として形になったものからフィルターの性質を逆算的に特定していく作業なのだ。ふとした形で無意識的に生まれた言葉であればあるほどにフィルターの性質を如実に映し出す。サイケデリクス研究とその体験を深めていくことを通じて、これまで自分が取り組んできた意識の質的差異に関する洞察も間違いなく高まっている。意識の機能の中でもとりわけ言語フィルターによって濾過されたものを見ることを通じて濾過機能としての側面における意識の段階を特定していくことが発達測定の本質になる。


今から気分転換にジョギングをしながら近所のコピー屋に行ってこようと思う。そこで書籍を1冊受け取って帰ってくる。注文した300冊を超える書籍もいよいよ全てを受け取るまであと少しだ。次回また追加で書籍を注文するのは今年の年末や年明けにしようと思う。年越しを新たな書籍を読むことを通じて祝い、新年を新たな書籍を読むことを通じて祝うことができたらと思う。


先ほど初読として、スイス生まれの精神科医のエリザベス·キューブラー=ロスの2冊の主著を読み進めていた。そこで書かれている死と向き合う5段階モデルは、サイケデリクスを通じた今の段階の自我の死の受容に対しても活用できると思ったし、死を哀しむモデルについても同様に適用可能性があると見た。死を受容するプロセスにも5つのステップがあり、死を哀しむプロセスにも大別すると5つのステップがある。これらのステップを踏んでいくことが、サイケデリクスを通じた自我の死をさらなる成長に向けて健全に実現することにつながるのではないかと思った。これは自らのサイケデリクス·セッションに対しても適用したいモデルであり、今後またサイケデリクスを他者に提供するセッションをする際にも、その方の現在の自我を手放すことを支援する際に非常に有益だろう。フローニンゲン:2023/10/18(水)15:34


11123. ホモ·ヴィアトアーとしての人間/巨人の言葉と自分の言葉


今日から湯たんぽを使い始めた。夕方に1度活用し、夕食後にまたお湯を入れ替えて今温かい湯たんぽで腰を温めている。そろそろ就寝前の入浴をしようと思うので、湯たんぽをベッドに入れてベッドを温めておこうと思う。


振り返ってみると、今日も充実した1日だった。日課の創作活動に加え、今日から再びサイケデリクス研究を行い始めた。ロッテルダムでの滞在とシロシビン·セッションを受けて、それらがひと段落したので、今日から本格的に探究を再開できたことは大きな喜びであった。


探究活動というのはまた1つの旅なのである。私たちはホモ·ヴィアトアー(Homo viator)、すなわち私たちは誰しもが旅人なのである。人生そのものが旅であることに加えて、知的活動もまた旅なのである。今従事しているサイケデリクス研究という旅は永遠の方を向いている。そこには永遠が口を大きく開けて待っていて、自分はその永遠に向けて出発した。そしてすでに永遠に包まれる形で毎日研究活動に従事している。永遠に向けた旅立ちは、すでにもう始まっていて、自分は絶えずその旅路の最中にいる存在なのだ。いやひょっとしたら、永遠に向かっているのではなく、すでに今この瞬間もまた永遠であり、自分の存在も永遠なのかもしれない。なので永遠としての自己が永遠としての世界に出会う地点に向かって出発を始めたと言えるだろうか。これままた感覚的に不十分な描写である。すでに永遠なる自己は永遠なる世界と出会いを果たしている。というよりも、生誕からここまで一瞬たりとも両者は分離したことはなかったはずなのだ。それに気付けなかったことが分離感を生み、それに気付けたことが両者の完全なる合一を実現させる。


巨人の肩に立って学習と実践を進めていくこと。その過程において、巨人が残してくれた言葉を用いることを大切にしながらも、その言葉で語りきれない側面に気づき、同時に自分なりの言葉を閃くことがあれば積極的にその言葉を表現していくこと。それが巨人の肩に乗りながら自分の歩みを進めていくことなのだろうし、この世界への貢献の1つの形なのだろう。最初から全て自分の言葉で語ることはできないし、全て誰かの言葉で語ることもできない。そもそも今述べた「最初」も「全て」も「自分」も「言葉」も何もかも、自分ではない誰か先人が残してくれた言葉なのである。そうした言葉を有り難く伝承しながら、もし何か自分に新たな言葉が降ってきたらそれを臆することなく表現し、共有すること。そうしたことを今後もより一層力を入れて取り組んでいきたい。既存の言葉を活用することはこれまでの世界を引き継ぐことであり、新たな言葉を生み出すことは新たな世界を生み出すことなのだ。言葉と世界の関係もまた自分に深くその意味を開示してくれている。フローニンゲン:2023/10/18(水)20:00

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