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10945-10950: フローニンゲンからの便り 2023年9月22日(金)



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タイトル一覧

10945. 今朝方の夢

10946. 瞑想とサイケデリクスを通じた超越への道について

10947. サイケデリクスに関する鈴木大拙とマリア・サビーナの指摘より

10948. サイケデリクス研究の歴史を眺めながら/アメリカでの各種のサイケデリクス体験がもたらしてくれたもの

10949. 散歩とエコロジカルアウェアネスの目覚め

10950. 聖なる薬と超越世界への敬意を持って


10945. 今朝方の夢


時刻は午前7時半を迎えた。辺りはもう明るくなっているが、空は雲で覆われていて、朝日を拝むことはできない。今の気温は13度で、2階の書斎もかなり冷えている。部屋の室温が19度を下回って自動で暖房が入る日もそれほど遠くないように感じる。すっかりと秋を感じさせるフローニンゲンだ。


今朝方は2つ印象に残る夢を見ていた。1つ目として覚えているのは、12人の剣士と12匹の人間の姿をした怪物が大きな城の中の広い畳の部屋で戦う場面である。両者は確かに敵同士なのだが、お互いの戦いはフェアプレーの精神で貫かれていた。確かに彼らはそこで真剣な殺し合いをしていたのだが、お互いにとても楽しそうに笑顔を浮かべていたのがとても印象的である。彼らは命のやり取りを楽しみ、己の剣の技術を試すのを心底楽しんでいるようだった。12匹の怪物のうち、まだ姿を現していないのが1匹だけいて、それは人間の心を理解せず、唯一フェアプレーなどを無視した形で攻撃をしてくる可能性があることが予想された。結局最後の1匹は姿を現さないままに、1対1での戦いが順番に進んでいった。この場面の最後に、結局誰1人死ぬことはなく、お互いの健闘を称えあっている姿がとても印象的で、清々しい気分になったのを覚えている。


もう1つ覚えているのは、一昔前のサッカー日本代表と当時世界最強だったフランス代表が親善試合をしている場面である。フィールドにはよく知った選手ばかりがいて、どういうわけか私も日本代表としてボランチの右のポジションを任されてプレーしていた。試合展開として、スコアは2対2の状況で、相手のゴール前でフリーキックのチャンスを得た。ここでキッカーは、司令塔の選手に任せるべきかと思ったが、司令塔の選手の左横にいたボランチの選手がトリックプレーでボールを受け、少しドリブルをしてキーパーの位置をよく見てループシュートを放ったら、それが見事に決まった。相手のゴールキーパーはなぜかブラジル代表の長身の選手で、その選手相手にループシュートを放つというのは本来は理論通りではないが、それが見事に決まって選手一同、そして観客も全員が驚いていた。ゴールを決めた選手に通ったところ、ループシュートで決めれる自信があったとのことで、度胸もそうだが素晴らしい技術だと改めて思った。そこから試合が再び開始された時、フランスの選手が「予測の原則」というルールについてこちらに抗議してきた。その選手曰く、ドリブルなどの進行方向に先にディフェンスの選手が入っていた場合、それはファールになるとのことだったが、むしろ逆で、ディフェンスの選手が先読みをして最初にコースに入っていて、攻撃側が後からそこに入ってきてディフェンスの選手にぶつかった場合には、攻撃側のファールだと私は述べた。それについては審判に確認しようということになり、そこで一度試合が中断になった。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2023/9/22(金)07:52


10946. 瞑想とサイケデリクスを通じた超越への道について


今日もまた静かな朝の世界に浸りながら穏やかな心でいる自分がいる。耳を澄ませば、庭側の木に止まっている小鳥の鳴き声が聞こえてくる。そして車庫の上を冒険している1匹の猫の姿が見える。


瞑想というのは自らの内側の力を活用して超越に至る道を作る。一方のサイケデリクスは自らの内側だけではなく、外からの働き掛けを通じて超越に至る道を作る。瞑想を自力の道と捉えるならば、サイケデリクスは他力かつ自力の道だと言えるだろうか。サイケデリクスを活用する際の目的·環境·服用量を望ましいものにしない場合に、それは単なる他力の道と化し、超越に至る道は開かれない。サイケデリクス体験の最中に瞑想を組み合わせることは大変効果があり、どちらか片方だけを行うよりも効力がある。


瞑想による非二元の状態は内因的な力を活用することになる。それは自分の意識の内在的な力を活用して、脳内物質を変化させ、意識の状態を変えていく。一方のサイケデリクスによる非二元の状態は、サイケデリクスという外因的な力を起点にして、自らの意識と脳内物質という内因的な力の双方が刺激される形で実現される。宗教者の中や瞑想実践者の中には、サイケデリクスを活用して超越の道に入ることを批判する者が昔からいるが、それは批判されるべきものでは本来ない。到達されるべきものは同じであり、両者は道が異なるだけなのであり、どちらの道が良いとか悪いとかは本来ないのである。サイケデリクスが持つ外因的な力は巨大なものであるため、諸々の注意が必要なのは確かである。しかし、それらの注意事項の中には瞑想実践における注意事項と同じものがあり、結局瞑想の実践者も魔境体験に取り憑かれてしまったり、内的ビジョンの美しさに取り憑かれてしまうことがあるのは、サイケデリクス体験の注意事項と同じである。


瞑想に関する神経科学の研究が進んでおり、サイケデリクスに関する神経科学の研究も進んでいる。興味深いことに、両者による脳内現象はほぼ同じであることが明らかになっていることを見ると、瞑想とサイケデリクスの中でも内的ビジョンを知覚させる類のものは、脳への働きかけ方と脳内現象は非常に似ているのだ。


これまでの自分はサイケデリクスを通じた超越への道についてはかなり慎重で、疑い深かった。それはまるで道をバイパスするかのようなものなのではないかという懸念があったが、次々と明らかになってきている科学的な研究結果を見るにつけ、そして意識に関する哲学思想を学べば学ぶにつれ、サイケデリクスを通じた超越への道は、アプローチを慎重にしなければならないのは当然だが、決して批判されるべきものではないし、むしろ肯定的なものであり、うまく積極的に活用していくべきものであるとさえ最近は考えるようになった。こうした考えのシフトをもたらしたのは、自分自身がサイケデリクスについて深く探究し始めたことが関係しているだろう。ここからもサイケデリクスに関する包括的な知識を獲得していき、思索を一歩ずつ深めていこうと思う。フローニンゲン:2023/9/22(金)08:48


10947. サイケデリクスに関する鈴木大拙とマリア・サビーナの指摘より


平常心。それこそが悟りへの道である。そのように述べたのは鈴木大拙氏であったか。鈴木大拙氏の晩年は、ちょうどアメリカでヒッピームーブメントやヒューマンポテンシャルムーブメントが起こっており、それは第一次サイケデリクスブームと重なる。鈴木大拙氏は、ヒッピーやヒューマンポテンシャルムーブメントに従事していた人たちが活用していたLSDを含めたサイケデリクスには懐疑的で、それを通じた悟り体験は純粋なものではなく、単なる魔境体験に過ぎないと警鐘を鳴らしていた。しかしながら、アルバート·ホフマンたちの研究が進むにつれて、実際にLSDを摂取してみようかと思い始めたときに大拙氏は天に召された。そのような歴史的事実がある。仮に大拙氏がLSDを摂取していたら、どのような感想を持ったのかとても気になるところである。


かつてゴードン·ワッソンにシロシビン·マッシュルームを紹介したマサテコ族のマリア·サビーナは、後にアルバート·ホフマンが合成に成功した人工的なシロシビンを摂取したところ、そこで得られた体験について、「聖なるマッシュルームと全く同じだ」と述べたそうである。もちろん厳密に言えば、アントラージュ効果を含め、天然のシロシビン·マッシュルームと実験室で合成されたシロシビンは、化学的にもどこか差異はあるだろう。そしてその差異は、脳や意識への働きかけに対しても微細な差異はあるだろう。しかしながら、体験をしている当人はそのような微細な差異にまで気づくことができないのが通常であり、体験として起こる脳内現象や意識現象はどちらも同じものとして捉えられるのだろう。


そのようなことを考えていると、尚更大拙氏がLSDを摂取したらどのような感想を持つのか気になるところである。今のところ、大拙氏のサイケデリクスに関する指摘に対して共感するところはありながらも、それを一度も体験したことがない場合には、現象学的体験の欠落ゆえに、あまり包括的な指摘とは言えないという問題がある。ただし、1つ重要な指摘は、結局のところ瞑想にせよ、サイケデリクスにせよ、それらはいずれも変性意識に誘うものであり、そうした特殊な意識状態から離れた日常の圧倒的多数の時間を過ごす通常意識において私たちが何を考え、どのように振舞うのかが大事であると説いたことだろう。平常心。それこそが悟りへの道である。この言葉を胸に、瞑想とサイケデリクスをサイコスピリチャルテクノロジーとしてうまく活用しながら、それを活用していない通常の意識状態での自分の心の状態を常に平穏·健全に保っておくことを心がけておきたいものである。フローニンゲン:2023/9/22(金)09:01


10948. サイケデリクス研究の歴史を眺めながら/アメリカでの各種のサイケデリクス体験がもたらしてくれたもの


様々なサイケデリクスがある中で、DMTは1931年に初めて合成され、LSDは1938年に初めて合成された。THCが初めてカンナビスから分離されたは1964年である。それらの物質は初めて合成·分離がされて以降、その安全性や効果について研究が積み重ねられている。シロシビンに関しても、LSDと同様に、1950年代の初頭から科学的な研究が進められている。その点を考慮すると、通称クラシック·サイケデリクスと呼ばれるものの研究の歴史は古く、少なくともいずれも60年以上の研究の蓄積を持っていることになる。そのおかげもあって、安全性や効果については随分と様々なことがわかっていている。しかしながら、脳内現象や生理現象においてはまだまだ未解明の事柄が多いのも事実である。そうした状況を鑑みると、科学的発見事項を鵜呑みせず、絶えず健全な批判精神を持ってサイケデリクス研究を捉えていく必要があるかと思う。科学研究は非常に重要な役割を果たすが、一方で科学には常に限界や盲点がつきものでもあるので、科学的な研究成果を鵜呑みにすることだけは避けなければならない。


午前中のサイケデリクス研究は順調に進んでいる。今日はまず2冊ほどサイケデリクスに関するかなり硬質な学術書を読み進めた。今はLSDに関する一般書を読み進めている。読書の中でふと、小学生ぐらいからでも読めるような、「サイケデリクスのやさしい教科書」をいつか執筆したいという思いが湧き上がった。新書でそのようなタイトルの書籍をいつか出版できるように、広範かつ深い知識を獲得していき、サイケデリクスについて平易に語る訓練を様々な方法で今から行っていこうと思う。コラボラジオの場やゼミナールの場は、その機会を提供してくれる優れた場所である。


先日ふと、アメリカでの各種のサイケデリクス体験は、日本とのへその緒を切り、日本文化を相対化させることを促す自立を実現させてくれたのだと思った。日本の文化的価値観や世界観から一度距離を取り、それらに染まった自らの内面世界を脱構築するための機会を提供してくれたのがアメリカでのサイケデリクス体験であり、その儀式だったのだと改めて思う。そのおかげで自分は少なくとも、日本の文化的価値観や世界観に無自覚に縛られている状態から解放され、次の次元の自由を獲得することになった。先ほど読み進めていた書籍の中で、ハーバート·マークーゼの美学思想とサイケデリクスとの関係性について記述があり、まさらに自分の中で新たな価値体系と美意識が芽生えたのはアメリカでのサイケデリクス体験が重要な役割を果たしていたと言える。ここからは美学や倫理学の観点からもサイケデリクスについて探究していこう。フローニンゲン:2023/9/22(金)10:46


10949. 散歩とエコロジカルアウェアネスの目覚め


空が随分と曇ってきた。今、時刻は午後4時を迎え、つい先ほど買い物から帰ってきた。幸いにも行きも帰りも雨に見舞われることなく、ひんやりとした空気の中での散歩を楽しむことができた。雲の様子を見ていると、雨雲のようなものが遠くの空に見えており、それらがもうそろそろ雨を降らすだろうと予感させる。


昨日はジムでトレーニングを行なったが、最近は筋力が増強されただけではなく、持久力も着実についており、さらにはトレーニング後の回復力も格段に増している。筋肥大のためにはもっと強い刺激を入れなければならないのかもしれないが、今のところ着実に筋力が上がっているので、焦ることなく引き続き今のような強度でトレーニングを続けていきたい。兎にも角にも自分は単に体を大きくすることには関心がなく、日常をより楽に過ごせるような引き締まった体と武術に適した体作りをすることが目的としてある。そんな目的を持ってトレーニングを週に2回はジムで行い、その翌日は中央市場に散歩に出かけることがすっかり習慣になっている。トレーニング翌日のアクティブレストとしての散歩がてらの買い物はとても良く、そのおかげで心身がさらに整っていることを実感する。自分は研究者として書斎に籠もっている時間がただでさえ長いので、ジムでのトレーニングや散歩に出かけることは良い気分転換になるし、何よりも心身を整える上での優れた実践になっている。


中央市場に行く前にフローニンゲン大学のオフィシャルグッズショップに立ち寄って、付箋を2つほど購入してきた。今使っている付箋が随分と減ってきたこともあり、新たに追加購入をした。自分はあまり書籍には付箋を貼らないタイプなのだが、サイケデリクス学研究を始めてからは、論文の執筆に向けて、今後論文を執筆するにあたって再度読み返したい重要な箇所には付箋を貼るようにしている。興味深いことに、購入した付箋の外側の紙のカバーはリサイクルできるだけではなく、それを土に植えると植物が生えてくるらしい。なんとカバーに植物の種が埋め込まれているとのことだった。ここ最近はサイケデリクスの学習と実践を通じてエコロジカルアウェアネスが目覚めたこともあり、こうしたプロダクトには興味が惹かれ、ついつい積極的に試してみたくなる。今の付箋も同じく種がカバーに埋め込まれているものなので、使い切ったら早速庭の土に埋めてみようと思う。フローニンゲン:2023/9/22(金)16:09


10950. 聖なる薬と超越世界への敬意を持って


今読み進めている学術書の中に、「DMTはその使用者を選ぶ」という記述があった。その記述を受けて、前回のシロシビン·セッションにおいて2人の間に何も起こらなかったことについて考えていた。ひょっとしたら、DMTのみならず、通称「聖なる薬」と呼ばれているサイコアクティブな物質は、その使用者に超越的な体験をもたらすかどうかを選択しているのかもしれない。こちら側が決めるのではなく、あちら側が決めるのである。あちら側とはもちろん聖なる薬を主に指すが、それだけではなく超越世界そのものも含まれる。こちら側の準備や動機を総合的に勘案して、聖なる薬と超越世界の両者が使用者に大きな知覚変容体験をもたらすかどうかを決めているように思えてくる。それは超越的な世界の裁判所で行われる判決みたいなものである。


そのようなことを考えていると、逆に聖なる薬を摂取して大きな知覚変容を体験し、非二元の世界に入れることは非常に貴重なことであり、有り難いことなのだと思った。まさにそれは「有り難い」のである。これまでの自分はひょっとしたら謙虚さに欠けていたのかもしれない。聖なる薬を摂取することを通じて超越的な世界に参入できることを当たり前のように思っていた節がある。それはかなりの傲慢であると反省している。今後は聖なる薬と超越的な世界そのものに対して謙虚な心を持ち、深い知覚変容を通じた非二元を体験することができたなら、そのことには深く感謝しないといけないと思った。今後のセッションでは、体験に入っていく前に深く祈りを捧げるような儀式を設けたいと思う。ちょうどまた10日後に来客があり、そこでもシロシビン·セッションを提供することになっているので、次回から早速謙虚な気持ちを持ち、聖なる薬と超越世界の双方に多大なる敬意を払ってセッションを行いたいと思う。フローニンゲン:2023/9/22(金)16:33

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