top of page

【フローニンゲンからの便り】17378-17381:2025年9月12日(金)


ree

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。


タイトル一覧

17378

バーナード・デスパーニャの『On Physics and Philosophy』

17379

今朝方の夢

17380

今朝方の夢の振り返り

17381

モーニングソルトウォーターの習慣を始めて

17378. バーナード・デスパーニャの『On Physics and Philosophy』 

 

時刻は午前7時を迎えた。今日は起床直後から雨が降っていたが、今は雨が止み、遠くの雲間から朝日が輝き始めた。午前中のどこかでまた少し雨が降るようだが、午後からは雨が降らずに曇りがちの1日になるようだ。今日は書籍の執筆をする予定はないので、IELTSの模擬試験を含めて存分に対策を進めていけるだろう。対策も架橋に入り、最終的な調整の段階に入ってきたことを嬉しく思う。


先日届けられたバーナード・デスパーニャ(Bernard d’Espagnat)の『On Physics and Philosophy』という書籍は、量子力学の基礎問題を軸に、自然科学と哲学が直面する根源的な問いを統合的に探究した著作である。本書は単なる科学史の回顧ではなく、実在の性質や人間の認識の限界に踏み込む哲学的省察を伴う点に特色がある。デスパーニャは、量子理論の成果を踏まえながら「物理学が私たちに語りうる世界像」と「人間精神が到達しうる哲学的洞察」とを橋渡ししようとする。量子力学の解釈問題は、古典的世界観の「客観的実在」像を揺さぶった。観測行為と被観測対象が切り離せないという特性は、ニュートン的な機械論的実在観を大きく超えている。本書でデスパーニャは、量子理論が提示する非局所性や観測依存性を詳細に検討し、それが哲学的リアリズムに与える含意を探る。彼は「弱い実在論(veiled reality)」という独自の立場を提示し、私たちの経験世界の背後に、直接的には到達し得ないが確かに存在する「ヴェールに覆われた実在」があるとする。この立場は、極端な唯心論や徹底した構成主義を退けつつも、素朴な物理主義的実在論を批判的に超えるものである。また、デスパーニャは量子力学を哲学的伝統に接続する試みを行い、カント的認識論やフッサール的現象学と比較しつつ、科学が示す限界を「人間的認識の構造」に還元する議論を展開する。例えば、観測者が世界に参与するあり方は、主体と客体の二元論を超える契機として示される。また、実在の「ヴェール性」は、スピノザやプラトン的伝統とも響き合うものであり、物理学が哲学と切り離せない領域に踏み込んでいることを強調する。さらに本書では、科学と倫理、宗教的問いの関係にも言及がある。量子理論が開いた世界観の変容は、単なる理論的問題にとどまらず、人間存在の意味や価値観の再考へとつながる。デスパーニャは科学的合理性を軽視せず、同時にそれを超えた形而上学的・倫理的次元を不可欠とみなす点で独自である。科学と哲学の往還を通じて、彼は「物理学が世界について最終的な言葉を語るのではない」という態度を一貫して示している。総じて『On Physics and Philosophy』は、量子力学の哲学的解釈を手がかりに、科学的認識と人間的世界理解の限界と可能性を問う書物である。デスパーニャが唱える「ヴェールに覆われた実在」という概念は、科学と哲学、さらには人間の精神的営みを架橋する試みとして今日なお示唆的であり、物理学の成果を超えて人間存在の意味を問い直す重要な視座を与えている。フローニンゲン:2025/9/12(金)07:18


17379. 今朝方の夢

             

今朝方は夢の中で、ある知人の方が1人だけファーストクラスに搭乗し、他の知人の方々がそれを批判していた場面があった。その知人の方は、本当は1人ではなく、他の知人の方と一緒にファーストクラスに搭乗する予定だったので、他の方々からの批判は正当なものではなかった。そもそもどの搭乗クラスを選ぶかは、最初から個人の自由でもあったのだ。その方からそのような話を聞いたのは、実際に通っていた小学校のグラウンドの上でだった。話を聞いた後に、体を動かしてその件を忘れるために、私たちはサッカーをし始めた。その方は昔ラグビーをしており、そこで培われたキック力は見事なもので、私を含めてその場にいた他の友人たちを驚かせた。私はそこからトラップとキックのその日の感触を確かめたところ、とても調子が良さそうだったので、その状態でゲームを始めることにした。自分のキックの精度は際立っており、味方へ長短の絶妙なパスを何度も出してアシストしていると、だんだんマークが厳しくなってきて、最後には相当に厳しいマークに合ったが、それも含めて終始自分はゲームを楽しんでいた。


次に覚えているのは、これまた実際に通っていた小学校から歩いて30分ぐらいかかる場所にある社宅のアパートの向かって帰っている場面である。その時の自分は空を飛んで移動しており、海沿いの見事な景色を堪能しながら快適に飛んでいた。すると、飛ぶことに没頭していたため、すでに自宅を随分と通り過ぎていることに気づいた。なので方向転換をして東の方に向かったところ、見慣れない緑豊かな町が見えてきた。高度を下げてみると、外国車が多く、看板も英語で、どうやらそこは米国中部の町であることに気づいた。暗くなり始めてきたので、一旦地面に着地すると、そこはガソリンスタンドで、その周りには中国系とアフリカ系の2人の若いアメリカ人のホームレスが何かぶつぶつ呟きながら徘徊していた。彼らには関わらないようにしようと思って、スマホを取り出してすぐに自宅に向かう方向を確認し始めた。すると、自宅からはもう考えられないほど遠くの場所にいることに気付かされた。すると偶然にも、ゼミでご一緒しているある知人の方と遭遇し、その方曰く、明日この町で特別な展示会が開催されるので、一泊ぐらい宿泊して、後日日本に帰ればいいと勧めてくれた。しかし、着替えもなかったのでどうしようかと迷ったが、1日ぐらいであれば同じ服装でも大丈夫かと思ったし、もう辺りは真っ暗になりかけていたので、この状態で数百、いや数千キロ空を飛んで帰ると、疲労ゆえに海の上に落ちてしまう可能性があったので、その方の勧めに従って、一泊していくことにした。スマホで辺りを検索すると、偶然にもその町に、日本のある名門私立の中高一貫校の分校があり、こんなところにあるのかと2人で驚いたことも覚えている。フローニンゲン:2025/9/12(金)07:48


17380. 今朝方の夢の振り返り 

 

今朝方の夢の中で最初に現れたのは、ファーストクラスに搭乗した1人の知人と、それに対する周囲の批判である。この場面は、社会における「特権」と「正当性」に関する葛藤を象徴しているかのようだ。批判はしばしば嫉妬や誤解から生じるが、実際にはその知人は他者と共に搭乗する予定であり、またそもそも選択自体は自由であった。ここには、外部からの評価と内的な真実との齟齬が浮かび上がっている。夢が小学校のグラウンドを舞台としていることは、人生の初期に培われた「公平感覚」や「集団の中での位置取り」に関わる深層記憶を呼び起こしていると考えられる。そして批判を「サッカー」という身体活動によって忘却していく場面は、理不尽な状況を身体性を通じて昇華し、自らの技量を発揮することで自由を取り戻す姿を象徴する。特に、ラグビー経験者の知人の強烈なキックや、自らのパス精度の冴えは、自己の潜在力を社会的摩擦を超えて解放するイメージである。次の場面では、夢の舞台は小学校から社宅への帰路に移り、そこで「飛行」が始まる。飛ぶという行為は、現実の制約を超えた精神的自由や、視座の拡張を意味する。しかし自由に飛ぶことへの没頭は、気づけば「通り過ぎる」という形で方向性の喪失を招く。これは人生における「自由と目的のバランス」の課題を示唆している。方向を修正し東に向かった先に現れた緑豊かな町は、未知の可能性の象徴であり、その町が米国中部であるという気づきは、異文化や異世界との遭遇を示している。暗闇とともに現れたホームレスの存在は、社会の影や不安、さらには自分の中にある「見たくない側面」の投影でもある。彼らを避けてスマホで帰路を確認する行為は、テクノロジーを用いた合理的把握への依存を示すが、その結果「自宅から考えられないほど遠くにいる」という現実を突きつけられる。これは人生において、自らの精神的旅路が予想以上に遠くまで来てしまったことへの自覚を象徴している。そこにゼミの知人が現れ、1泊を勧める場面は「受容」と「一時停止」の重要性を教えている。無理に帰還を試みるよりも、そこで新たな機会(展示会)に出会うことが示唆されているのは、人生における偶然の必然性、すなわち「寄り道」が新たな価値を生み出すことを象徴する。疲労や危険を回避し、一時的に留まる選択は、成熟した判断の表れである。そして町に名門校の分校が存在していたことは、未知の場にも自らに通じる文化的・教育的な縁が潜んでいることを告げている。これは「異郷にあっても自己の基盤を見出す力」を示唆しているように思える。この夢全体を通じて描かれているのは、他者からの不当な評価を超えて自己の技量を解放すること、自由と目的性を両立させること、偶然の出会いを受け入れる柔軟さ、そして未知の場においても自己の文脈を発見する力である。人生における意味として導かれるのは、私たちは必ずしも直線的に「帰宅」する必要はなく、寄り道や予期せぬ出会いを通して成長していくということである。批判や迷い、方向の喪失さえも、遊びや寄り道として昇華できるなら、それらは人生を豊かに彩る糧となる。すなわち、この夢が伝えているのは、「自由に飛び、時に立ち止まり、偶然を受け入れることで、人生の航路は自らの器にふさわしく広がり深まっていく」という洞察である。フローニンゲン:2025/9/12(金)08:03


17381. モーニングソルトウォーターの習慣を始めて


時刻は間もなく午後5時を迎える。今日は午後に雷が訪れて、突発的な雨が降ったが、今はそれが嘘のように穏やかな夕方の青空が広がっている。小鳥の囀りも美しく、すっかり秋を感じさせる。


今日の起床直後に少し新しい習慣を取り入れてみた。起床直後に天然の塩を入れた水を飲むという習慣である。それは、近年「モーニングソルトウォーター」として知られ、体内のリズムを整える自然療法的な実践として注目されている。人間の体はおよそ6割が水分で構成されており、さらに血液や体液には電解質と呼ばれるミネラルが溶け込んでいる。塩の主成分であるナトリウムはその代表格であり、細胞の水分バランスや神経伝達、筋肉の収縮に欠かせない働きを担っている。睡眠中は呼吸や発汗によって水分が失われているため、起床時の体は軽い脱水状態にある。そのタイミングで水に天然の塩を少量溶かして摂取することは、単なる水分補給にとどまらず、体に必要な電解質を同時に補うという点で理にかなっているのである。効能としては、まず1つに「体内の水分吸収効率が高まる」という点が挙げられる。純粋な水だけを大量に摂取すると、一時的に血液が薄まり腎臓に負担がかかることがあるが、塩分を含んだ水は腸管での吸収がスムーズになり、効率的に全身に水分を行き渡らせる。2つ目は「消化機能の活性化」である。塩は胃酸の分泌を促す作用があるため、寝ている間に落ち着いた消化器官をやさしく目覚めさせ、朝食の消化吸収を助ける。さらに3つ目として「デトックス作用」がある。腸のぜん動運動が促されることで、便通が改善し、老廃物の排出がスムーズになる効果が期待される。また、天然塩に含まれるマグネシウムやカリウム、カルシウムなどの微量ミネラルは、体内の酵素反応をサポートし、新陳代謝や免疫力の維持にも寄与する。こうした複合的な作用が合わさることで、起床後の塩水は「体を内側から目覚めさせるスイッチ」として機能するのである。では、どれほどの塩を入れるのが適切かという点について考えてみたい。大切なのは「濃すぎないこと」である。塩分が多すぎれば逆に体が水分を失い、血圧の急上昇などを引き起こしかねない。一般的な目安としては、コップ一杯(200ml前後)の水に対して天然塩をひとつまみ、すなわち1~2グラム程度を溶かすのが適しているとされる。これは海水の塩分濃度(約3.5%)よりもはるかに薄く、体液に近いごく低濃度の塩水である。味としては「ほんのりしょっぱい」と感じる程度で十分である。もし味覚的に塩気が強すぎると感じるなら、それは入れすぎのサインであり、量を減らすことが望ましい。反対に全く味を感じない場合は、ほんの少し足すと効果を実感しやすくなる。なお、使用する塩は精製塩ではなく、ミネラルを豊富に含む自然塩(岩塩や天日海塩)が推奨される。注意点としては、高血圧症や腎臓病などで塩分制限が必要な人は、自己判断で取り入れるのではなく必ず医師に相談することが大切である。また、塩水を飲むことが万能の健康法であると誤解してはならない。あくまで体を目覚めさせる一助であり、日中のバランスの取れた食生活や適度な運動と組み合わせて初めて健康的な効果を発揮する。まとめると、起床直後に天然塩をひとつまみ加えた水を飲むことは、睡眠中に失われた水分とミネラルを同時に補い、消化機能の活性化や代謝のサポート、便通改善など、体を内側から整える働きを持っている。最適な量はコップ一杯の水に1~2グラム程度であり、「ほんのり塩味」が目安である。このシンプルな習慣は、朝の体をやさしく目覚めさせ、一日のスタートを清々しく切るための自然な方法と言えるであろう。フローニンゲン:2025/9/12(金)16:55


Today’s Letter

I am so grateful to have my collaborators to study and work with. Without them, my life’s work would not progress. All I need to do is simply appreciate my collaborators. Groningen, 09/12/2025

 
 
 

コメント


bottom of page