【フローニンゲンからの便り】17394-17397:2025年9月15日(月)
- yoheikatowwp
- 6 時間前
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タイトル一覧
17394 | 『Phenomenology and QBism』を振り返って |
17395 | 今朝方の夢 |
17396 | 今朝方の夢の振り返り |
17397 | 平穏で澄み渡る非二元の世界 |
17394. 『Phenomenology and QBism』を振り返って
時刻は午前7時半を迎えようとしている。今、穏やかな朝焼けを拝んでいる。今日は少々風があるようで、最高気温は18度となるようだ。今週末にはいよいよIETLSの試験があり、それに向けて最終調整を行っていこうと思う。
先日初読をした『Phenomenology and QBisms』という書籍の内容を振り返っている。量子力学の中心的課題である「測定問題」は、波動関数がどのようにして1つの結果に収縮するのか、なぜ観測すると確定的な現実が現れるのか、という問いである。コペンハーゲン解釈は「観測によって波動関数が収縮する」と述べるが、その物理的過程を明示できないため長く論争が続いてきた。これに対しQBismは、波動関数を「観測者の主観的信念」とみなす。すなわち、収縮とは世界が突然変化することではなく、観測者が新たな経験を得たときに自らの確率的期待を更新する行為にすぎない。測定問題は、外的実在の謎ではなく、観測者の経験更新のプロセスへと再定義されるのである。この視点に現象学を重ねると、観測とは「意識に現れる現象の変化」として理解される。観測者の身体性、知覚の地平、経験の連続性が測定の基盤となる。つまり本書の議論は、測定問題を「主体と世界との現象学的関係」として捉え直す道を開き、従来の物理主義的枠組みの中では解けなかった問題に新たな光を当てているのだ。コペンハーゲン解釈は観測を「客観的世界」と「観測者の行為」を峻別した上で、その境界において波動関数の収縮が起こると考える。観測者の主観的経験そのものは哲学的に深掘りされない。本書でのQBism+現象学的アプローチは、むしろ観測者の経験を中心に据え、「観測器も身体の延長に過ぎない」とする。したがって、測定は外的世界の変化ではなく、主体の経験の構造における変化として理解され、物理理論の役割は世界を写すことではなく「観測者が世界と関わる仕方を整理すること」と再定義される。多世界解釈との違いで言えば、多世界解釈(エヴェレット解釈)はまず、測定問題を回避するために「波動関数の収縮は起きない」と仮定し、観測ごとに全ての可能性が実際に分岐した世界として存在すると主張する。この解釈では「客観的に存在する巨大な多世界宇宙」が前提となり、観測者はその分岐の中の1つに位置づけられる。しかし本書でのQBism的理解は、波動関数を「外的宇宙の記述」とは捉えず、むしろ観測者の信念や経験の更新として扱う。したがって、多世界解釈のように巨大な宇宙像を導入する必要はなく、現象学的には「世界は経験において現れる」というシンプルな枠組みを保持できる。まとめると、『Phenomenology and QBism』が示すのは、量子測定問題を「外的世界の物理的謎」としてではなく「観測者の経験の現れ方」として再定位する可能性である。コペンハーゲン解釈のように観測と実在の境界を仮定するのでもなく、多世界解釈のように膨大な分岐宇宙を受け入れるのでもなく、観測者と世界との相互作用を現象学的に捉え直すことで、測定問題を「経験の意味変容」として理解できる。これは、量子力学を「自然の客観的写像」ではなく「人間と世界の関わりを秩序づける道具」と見なすQBismの立場を、現象学的基盤によってさらに強固にするアプローチであり、量子論の哲学的基礎を根本から再編するインパクトを持つと言えるだろう。フローニンゲン:2025/9/15(月)07:26
17395. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見知らぬリゾートアイランドで宝探しをしていた。しかし、島を歩き回るのではなく、ホテルの会議室のような場所で座学を通じて問題に答えることで宝を探そうとしていた。問題を解いていると、カステラがホテルから振る舞われ、それを食べながらゆったりとした気分で問題を解いていた。室内で問題を解くのはそろそろやめにしようと思って、実際に島を散策してみることにした。島の景色は美しく、それだけで満足だったのだが、途中で島の暗く深い歴史を知った。どうやらこの島では、女性の性器を切り落とすことが行われていたらしかった。しかしそれは女性の意思によって行われたものらしく、なぜ彼女たちは性器を切り落とさなければならなかったのかについては不明だった。当時それを体験した女性が私に体験談を話してくれたのだが、その理由については尋ねることができなかった。推測するに伝染病の拡散防止のためであったり、はたまた何か呪術的・神話的な物語と結びついた理由だったりしたのだろうと推測した。暗い歴史に関する話を聞いた後に視界に開けてきたのは、太陽の光を浴びた明るい村だった。そこは棚田のような作りになっていて、ところどころに土産屋があったので行ってみることにした。最初に入った土産屋では、2人の東南アジア系の女性が働いていて、彼女たちの身なりや雰囲気から察するに、生活は厳しいようだった。その村全体がそのような雰囲気を発していた。その土産屋に置かれていたのは、日本で言うところの昭和の初期に流行ったような古いものばかりだった。それはそれとして、歴史的な資料として眺める分には楽しかったが、特に購入する意欲を掻き立てるものは何1つなかったので店を出ることにした。棚田のもう一段上には、より立派な土産があったので、そこに入った瞬間に夢の場面が変わった。
次に覚えているのは、実際に通っていた中学校を舞台にした場面である。私は数人の友人と隣の教室から机と椅子を運んで、自分たちの本来の教室に向かった。教室ではすでに数学の先生がいて、授業を開始しようとしているところだった。ところが教室の全ての机は後ろに片付けられており、教室ではゲームが行われようとしていた。そうした和やかな雰囲気であることに安堵し、机と椅子を置いて、自分もゲームに加わることにした。ゲームの最初だけ参加したら、先生が自由に過ごしていいと述べたので、私は日向に行って、そこで昼寝をすることにした。ぽかぽかとした太陽の光はとても心地良く、うとうと眠るには最適な環境であった。フローニンゲン:2025/9/15(月)07:39
17396. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の舞台は見知らぬリゾートアイランドから始まるが、その探索は肉体的な冒険ではなく、会議室に座り問題を解く知的な作業として展開されている点が象徴的である。宝探しという本来の行為は外界の探索と結びつくはずだが、ここでは精神世界の問いかけや学問的試みに置き換えられている。これは、自己が人生における真の宝を、外的な行為ではなく、思考と理解を通して掘り当てようとしている姿勢を表していると読み解けるだろう。振る舞われるカステラの甘美さは、その過程が苦役ではなく、むしろ滋養と安らぎを与えるものであることを示している。知の探求が必ずしも緊張を伴うものでなく、むしろ人生を柔らかく支える糧となることを象徴しているのである。やがて室内を離れ、島そのものに足を運ぶと、まず目に映るのは美しい風景である。ここには「知の座学」から「生の体験」への転換があり、ただ景色を味わうだけで心が満たされるという原初的な感覚が表れている。しかしその直後に露わになるのは島の暗い歴史である。女性器切除という強烈なイメージは、文化や歴史に潜む犠牲と抑圧の象徴である。しかもその行為が「女性自身の意思によるもの」と語られる点において、単なる外的強制ではなく、共同体の内面化された規範や呪術的な信念による自己抑圧の暗示がある。自分はその理由を尋ねられず、推測に留まる。これは人間存在に潜む「なぜ苦痛が選ばれるのか」という根源的な問いへの直面であり、完全な答えを持てないまま歴史的重荷と対峙する構図である。しかし暗黒の歴史を抜けた先に現れるのは光に満ちた村であり、そこには貧しさと古びた記憶が共存している。土産屋に置かれた昭和初期の品々は、懐古的な記憶や過去の文化的残滓を示すものであるが、自己にとってそれは単なる観照の対象にすぎず、未来を切り拓く力にはならない。すなわち過去は学ぶべきものであるが、それに執着しても真の宝には至れないことが示されている。より高みに登ることで「立派な土産」が現れる直前に場面が転換するのは、発展的な探求が新しい次元への移行を促すことを意味する。舞台は一転して中学校の教室となり、机と椅子を運ぶ行為が描かれる。これは「学びの場」を自ら整えるという象徴であり、能動的に知的空間を創造する態度を示している。しかし整えられた教室では数学の授業が始まるかと思いきや、机が片付けられ、学びは「ゲーム」という遊戯へと転じる。ここには学問的緊張から解放された柔らかな共同性が現れており、学びと遊びが同一地平で響き合う世界観が示されている。ゲームに加わった後、教師が自由を認める場面は、知の権威からの解放と、自律的な生の時間への移行を意味する。そして日向で眠る場面は、長い探求の果てに得られる安息と、自然と一体となる充足感の象徴である。太陽光に包まれる眠りは、知的・歴史的な重みを抱えた自己が最終的に到達する調和の状態を表している。この夢全体は、「知の探求」「歴史的闇との対峙」「過去との距離」「共同性と遊戯」「自然に抱かれる安息」という流れを通じて、人生における成熟の軌跡を描いていると解釈できる。宝探しは最初、知識や問題解決を通じて進められたが、やがて過去の暗闇や文化の影を直視し、それを超えて共同性と自然との調和へと向かう。すなわち真の宝とは、単なる知識でも過去の遺産でもなく、歴史を抱えつつもそれに囚われず、光と遊びの中で自由に存在できる境地であると示唆されている。人生における意味として、この夢は「知識の追求と歴史の影を経由して、最終的には遊びと自然の中に安息を見いだすことこそが人間の宝である」と教えているのだろう。フローニンゲン:2025/9/15(月)08:01
17397. 平穏で澄み渡る非二元の世界
強風の声。生命たちの囁きが聞こえて来る。夕方の青空と夕陽が見事に輝いている。先ほどまで強風を伴う強い雨が降っていたとは思えないほどである。人生の中でどれだけ逆風が吹こうとも、強雨に見舞われようとも、いつか必ず晴れがやって来る。そうした人生訓を教えてくれるかのような世界が目の前に広がっている。
心の落ち着き。心は今、平穏な海の凪を体現している。呼吸を落ち着け、思考を手放すと、私たちはこうした領域に参入できる。そこは私たちの可能性を解き放つ場であり、創造性を真に発揮する場である。この領域に常に参入すること。そのための学習と実践を惜しまず、この領域を通じて自らのライフワークに打ち込むことを通じてこの世界に関与と貢献を少しでも実現したい。そうした思いが静かに湧き上がってくる。
今日は結局ジムに行くことをせずに、心身をゆっくりと休めることにした。ただ家にいるだけだと逆に心身の回復は促進されないため、いつもより長い散歩を楽しんだ。外はもう秋の深まりを見せ始めた気配を呈していた。風はとても新鮮で心地良く、こうして風が運んで来てくれる英気を存分に見に浴びることは小さな幸せである。1つの呼吸を実現させる無数の縁。その縁にただただ深く感謝の意を捧げている。それを捧げる対象は世界そのものである。世界全体に対する深い感謝の念を持てば持つだけ、自分はまた新たな気持ちで自身の生命を輝かせる試みに従事することができる。平穏で澄み渡る非二元の世界に絶えず心身を置くこと。とかく雑念により私たちは二元の世界に引きずり出されるが、日々の弛まぬ鍛錬の継続によって、私たちは必ずや全てを生み出す透き通った非二元の世界と1つになれる。そこに常に寛げるよう、また明日から自分の心身を磨きたい。フローニンゲン:2025/9/15(月)16:41
Today’s Letter
Take slow, deep breaths again and again. Once we let go of our thoughts, we can enter a tranquil and transparent realm. This is the place where our minds can unwind, allowing us to show our true potential and creativity. Groningen, 09/15/2025
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