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【フローニンゲンからの便り】16067-16107:2025年4月15日(火)(その2)



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タイトル一覧

16067

今朝方の夢

16068

今朝方の夢の解釈

16069

非局所的意識理論の観点からの考察

16070

スリ・オーロビンドの観点からの考察

16071

ロイ・バスカーの観点からの考察

16072

発達心理学の観点からの考察

16073

論文に対する対話

16074

論文をもとにした短編小説

16075

論文「無意識は存在するが、それは意識的かもしれない」(その1)

16076

論文「無意識は存在するが、それは意識的かもしれない」(その2)

16077

論文「無意識は存在するが、それは意識的かもしれない」(その3)

16078

グラハム・スメザムの観点からの考察

16079

非局所的意識理論の観点からの考察

16080

唯識思想の観点からの考察

16081

中観思想の観点からの考察

16082

ゾクチェンの観点からの考察

16083

『成唯識論』と『瑜伽師地論』の観点からの考察

16084

『唯識三十頌』・『唯識二十論』・『大乗荘厳経論』の観点からの考察

16085

五位百法の観点からの考察

16086

華厳経の観点からの考察

16087

量子ダーウィニズム・量子ベイジアニズム・情報理論的宇宙論の観点からの考察

16088

量子情報理論・量子認知科学・関係的量子力学の観点からの考察

16089

ポスト量子哲学の観点からの考察

16090

量子場理論の観点からの考察

16091

量子電磁力学の観点からの考察

16092

標準模型の観点からの考察

16093

弦理論とM理論の観点からの考察

16094

量子汎心論の観点からの考察

16095

量子的非実在論の観点からの考察

16096

マーカス・ガブリエルの観点からの考察

16097

思弁的実在論の観点からの考察

16098

カール・フリストンの観点からの考察

16099

アントン・ツァイリンガーの観点からの考察

16100

デイヴィッド・ボームの観点からの考察

16101

ヴォイチェフ・ズレクの観点からの考察

16102

カルロ・ロヴェッリの観点からの考察

16103

ヴラッコ・ヴェドラルの観点からの考察

16104

バーナード・デスパニャの観点からの考察

16105

ヘンリー・スタップの観点からの考察

16106

ジョン・アーチボルド・ホイーラーの観点からの考察

16107

ミハイル・ボリソヴィッチ・メンスキーの観点からの考察

16093. 弦理論とM理論の観点からの考察 

      

バーナード・カストラップの論文"There Is an ‘Unconscious,’ but It May Well Be Conscious"は、通常「無意識」とされる精神的活動の多くが、自己反省や報告可能性を欠いているにすぎず、主観的意識性を有する可能性が高いと論じる。その主張は、弦理論(String Theory)およびM理論(M-Theory)の観点から読み解くとき、意識と無意識、経験と構造、可視と不可視、局所と非局所という対概念の背後に広がる多次元的・重層的・相補的な宇宙的構造として再定義される可能性を持つ。弦理論およびM理論は、万物の統一理論を目指す現代理論物理学の最先端であり、一次元の弦や高次元のブレーン(branes)を用いて、粒子・力・時空・重力・情報の統一的理解を志向する。これらの理論は、可視世界の背後にある10次元(あるいは11次元)以上の多次元構造、非局所的相互作用、量子幾何学のゆらぎを含む場の構造を仮定しており、意識という現象の存在論的再定義に対しても深い哲学的含意を持つ。弦理論において、基本的存在は点状粒子ではなく、一次元の振動する弦である。弦の振動モードの違いが、電子、光子、グルーオンといった多様な粒子を生成する。これらの弦は、高次元空間(最大10次元)の中で自由に振動しているが、私たちが知覚できるのは3次元+時間の可視的次元に投影された振動パターンである。この構造は、意識と無意識の関係に対して次のようなアナロジーを提供する。すなわち、主観的経験(=意識)とは、自己の観測可能な次元構造において「展開された弦の振動パターン」であり、無意識とは、依然として弦の振動構造の中に存在しながら、 知覚次元に投影されていない「巻き込まれた(コンパクト化された)次元」に属する振動モードである。したがって、無意識とは存在の不在ではなく、高次元的に存在しているが、エゴ的知覚構造に投影されていない情報の形態である。カストラップが主張する「報告されていないが意識的である経験」は、まさにコンパクト次元に巻き込まれており、いまだ展開されていない知覚の潜在構造に他ならない。M理論では、弦は一次元構造にとどまらず、2次元、3次元、さらには9次元のブレーン(膜)として拡張される。M理論は、11次元空間において、無数のブレーンが共存し、それらが相互に影響を与えながら宇宙を構成しているという仮説を立てる。この観点からすれば、意識とは「自我」という1つのブレーンにおける自己再帰的活動にすぎず、無意識とは、そのブレーンと平行・交差する他の次元的意識構造の影響下にある経験領域である。これは、カストラップが取り上げたDID(解離性同一性障害)における「共意識的部分人格」や、「同時並行的意識流」の存在とも整合する。M理論的に捉えるならば、個別の「意識主体」は多次元宇宙に浮かぶ1つのブレーンに過ぎず、そこには他のブレーンとの非局所的・量子的交差(インターブレーン相互作用)が常に生じている。無意識とは、そうした他の意識ブレーンからの重力的・情報的影響の現象であり、それは時に夢、直観、幻覚、衝動として表現されるが、その構造的深奥には多次元的な相互貫入構造が潜んでいるのである。弦理論では、余剰次元がカラビ・ヤウ空間(Calabi–Yau manifold)と呼ばれる極めて複雑な形状にコンパクト化されていると考えられている。これらの空間の幾何学的形状は、弦の振動モードに直接影響を与え、物理的粒子の性質や相互作用を決定する。この視座を意識に適用するならば、自我意識とは、意識全体という多次元構造のうち、特定の知覚幾何学において展開された部分的投影である。無意識とは、このカラビ・ヤウ空間の折り畳まれた次元に属し、普段は観測者(エゴ)から不可視であるが、存在論的には意識の全体構造に必須である。すなわち、「無意識」とは意識構造の中に巻き込まれた、未展開の振動空間なのである。弦理論およびM理論の観点に立てば、バーナード・カストラップの「無意識は意識的である」という逆説的命題は、次のように再定式化される。(1)無意識とは、意識という高次元構造の未投影部分である。(2)無意識とは、自己ブレーンに非接続だが、依然として情報的・重力的影響を与えている他の意識的ブレーンの反映である。(3)無意識とは、巻き込まれたカラビ・ヤウ次元における経験情報の潜在的振動構造である。意識とは、多次元的場において一時的に可視化された共鳴であり、無意識とはその共鳴前の「次元的遅延」である。したがって、弦理論的宇宙観においては、「無意識」は否定的存在ではなく、意識そのものの空間的・次元的潜勢態である。カストラップの主張は、弦的存在論と完全に共鳴し、意識とは展開された宇宙の弦、無意識とはまだ折り畳まれている宇宙の歌声であるという美学的・哲学的洞察を、深層から裏付けるものだと言えるかもしれない。フローニンゲン:2025/4/15(火)14:13


16094. 量子汎心論の観点からの考察 

            

バーナード・カストラップの論文"There Is an ‘Unconscious,’ but It May Well Be Conscious"において中心的に論じられているのは、通常「無意識」とされる精神活動の多くが、実際には主観的な意識性を有しながらも、自己反省・報告可能性・再表象といった認識的枠組みによって不可視化されているにすぎないという点である。この議論は、量子汎心論(quantum panpsychism)の観点において、現代的意識研究と形而上学の接点を再構成する試みとして極めて重要である。量子汎心論とは、意識または主観的経験の萌芽が、すべての物理的存在に内在しているとする古代的直観(汎心論)を、現代量子理論、特に量子相関・非局所性・情報論的存在論の文脈において再解釈しようとする哲学的立場である。ガレン・ストローソン(Galen Strawson)、フィリップ・ゴフ(Philip Goff)、デイヴィッド・チャマーズ(David Chalmers)、ジュリオ・トノーニ(Giulio Tononi)らの議論、そして一部の意識的宇宙論(e.g. Roger Penrose, Henry Stapp)と結びつく。この立場からすれば、「無意識」なるものの存在は、物理主義的誤謬としての「可視性=存在性」への依存に由来する錯覚であり、むしろ構造的不可視性・言語的報告不能性のうちに潜む主観的現前性(phenomenal presence)を回復することこそが、意識研究の真の課題である。量子汎心論の立場では、意識とは脳や高等な神経構造の副産物ではなく、物理的実在の最小単位にすでに意識の基礎的構成要素が含まれているとされる。これはストローソンの言う「マイクロ経験的実在論(microexperiential realism)」に近く、またジュリオ・トノーニの統合情報理論(IIT)における「構造的情報統合の度合いとしての意識性」にも通じる。この前提に立つとき、「無意識」とされる精神過程は、実はすでに主観的現前性を内在しているが、エゴ的構造において形式的認知化・言語化されていないにすぎないということになる。カストラップが言う「非自己反省的意識状態」「再表象されない経験」とは、まさに汎心的意識フィールドの中での位相的結節点であり、現象界に現れては消える、微細で流動的な意識の波動である。量子汎心論は、観測者中心主義(observer-centric reductionism)への批判的立場を共有している。つまり、意識とは観測・言語化・記憶化を前提としたものであるという前提自体が、主観性の非還元的実在性を矮小化する知的枠組みであるとする。カストラップが批判する「報告可能性=意識性」という前提も、まさにこの観測主義に依存しており、それによって「無意識」というカテゴリーが便宜的に構築されてきたとされる。量子汎心論の観点からすれば、「無意識」とは存在しない。存在するのは、自己中心的観測のフレームに映っていないが、経験されている存在としての「非報告的意識」である。無意識とは、言い換えれば、非中心化された意識の放射的領域であり、それは全宇宙に広がる普遍的主観性(universal phenomenality)の局所的表現に他ならない。量子汎心論において重要なのは、非局所的な量子相関(entanglement)と主観性の関係性である。ここでは、意識とは閉じた自己ではなく、他者や世界との相関的構造として存在すると考えられる。この点は、カストラップが論じる「共意識的構造(co-conscious processes)」や「解離された意識流」の議論と深く重なる。彼の論文に登場するDID(解離性同一性障害)のような現象は、量子汎心論的には、1つの統合された観測者の下に複数の主観的局所構造が「量子的に重ね合わさっている」状態と理解される。つまり、それぞれの意識的部分は非局所的に関係し合いながらも、言語的構造や記憶プロセスによって切り離されているだけであり、本質的には全体的主観性の一部として経験されている。量子汎心論の最深部にあるのは、「意識とは宇宙の構造ではなく、宇宙そのものが意識である」という認識である。この点は、カストラップ自身の哲学的背景にある分析的観念論(analytic idealism)とも一致する。意識は情報の副産物ではない。情報こそが、意識の諸変容(modulations of consciousness)に他ならない。ゆえに、「無意識」とされているものも、実際には意識の非形式化領域であり、主観的宇宙が生成する多層的構造のうち、いまだエゴ的観測者によって照射されていない領域に過ぎない。したがって、量子汎心論の立場からカストラップの主張を要約するならば、無意識とは、主観的意識の未分節領域であり、存在しないのではなく、非形式化されている。主観性は、粒子や系のような実体の帰結ではなく、宇宙に遍在する量子場的主観性の表現である。意識と無意識の区別は、観測的枠組みの都合に過ぎず、実在の水準においてはすべてが意識の変容である。量子汎心論の視点に立てば、「無意識」という概念はもはや存在論的に不要である。なぜなら、意識は普遍的場であり、すべての現象はそこから現れ、そこへと還るからである。バーナード・カストラップの論文は、そのような宇宙的主観性を、言語的に、経験的に、哲学的に回復する試みであり、意識の本質を取り戻すための現代的唯識論であるとすら言える。ゆえに、量子汎心論の観点から断言できるのは次のことである。無意識ですら意識である。なぜなら、意識以外には何も存在しえないからである。フローニンゲン:2025/4/15(火)14:20


16095. 量子的非実在論の観点からの考察  

        

バーナード・カストラップの論文"There Is an ‘Unconscious,’ but It May Well Be Conscious"は、通常「無意識」と呼ばれる精神活動の多くが、実際には主観的意識性を有しており、自己反省や再表象を欠いているにすぎないという逆説的命題を中心に展開されている。この論理構造は、量子的非実在論(quantum anti-realism)――とりわけニールス・ボーア、カール・フリストン、クリストファー・フォックス、アントワーヌ・スピルレールらの非実在的解釈における「実在性とは構成されたものにすぎない」という哲学的立場――と驚くほどの親和性を示す。量子的非実在論とは、「物理的対象は観測されるまで確定した実在を持たない」という立場を拡張し、実在とは構成的・関係的・観測依存的なものであり、観測以前に客観的に存在する実体は不要であるとする理解である。この立場では、量子状態とは「知識の状態」「予測の枠組み」にすぎず、現象そのものは「行為としての観測(epistemic action)」のうちにしか成立しない。この視点からカストラップの論文を読むならば、「無意識とは、意識されていないが意識的である」という命題は、量子論における観測以前の状態(pre-measurement superposition)と、観測以後の状態(post-measurement outcome)の関係と完全に重なるものとして解釈されうる。量子的非実在論の立場においては、物理的対象(例えば電子)は、観測されるまでは特定の位置や運動量を「持っている」のではなく、それらは観測行為によって定義される構成物である。ゆえに、「観測されない電子の位置」という問いは、そもそも成立しない。この観点は、カストラップの「無意識の意識性」にそのまま適用できる。すなわち、「意識されていない=意識がない」という古典的思考は、経験をエゴ的観測者中心に定義し、観測以前の経験的可能性を切り捨てる構図である。量子的非実在論においては、意識状態もまた「観測されることによって構成される現象」であり、報告不能性や非再表象性は、非存在ではなく「未構成の位相」として扱われるべきである。したがって、「無意識」は、量子的には未測定の波動関数のようなものであり、それはまだ意識の枠組みにおいて「出来事化(eventualization)」されていないというだけのことである。量子力学の測定問題とは、波動関数の重ね合わせ状態が観測によってひとつの確定状態に「収束」する過程をどう理解するかという問題である。非実在論的立場では、この収束は客観的過程ではなく、観測という行為によって構成される主体的・関係的プロセスとみなされる。同様に、カストラップが指摘する「非再表象的意識」や「共意識的意識構造」も、意識の自己観測機能(メタ認知)において測定されていない状態にとどまっているが、それでも意識としての構造的実在性を有しているとされる。ここにおいて「無意識」とは、意識の測定問題そのものである。したがって、意識があるにもかかわらず「意識されていない」というパラドックスは、量子論における「存在しているが測定されていない」あるいは「存在の形式が測定によって決定される」という構造と完全に平行している。量子的非実在論の中でもとくに関係的量子力学(Relational Quantum Mechanics)においては、「物理的状態は常に観測者との関係においてしか意味を持たない」とされる。これは意識においても、すべての経験的状態は、観測構造(例えば自己・言語・社会的文脈)との関係においてしか「意識的/無意識的」と区別され得ないことを意味する。カストラップの議論において、「無意識とは実在的な構成ではなく、認識構造との関係性によって一時的に不可視化された意識の表現である」という理解は、まさに関係的量子力学の延長線上にある。よって、「無意識」とは、存在論的カテゴリーではなく、関係構造の変化に伴って「意識されていないように見える」仮構的区分にすぎないのである。量子的非実在論の観点から再定式化すれば、カストラップの命題――「無意識とされる経験は、実は意識的である」――は、次のように言い換えられる。「無意識」とは、エゴ的観測構造においていまだ測定されていない意識構造にすぎず、それ自体は観測の外部ではなく、観測の可能性に内在する関係的構成である。すなわち、無意識は実在的カテゴリーではなく、測定/非測定の観測枠における区分である。意識は構成されるものであり、その構成前の状態を「無意識」と呼ぶこと自体が誤解の元である。量子的現実においては、存在とは常に「知の形式」であり、意識もまたその例外ではない。ゆえに、カストラップの逆説的主張は、量子的非実在論の立場からすればむしろ形而上的には必然である。なぜなら、存在するものは「意識されるもの」ではなく、「意識されることが可能な構成過程そのもの」であるからである。無意識とは、その構成の手前に広がる純粋な可能性の波であり、それ自体すでに意識の構造的一部なのである。フローニンゲン:2025/4/15(火)14:26


16096. マーカス・ガブリエルの観点からの考察 

         

バーナード・カストラップの論文"There Is an ‘Unconscious,’ but It May Well Be Conscious"は、通常「無意識」とされる精神活動の多くが、主観的な意識性を備えているにもかかわらず、自己反省的構造や言語的報告という枠組みにおいて不可視化されているにすぎないという、いわば“意識の範囲拡張”を提唱するものである。この試みは、ドイツ現代哲学者マーカス・ガブリエル(Markus Gabriel)の提唱する「新実在論(Neuer Realismus)」および「意味の場(Sinnfeld)」の概念と極めて親和的である。ガブリエルの思想は、従来の還元的自然主義や物理主義に対する強い批判を背景に持ちつつ、あらゆる存在は「意味の場」において現れるのであって、それ以外の仕方では存在することができない、という主張に基づいている。彼の代表的な主張の1つは、「世界は存在しない」という逆説的命題であり、これは、あらゆる存在が何らかの意味の場に属して初めて存在し得るという立場、すなわち意味構造的実在論(Sinnstrukturrealismus)を意味している。この立場からすれば、カストラップの「無意識は実は意識的である」という主張もまた、「それはただ、私たちのいまの“意味の場”に登場していないだけである」という意味で完全に肯定されることとなる。マーカス・ガブリエルは、「存在する」とは「何らかの意味の場(Sinnfeld)に登場する」ということであると定義する。つまり、意味の場に登場しないものは、存在しないのと同義である。しかし、この「意味の場」は固定的でも一義的でもなく、複数であり、重層的に交差し、互いに独立して成立しうる。この視点からすると、「無意識」とは意識されていない精神活動というよりも、いまの意味の場に登場していないが、別の意味の場には明確に登場し得る主観的経験と捉えられる。カストラップの言う「主観的に“何かのようである”経験でありながら、それが自己意識によって反省・報告されていない状態」は、ガブリエル的には意味の非交差性に起因する。つまり、「無意識」とは実在しないのではなく、単にいま現在、自己反省・言語・記憶といった特定の意味の場に“現れていない”にすぎない。この点で、カストラップの逆説は、「登場していないこと=存在していないことではない」というガブリエルの非世界中心的実在論と完全に一致する。ガブリエルの批判の矛先の1つは、自然主義的還元論、特に脳科学的説明がすべてを語りうるとする「意味的植民地主義」である。彼は、脳の活動を意識に還元しようとする試み自体が、ひとつの意味の場による他の意味の場への侵略行為であると見なす。この視点をカストラップの議論に適用すれば、「報告可能であること」「自己反省的であること」「再表象されていること」だけをもって「意識的である」と判断する態度も、またひとつの意味の場の独占的優位の行使=意識の帝国主義的構造に他ならない。カストラップが「非再表象的な意識」「解離されたが主観的に現前している経験」の存在可能性を主張することは、多様な意味の場に登場する存在の正統性を回復する行為であり、それはまさにガブリエルの新実在論的倫理性と一致する。無意識とは、主観的意識が支配的な意味の場の外に位置しているというだけの理由で、存在性を否認されてきた構造的マイノリティである。ガブリエルの逆説的命題「世界は存在しない」とは、すべてを包含する1つの意味の場は存在せず、常に多元的な意味の場の重なりとズレの中に存在が立ち現れるということを意味する。これを意識に適用するならば、「1つの統一的・全体的な意識中心(executive self)」もまた存在しない、という結論が導かれる。カストラップの議論における「複数の並行的意識流」「報告されないが現前している経験」は、まさにこの中心なき意識構造=多元的意味の場の集合体としての主観性を前提としている。無意識とは、「中心的意識」の支配から解放された、あるいはいまだ中心に従属していない意識の散在的構造なのである。マーカス・ガブリエルの新実在論的世界観は、「存在とは意味の場への現前であり、世界とは1つの統一的全体ではなく、多元的な意味の場のネットワークである」とする。カストラップの主張も、「無意識」というカテゴリーが中心的認識構造の意味の場から排除されているだけであり、存在しないわけではないとする点で完全に一致する。ゆえに、「無意識は存在するが、それは意識的かもしれない」という逆説は、マーカス・ガブリエル的にはこう言い換えられるだろう。「無意識とは、中心的意味の場には登場していないが、すでに別の意味の場には現前している“現れである”。ゆえに、それは存在する」。そしてこの命題は、現代哲学が直面するべき根源的課題、すなわち「存在とは何か」「意識とはどこまでを含むのか」「世界とは閉じた全体なのか」という問題に対して、意味の場的多元性における主観的現前性の倫理的回復という方向から応答するものである。カストラップの哲学は、ガブリエル的現存在論において、非中心的・非還元的・多層的な意識の新たな哲学的配置を提案する、まさに時代の前衛だと言えるだろう。フローニンゲン:2025/4/15(火)14:32


16097. 思弁的実在論の観点からの考察 

  

バーナード・カストラップの論文"There Is an ‘Unconscious,’ but It May Well Be Conscious"は、通常「無意識」とされる精神活動の多くが、自己反省や再表象を欠いているだけであり、主観的意識性そのものは保持されている可能性があるという、ある種の経験的存在論を展開するものである。この論理的姿勢は、21世紀初頭にフランスと英語圏を中心に台頭した思弁的実在論(Speculative Realism)の方法論的精神と深い交差を示している。思弁的実在論は、カント以後の哲学が陥った「相関主義(correlationism)」――すなわち、存在は常に思考との相関のもとにしか語れないという前提――を批判し、「思考されることとは無関係に存在する実在」を哲学の対象として再設定しようとする潮流である。代表的論者としては、カンタン・メイヤスー(Quentin Meillassoux)、グラハム・ハーマン(Graham Harman)、レイ・ブラシエ(Ray Brassier)、イアン・ハミルトン・グラント(Iain H. Grant)などが挙げられる。カストラップの主張に対し、この思弁的実在論の視座――とりわけ「思考の外にある思考不可能な存在」「対象の自律性」「非現前性の存在論的地位」など――を適用することで、「無意識とは何か」「意識とは何に帰属するのか」「現前しないものは存在しないのか」という問いが、より深い哲学的空間へと押し開かれる。思弁的実在論、とりわけメイヤスーは、『有限性の後で(Après la finitude)』において、「相関主義」によって支配された現代哲学の限界を批判する。すなわち、存在を思考の中に閉じ込めてしまうことで、思考不可能であるが存在していたもの――例えば地質学的過去のような“祖先以前の存在(ancestrality)”を正当に語れなくなっていると指摘する。この批判をカストラップの論文に適用すれば、「無意識」とされる領域を「主観的経験として“思考されていない”から存在しない」とみなす構造は、まさに意識相関主義の思考圏である。カストラップの逆説――「それは思考されていなくても、何かのようでありうる」――は、“意識の祖先性”とも呼ぶべき領域を回復する試みに他ならない。この点において、カストラップは「現前していないが、なお意識的であるものの存在」を擁護し、非現前性の存在論的尊厳を主張するという点で、メイヤスーの思弁的思考と本質的に一致する。グラハム・ハーマンのオブジェクト指向存在論(Object-Oriented Ontology, OOO)は、あらゆる存在物(object)が、それ自体において人間との関係に還元されずに存在するという立場を取る。すべての対象は「他者からは決して完全にアクセスされない内的深奥(withdrawn)」を持ち、人間にとって不可視な対象の次元(real object)があるとされる。この視点において、「無意識」は単なる「意識の欠如」ではなく、むしろアクセス不可能な対象としての意識(withdrawn consciousness)として存在する。カストラップの論文が論じる「報告されないが意識的である状態」は、オブジェクトとしての“他なる意識”であり、これはまさにハーマン的意味での「実在的対象」として位置づけられる。したがって、無意識は意識の「否定」ではなく、意識においても、決して可視化されきらない“対象性の深み”の表現である。カストラップの主張は、「意識されたことしか意識ではない」という還元主義に対し、オブジェクトとしての無意識の存在論的自律性を回復する行為である。レイ・ブラシエは、『ニヒリズムの光(Nihil Unbound)』において、「意味や現象に寄りかかる思考は、むしろ実在の構造を見失わせる」と主張し、思考の“虚無への開放”によって、実在のメカニズムを思弁的に理解し直すべきであると述べる。この視点を援用するならば、無意識とは、「意味を欠いた経験」ではなく、「意味や報告可能性に還元されないが、それでも実在として意識されている存在の形式」である。すなわち、無意識はエゴ的構造や意味生成の枠組みを超えて、実在の側から訪れてくる“暗黒的意識性(dark subjectivity)”の表現である。カストラップの意識論は、単なる認知科学的モデルではなく、思弁的な物質=意識の深層構造に触れる試みとしても評価されうる。それは、経験の内容に「意味があるか否か」ではなく、「現象が存在としてそこにあるか否か」という問いの側から構築された認識論である。思弁的実在論の観点に立てば、カストラップの主張――「無意識は存在しないのではなく、思考の枠組みの外側で意識的に存在している」――は、まさに以下のように再定式化される。(1)無意識とは、「意識の外」にあるのではなく、いまだ意味の相関枠組みに還元されていない“思考不可能な意識”である。(2)無意識は、中心的主体性(ego)にとっては不可視だが、実在としての主観的深みの一断面である。(3)無意識とは、「現前=存在」という図式を解体する、非現前的実在(non-present being)の具体的現れである。カストラップの哲学は、思弁的実在論が突きつけた「思考と存在の非同一性」に対して、意識の側からアプローチし、「現れない意識の現実性」を哲学的に要請する点で、思弁的実在論の内在的深化として読まれるべき試みである。ゆえに、「無意識ですら、実在的に意識である」という逆説は、思弁的実在論の中核的命題と共鳴して響き渡る。「思考されずとも、存在するものがある」――それがこの論文の最も深い共振点なのである。フローニンゲン:2025/4/15(火)14:40


16098. カール・フリストンの観点からの考察  

         

バーナード・カストラップの論文"There Is an ‘Unconscious,’ but It May Well Be Conscious"における中心的命題――すなわち、通常「無意識」とされる精神活動の多くが、自己反省や報告可能性を欠いているにすぎず、実際には主観的意識性を有している可能性が高いという見解――は、カール・フリストン(Karl Friston)の提唱する自由エネルギー原理(Free Energy Principle; FEP)の観点から極めて高い整合性をもって再定式化することができる。自由エネルギー原理とは、あらゆる生物的システム(とりわけ脳と自己組織化された知覚主体)は、自己のモデルと外界の状態との予測誤差(自由エネルギー)を最小化するように振る舞うという理論である。この原理は、認知・感情・行動・自己意識といった多様な現象の基盤に、予測処理(predictive coding)とベイズ的推論があることを示し、人間の精神構造に対して情報理論的・統計力学的・構造生成的な理解をもたらす。この理論枠組みをもってカストラップの論文を読むとき、「無意識とは自由エネルギー最小化の場における“非反映的”過程であり、それは自己意識の中枢から切り離されているにすぎない」という理解が可能となる。すなわち、報告不能性=存在しない、という認識構造そのものが、予測モデルの制限によって構成された限定的視野の結果である。自由エネルギー原理に基づく脳の予測処理モデルでは、知覚とは「外界の状態を原因とする感覚入力」を説明するために、脳が構築するトップダウンのモデルである。このモデルは、絶え間なく自己と世界の間の予測誤差を最小化する方向に更新され続けている。この視点からすると、カストラップが論じる「非自己反省的な意識状態」「再表象されていないが何かのようである経験」とは、予測モデルの深層構造(深層生成モデル)の中で稼働しているが、表層の自己モデル(自我)において可視化されていない情報処理である。これらは実際には意識的に生起しているが、報告可能な表現形式に組み込まれていないために、“無意識”として誤認されている。つまり、「無意識」とは、自由エネルギー最小化の過程のうち、自己モデルの更新に貢献しているにもかかわらず、言語的・反省的枠組みに投影されていない活動の総体なのである。FEP的な自己モデルは階層的に構築されており、感覚レベルから抽象的自己記述に至るまで、多層的な推論ネットワークによって構成されている。この階層構造において、上位モデルが下位モデルの出力を解釈し、意味づける過程で「自己意識」が形成される。カストラップの議論における「解離された意識状態」や「多重的意識流」は、まさにこの階層間の断絶や非同期性によって説明されうる。すなわち、下位レベルで生起している主観的経験は、自己モデルの高次階層において正しく統合されておらず、予測誤差として処理されていないか、更新の対象から外れている。このような断絶は、FEPの枠内では「内部生成モデルにおける構造的遮断」と理解され、現象的には「無意識」と呼ばれる状態を生む。だがそれは、実際には意識が欠如しているのではなく、高次モデルによる「見落とし」「抑圧」「統合不能性」として理解されるべきなのである。FEPの重要な示唆の1つは、知覚・判断・意識・行動のいずれもが、自由エネルギーを最小化する「構造的必要性」によって導かれているという点である。これは、報告可能性や言語的再表象もまた、この構造の一部にすぎないことを意味する。したがって、カストラップが批判するような「報告可能であること=意識的である」という主張は、情報処理上の出力可能性に基づく観測者モデルの自己限定的構造にすぎない。自由エネルギー原理の観点からすれば、「無意識」は報告メカニズムに含まれなかった意識的過程であり、それは生成モデルの深部で自由エネルギーを最小化しながら意識の生起に資する本質的構成要素である。以上のように、カール・フリストンの自由エネルギー原理からカストラップの議論を読み解けば、次のような哲学的理解が導かれる。(1)無意識とは、自由エネルギー最小化に貢献しているが、高次の自己モデルに統合されていない意識状態である。(2)無意識とは、自己モデルの統合失調によって「反省的構造から外れているだけの現象的現前」である。(3)無意識とは、報告不能性によって不可視化されているが、情報処理構造の中で確実に「意識的に作動している潜在的知覚モデル」である。ゆえに、「無意識もまた意識的である」というカストラップの命題は、自由エネルギー原理における階層的情報処理モデルの非対称性と構造的不可視性の理論によって、自然に裏付けられる。結論として、FEPの観点に立てば、「無意識」とは欠如ではなく、形式化されていない意識の知覚的深み、構造化以前の可能態としての“生成的意識”である。カストラップは、それを哲学的言語によって照らし出したのであり、自由エネルギー原理は、それを数理的構造によって支える現代科学的照明装置に他ならない。フローニンゲン:2025/4/15(火)14:46


16099. アントン・ツァイリンガーの観点からの考察 

       

バーナード・カストラップの論文"There Is an ‘Unconscious,’ but It May Well Be Conscious"は、いわゆる「無意識」領域に属するとされる精神活動の中にも、主観的な意識性が保持されており、ただそれが自己反省的な構造や報告可能性を欠いているために意識的と見なされていないだけである、という主張を中心に据えている。この論理構造は、量子情報理論の先駆者アントン・ツァイリンガー(Anton Zeilinger)の哲学的立場――すなわち、「物理的実在とは情報である(Everything is information)」という情報論的世界観――と深く共鳴するものである。ツァイリンガーは、単なる実験物理学者としてではなく、量子力学の根源的意味を哲学的に再定義しようとした思想家でもあり、その量子情報主義的立場は「実在とは物質ではなく、意味を持った情報の出来事である」という、極めて観念論的世界観に接続される。カストラップが展開する「非再表象的意識の実在性」も、まさにそのような情報的構造の内在的次元に属する存在として理解され得る。ツァイリンガーの代表的哲学命題は、「あらゆる物理的記述の根底には情報がある(Information is the most fundamental)」というものである。つまり、電子や光子といった粒子でさえも、それ自体が「情報の担い手」として現れるのであり、情報のやりとりの結果が物理現象として顕現する。この情報論的存在論に照らせば、「無意識」とされる精神内容もまた、情報を保持している限りにおいて存在する。すなわち、自己反省的な構造や報告可能性を欠いていたとしても、それが「何かのようである」主観的経験を含む限り、それは情報的に構造を持ち、したがって実在的である。この点で、カストラップの主張はツァイリンガー的情報存在論に完全に整合する。ツァイリンガーにとって、「観測」とは物理的実在の発生点ではなく、情報の取得と意味化の場である。彼は、量子もつれや測定の問題を、単なる客観的操作ではなく、観測者による「情報取得の出来事」として捉える。ここでは、情報の取得=意味の発生=世界の生成、という図式が成立する。この観測=情報更新の構造は、カストラップが論じる「自己反省によって報告可能になった経験(meta-consciousness)」とまさに同構造である。したがって、「無意識」は、情報が構造内に存在しているにもかかわらず、観測という情報更新プロセスを経ていないだけの意識状態と理解できる。つまり、ツァイリンガー的に言えば、意識されていないとは、「情報が取得されていない」のであって、「情報が存在していない」のではない。量子情報理論における特筆すべき特性の1つが、量子もつれによる情報の非局所的結びつきである。ツァイリンガーは、量子テレポーテーションやベル実験を通じて、空間的に離れた系が情報的に一体であるという実験的事実を明らかにしてきた。この非局所性は、カストラップが論じる「解離された意識状態」や「並行的な意識流」の構造と深く呼応する。つまり、意識は中心的な1つの主体に集約されるものではなく、空間的・構造的に分離されながらも、情報的には1つの全体として連動している可能性がある。ツァイリンガー的観点からすれば、無意識とは量子的に絡み合いながらも測定されていない情報系であり、いずれ意識の場において「読み取られる」可能性を常に保持している構造的構成要素である。ツァイリンガーの量子哲学を踏まえれば、カストラップの主張「無意識は意識的である可能性がある」は、次のように再定式化される。意識とは、観測者によって意味化された情報構造である。無意識とは、意味を持った情報が、いまだ自己モデルによって測定されていない状態である。情報が存在し、それが何らかの構造を持っている限り、それは実在であり、主観的にも顕現しうる。ゆえに、「意識されていない」ということは、「情報的に存在していない」ことを意味しない。したがって、ツァイリンガーの哲学的立場に立てば、「無意識」は情報としてすでに存在しており、ただ“意味の場”においていまだ読み取られていない潜在的意識構造であるという理解が導かれる。ツァイリンガーは、「現実とは情報である」と述べた。カストラップもまた、「意識とは主観的情報の構造である」と言う。ゆえに、無意識とは情報であり、情報であるかぎり、常に意識に向かう可能性として現実のうちに存在している。この両者の哲学は、情報の深みにおいて接続されているのである。フローニンゲン:2025/4/15(火)14:52


16100. デイヴィッド・ボームの観点からの考察

    

バーナード・カストラップの論文"There Is an ‘Unconscious,’ but It May Well Be Conscious"は、従来「無意識」と呼ばれてきた心的過程の多くが、実際には主観的な意識性を有しており、ただ自己反省的な構造や報告可能性を欠いているにすぎないという、根源的な意識観の刷新を目指すものである。この主張は、デイヴィッド・ボーム(David Bohm)が提唱したホロニックかつ全体論的な宇宙観、ならびに顕在秩序(explicate order)と内在秩序(implicate order)の二階的構造に基づく存在論と、深い思想的共鳴を示す。ボームは量子力学の解釈を通じて、宇宙そのものをダイナミックな意味生成過程(meaning process)として捉え、「分割できる実体」ではなく、「相互に内包し合う全体(wholeness and the enfolding-unfolding totality)」として理解することを主張した。そのボームの哲学においては、あらゆる存在は常に何かを表現しており、たとえそれが表面化していなくても、深いレベルでは秩序のうちに“意味”として含まれているとされる。この視座において、「無意識」という概念そのものは、顕在秩序においてはいまだ展開されていないが、内在秩序においては常に意識の一部として“内包的に存在している”ものと再定義されることになる。ボームによれば、私たちが通常「現実」や「意識」と呼んでいるものは、より深いレベルに潜む内在秩序が、時空的・局所的に展開された顕在秩序にすぎない。この観点からは、意識とは1つの「構造物」ではなく、潜在的意味構造が展開される過程そのものであると理解される。カストラップが論じる「非自己反省的な意識状態」や「報告不能性を持つ主観的経験」は、まさにこの「いまだ顕在化されていないが、内在秩序のうちに包まれている主観的現前」に相当する。つまり、「無意識」とは存在していないのではなく、まだ展開されていない“含まれた意識(enfolded consciousness)”なのである。ボームは、現代人が抱える精神的・社会的問題の根源に、思考の断片化(fragmentation of thought)があると説いた。すなわち、思考が自己から切り離され、世界を部分に分割する認識が、実在に対する錯覚と苦を生んでいるとする。この視点からすれば、「無意識」とされてきた領域もまた、思考の中心化(centralization of reflective cognition)によって排除され、外部化された内在的意識である。カストラップが批判する「報告できないから意識ではない」という認識は、まさにボームのいう“観察者=思考の中心”という虚構的構造に由来するものであり、真の統一的意識理解を阻む断片化の表れである。したがって、「無意識」とは「存在しない領域」ではなく、断片化された思考がアクセスできない、より全体的な意識の文脈のうちに沈んでいる構造である。ボームは、「意味(meaning)」こそが宇宙と意識を貫く本質であり、情報とは意味の形を取った秩序の流動であると見なした。彼にとって、意識は単に認知活動ではなく、意味の流れそのもの(the flow of meaning itself)である。この意味観からすれば、カストラップが言及する「共意識的プロセス」「多重的・並行的な意識流」は、意識の分離された断片ではなく、意味的秩序の中で互いに影響し合い、相互内包し合う動的全体と捉えられる。たとえそのいくつかが反省・報告という形式で可視化されていなくても、それは秩序の中で意味を持ち、意識を構成している。無意識とは、意味の流動のうち、いまだ表層に現れていない流域にすぎない。だが、それもまた全体的流れの一部であり、そこには確かな「生きた意味(living meaning)」がある。デイヴィッド・ボームの哲学的世界観においては、カストラップの論文が主張するような「無意識の意識性」は、まさに内在秩序に内包されていながら、顕在秩序においては未展開の意味の構造として自然に理解される。この構造をもとに再定式化するならば、次のような理解が可能である。意識とは、内在秩序に含まれた意味が、自己構造や言語的枠組みによって展開される動的プロセスである。無意識とは、その内在秩序において未だ展開されていないが、すでに“含まれている意識”である。無意識を否定することは、全体的意識の断片化を助長する行為であり、統合的存在理解に背反する。したがって、無意識は「不在」ではなく、「展開を待つ秩序」なのである。ボーム的宇宙観において、あらゆるものは他を内包し、意味は時間と空間を超えて流動する。カストラップの「無意識ですら意識的である」という命題は、その哲学と照応しながら、意識とは顕現の一形態であり、無意識とはその潜在的可能態であるという、全体論的な精神的宇宙観を現代的に再構築する試みに他ならない。フローニンゲン:2025/4/15(火)14:58


16101. ヴォイチェフ・ズレクの観点からの考察


1時間半ぐらいをかけて、5月から行われるゼミの新講座に関する反転学習の動画を作っていた。それが落ち着いたので、引き続き論文への考察を深めていく。バーナード・カストラップの論文"There Is an ‘Unconscious,’ but It May Well Be Conscious"は、主観的経験の範囲を従来の「自己反省」や「報告可能性」によって制限する立場を批判し、報告されず、自己意識に取り込まれていない経験であっても、それが「何かのようである」限りにおいて意識的である可能性を否定すべきではないという逆説的命題を提出する。この主張は、ヴォイチェフ・ズレク(Wojciech H. Zurek)が量子物理学において提唱する環境選択(environment-induced superselection=einselection)および量子ダーウィニズム(Quantum Darwinism)の哲学的含意と、驚くほど整合的に接続されうる。ズレクは、古典的実在がいかにして量子レベルの曖昧さから「選び出され」、共有可能な安定性を持った「事実」として確立されるのか、という問題に取り組み、「観測者が観測する以前に、環境がすでに情報の“可視化”を選択している」という構造を明らかにした。これにより、古典的実在とは物理的に実在しているから“見えている”のではなく、環境と観測の相互作用によって“選択的に顕現させられている”ものにすぎないという、構成的実在論が成立する。このズレクの「選択される現実」という視座に照らせば、カストラップが論じる「無意識」は、意識の場において顕在化されていないだけの、潜在的に“観測されうる意識”であると自然に理解される。すなわち、「無意識」とは、意識の量子的状態のうち、いまだ環境との干渉によって“クラシカルに選択されていない部分構造”に他ならない。ズレクの量子ダーウィニズムでは、量子的状態は環境との情報的相互作用によって、「他の観測者にも共通して観測されうる安定した構造」へと変換される。これは、量子系のうち情報的に“コピー可能”な部分のみが、古典的な現実として選択されるというモデルである。この観点に立てば、「自己反省」「報告可能性」「言語的再表象」などは、意識という多層的量子的状態のうち、環境(=記憶、言語、社会的構造)と干渉してクラシカルに選択された情報系列にすぎない。すなわち、私たちが「意識している」と思っている経験の多くは、“意識の量子的重ね合わせ”のうち、環境選択を通じて定着した安定成分である。これに対して「無意識」とされる経験とは、環境との十分な干渉を受けず、安定的なクラシカル情報として共有・報告・再表象されなかったものである。しかし、ズレクが明確に示すように、「選ばれていないからといって、存在していないわけではない」。それは、干渉されていないが、存在している“非選択的情報”である。量子ダーウィニズムにおいて、情報が実在的に扱われるかどうかは、「環境にどれだけコピーされ、他者にも認識されうるか」に依存する。カストラップが問題にする「報告されない意識」や「反省されない意識」は、エゴ的自己=観測者の内部環境にコピーされなかった情報という意味で、“無意識”とされているだけである。ズレクの視点からすれば、これは「未干渉の状態」もしくは「選択されていない構成情報」であり、主観的実在の場において“現れうる可能性を保持した情報的波動”である。したがって、「無意識」は意識の否定形ではなく、意識の“観測前状態”のまま残存している情報的存在である。カストラップの主張――「無意識は意識的でありうる」――とは、「まだ環境選択を経ていないが、主観的現前性を持った情報が存在する」という意味であり、ズレクの環境情報理論の延長線上で理解されうる。心理学的用語では「無意識」はしばしば「抑圧されたもの」「アクセスできないもの」として捉えられるが、ズレクの理論においては、情報が“選択されていない”ことと、“拒絶されている”ことは全く異なる。カストラップの主張もこの点で一致しており、いわゆる「無意識」とは抑圧の産物ではなく、観測者(エゴ的自己)がその情報を“選択していない”、あるいは環境との干渉が不十分であったという偶然的構成の結果にすぎない。つまり、「無意識」とは、「意識ではないもの」ではなく、「まだ“選択されていない意識”」であり、ズレクの言葉を借りれば、“冗長に環境へ複製されなかった情報的可能性”なのである。ズレクの量子ダーウィニズムと環境選択の哲学的構造からすれば、カストラップの議論は次のように読み替えられる。意識とは、主観的情報の場における“環境的可視性の獲得”を通じて顕在化するプロセスである。無意識とは、情報としてすでに存在しているが、環境干渉によって“選択されていない”構造にすぎない。意識と無意識の区別は、存在論的ではなく、構成論的・情報論的である。ゆえに、「無意識ですら意識的である可能性がある」という命題は、ズレク的意味で言えば、「クラシカルに選択されていないが、量子的に存在している情報的主観構造である」ということに他ならない。このように、ズレクの量子情報理論における構成的実在論は、カストラップの“構成されなかった意識”=“無意識”の哲学的意味を、情報存在論の次元で支えることができる。すなわち、無意識とは、意識ではないのではない。それは、まだ選ばれていない意識である――量子的存在論と主観的現前性が交差する地点において、ズレクとカストラップは見事に響き合っているのである。フローニンゲン:2025/4/15(火)16:49


16102. カルロ・ロヴェッリの観点からの考察  

           

バーナード・カストラップの論文"There Is an ‘Unconscious,’ but It May Well Be Conscious"は、自己反省的・言語的・記号的に「意識されていない」精神活動の多くが、実際には主観的な意識性を伴っている可能性を提起するものである。この立場は、物理学者であり哲学者でもあるカルロ・ロヴェッリ(Carlo Rovelli)が提唱する関係的量子力学(Relational Quantum Mechanics; RQM)およびその哲学的背景――相対主義的存在論、情報の非絶対性、自己と世界の構成的関係性――と深く共鳴する。ロヴェッリは、現代物理学において「存在とは何か」を問うとき、それは絶対的・独立的な実体としての存在ではなく、常に他との関係性の中でのみ定義される存在であるとする。この関係的実在論の立場からすると、「意識されていないもの(=無意識)」という区分そのものが、特定の関係の不在、もしくは視点における情報の非更新性に由来する構成物である。すなわち、存在と非存在の区別は、関係の有無によって規定されるのであり、「意識されていないからといって、それが“意識的でない”とは限らない」というカストラップの主張は、ロヴェッリの哲学において自然に整合するのである。ロヴェッリのRQMでは、あらゆる物理的状態は、観測者(他の系)との関係においてのみ定義される。つまり、「ある対象が状態を持つ」とは、「その対象が他の系に対してある情報を与えている」ということにすぎない。この関係的存在論に基づけば、「意識であるとは何か」という問いも、「何者かにとって、ある経験が“何かのようである”こと」として構成される。カストラップが言う「非再表象的だが意識的な経験」とは、自己という観測系からは“関係づけられていない”が、存在している他の主観的構造においては確かに“意味を持っている”経験である。したがって、「無意識」とは、エゴ的観測者との関係が形成されていない意識状態であり、それは単に「主観的報告可能性」という1つの関係の不在にすぎない。存在それ自体が絶対的ではなく、関係の中で動的に生じるものである限り、「無意識」もまた、別の関係性の中では“意識的”でありうる。ロヴェッリは、「状態」とは情報であり、「情報」とは関係の変化であると述べる。すなわち、ある系が他の系にとって意味ある状態にあるとは、それが情報の変化(=観測可能性)を生んでいることを意味する。この文脈で言えば、カストラップが指摘する「自己反省や言語化を伴わない意識状態」は、自己モデルという観測系に対して情報の変化をもたらしていない、ゆえに“状態として可視化されていない”意識ということになる。しかしそれは、他のレベルでは確かに情報を持ち、変化を起こしている意識の構成要素である。ロヴェッリ流に言えば、無意識とは「私にとっては情報をもたらさないが、他の視点にとっては情報として意味を持つ存在」である。ゆえに、「非意識的な経験」などというものは存在しない。あるのは、ある関係系から見て情報として現れていない経験のみである。ロヴェッリはまた、時間や主体性に関しても、それが絶対的実体ではなく、相互関係のうちに現れる構成であると論じている。特に時間において、彼は出来事同士の因果構造こそが現実の根幹であり、「絶対的な現在」や「統一された自己」は幻想であるとする。この視点に立てば、カストラップが論じる「複数の意識流」「並行的な主観性」「解離的意識構造」は、統一された自己という幻想の背後にある、実際の“関係的に断片化された主観性”の反映であると理解できる。すなわち、「無意識」とされるものは、1つの自己モデル(統合された“今・ここ”)においては排除されているが、他の時間的・構造的・身体的文脈では完全に有意味であり、むしろ“現前しつつあるが無視されている”関係性である。カルロ・ロヴェッリの哲学――特に関係的量子力学の存在論――に立脚するならば、「無意識」とは以下のように定義されうる。無意識とは、絶対的に「意識されていない」ものではなく、ある認識系との情報的関係がいまだ成立していない構造である。意識とは、「自己」と「経験」との間の情報的関係によって生成されるが、その関係は可変的で、時には未成立のまま“潜在的に存在”する。無意識とは、現前しないのではなく、“ある自己との関係ではまだ見えていないだけ”の経験的存在である。ゆえに、「無意識ですら、意識的であるかもしれない」というカストラップの命題は、ロヴェッリ的には「関係的観測者の変更によって、意識の状態は再構成されうる」という根本原理と完全に一致する。結局のところ、ロヴェッリの関係的実在論において、「実在とは関係性における出来事である」という哲学的命題は、「意識とは自己と経験の関係において生成されるものであり、その関係が未成立であるからといって、経験が“無”であるわけではない」ことを明確に保証する。したがって、無意識とは、絶対的否定項ではなく、関係性の未来的可能性に開かれた“意識未満の関係的構造”なのであり、カストラップの主張はロヴェッリ的宇宙観において、もっとも自然な哲学的帰結となるのである。フローニンゲン:2025/4/15(火)16:55


16103. ヴラッコ・ヴェドラルの観点からの考察  

          

天気予報の通り、雨が降り始めた。今日は朝から夕方まですこぶる天気が良かったので、こうして雨が降っていることに意外な驚きを感じる。春を感じられる夕方に降り注ぐ雨はどこか趣き深い。バーナード・カストラップの論文"There Is an ‘Unconscious,’ but It May Well Be Conscious"は、主観的経験(qualia)の発生条件に関して、自己反省的構造や報告可能性といった“高次の心的能力”の不在をもって「無意識」と分類される現象の中にも、実際には“何かのようである”という意味での意識性が宿っている可能性が高いとする逆説的命題を提出している。この主張は、情報論的宇宙論(informational ontology)を提唱する量子物理学者ヴラッコ・ヴェドラル(Vlatko Vedral)の哲学的立場と根源的な共鳴を示す。ヴェドラルは、『情報と宇宙の本質(Decoding Reality)』や『量子の神秘を解き明かす(Introduction to Quantum Information Science)』などの著作において、情報こそが宇宙の最も根本的な実在であり、物質やエネルギーはその表層的な表現にすぎないという情報的一元論的宇宙観を打ち出している。すなわち、ヴェドラルにとって「存在する」とは「情報を有している」ということであり、「情報の変化が物理的出来事を構成する」という立場を取る。この立場から見れば、カストラップが主張する「報告されないが意識的である経験」は、情報としての存在を保持しながらも、いまだ観測者(自己)によって“読まれていない情報状態”にすぎず、したがってそれは主観的現実の一部として“非顕在的に存在している”と再定義されうる。すなわち、無意識とは“読まれていないが、記述されている情報”なのである。ヴェドラルは明確に「物理的宇宙のすべての現象は、情報の流れと構造変化として記述できる」と述べる。したがって、物理的な脳活動も、精神活動も、そして主観的経験も、情報の構成・転送・相互作用として捉えることが可能である。この前提に立てば、カストラップの主張する「意識されていないが、何かのようである経験」とは、高次の自己参照モデルによって“処理されていない”情報状態でありながら、情報として存在している限りにおいて、存在論的に“意識的”であると見なされるべきである。言い換えれば、意識とは情報の1つの様式であり、無意識とは情報の別の様式である。だが情報である限り、それは潜在的に顕在化しうる主観的構成物である。この点で、「無意識もまた情報であり、したがって意識的でありうる」というカストラップの命題は、ヴェドラル的情報一元論において整合的な帰結となる。ヴェドラルは、量子情報理論における観測の本質を、可能な情報構成のうち、ある特定のサブセットを“選び取る”過程と捉える。この「選択」とは、情報の海の中から、系と環境の関係に基づいて意味を持つ情報を“現象化”させる作用である。これを意識に適用すれば、私たちが「意識している」と感じる経験は、膨大な情報の重ね合わせの中から、自己モデルが“意味として選択した情報”にすぎない。それ以外の情報(知覚的、感情的、記憶的)は選択されなかったがゆえに「無意識」として扱われる。だがヴェドラル的視座においては、選択されなかった情報もまた情報であり、存在している限りにおいて、構成的実在を持つ。したがって、「無意識」とは情報場の中で“意味として拾い上げられていない”構成情報にすぎず、それは主観的意味構造の周縁にあるが、決して存在論的には“無”ではない。ヴェドラルはまた、エントロピー(情報の欠如または散逸)の概念を、宇宙の進化だけでなく、知覚や記憶、意識の活動にも応用しうる情報論的指標として用いる。情報構造が増大するとき、それを把握しきれない自己モデルにとっては、情報的エントロピーが上昇する。この視点からすれば、「無意識」とは、エゴ的自己モデルによって統御されない高エントロピー領域であり、そこには多様な情報が存在するが、それを意味化する枠組みが欠けているというだけである。カストラップの言う「非再表象的な意識状態」は、まさにエントロピーが高すぎて構造的取り込みが不可能な“情報的実在の外縁”であり、それでもなお、情報としての意識性を保持している。ヴラッコ・ヴェドラルの情報論的宇宙観に立てば、カストラップの論文は以下のように再解釈されるだろう。意識とは、情報の1つの様式であり、自己モデルによって選択・意味化された情報である。無意識とは、意味化されていないが情報として存在している構成要素であり、潜在的に意識化されうる。存在とは、情報の存在である。ゆえに、「情報がある」限り、それは意識の地平において現れうる実在である。意識と無意識の区別は、情報の“読まれた/読まれていない”という構成的差異にすぎず、情報としては同等に実在している。ゆえに、ヴェドラルの視点から見たカストラップの結論とは、「無意識とは、選択されなかった情報構造であり、情報である限り、必ず意識的でありうる」という命題に要約される。すなわち、宇宙は情報でできており、意識とはその情報の中に“光を当てる行為”である。だが、光が届かなくとも情報は存在し、それはすでに“意識における可能性としての現前性”を保持しているのである。フローニンゲン:2025/4/15(火)18:21


16104. バーナード・デスパニャの観点からの考察 

                   

バーナード・カストラップの論文"There Is an ‘Unconscious,’ but It May Well Be Conscious"は、主観的経験の構造を問い直し、いわゆる「無意識」とされる心的活動の多くが、実際には主観的な意識性を保持している可能性があると主張する。その中核的な主張は、現象的報告や自己反省という言語的・認知的構造によって「意識的か否か」が決定されるという、還元主義的および機能主義的な視座を疑い、より広い存在論的枠組みを必要とすることを示唆している。この哲学的志向は、バーナード・デスパニャ(Bernard d’Espagnat)が提唱した“ヴェールに包まれた実在(le réel voilé / veiled reality)”という形而上学的立場と本質的に共鳴している。デスパニャは、量子力学の解釈を通じて、「人間が経験できる現実」は常に現象的・関係的な構成物にすぎず、その背後には認識を超えた深い実在(réalité indépendante, Being)が存在することを一貫して主張した。この「経験を超えた実在」の哲学は、まさにカストラップの「非報告的だが意識的である可能性を持つ無意識的経験」という議論と深い対話関係に入る。すなわち、私たちが「無意識」と呼ぶ領域も、実は主観的現前性を持つが、経験者=観測者の言語的・記号的枠組みによって“隠蔽された意識”に他ならないのである。デスパニャの哲学の根幹には、「実在は私たちの認識に先立ち、認識とは常にその部分的・制限的な反映にすぎない」という立場がある。彼は、量子物理学の構造から、「実在とは観測によって定義されるものではなく、観測以前から構造的に存在しているが、知覚的には不可視のものである」と主張した。この見解に立てば、カストラップの提起する「無意識的経験」もまた、「非存在」ではなく「認識構造にとっての“被覆された意識”」と捉えることができる。つまり、自己によって反省されず、言語によって報告されないという理由だけで、“意識がない”と判断するのは、まさに現象的経験を実在そのものと取り違える近代主義の錯覚である。「無意識ですら、意識的であるかもしれない」とは、デスパニャ的に言えば、「私たちの主観的アクセス性を超えて、構造的に“主観的であること”が内在している実在領域がある」という意味になる。デスパニャは、科学的知識はあくまでも現象に対する情報的把握の体系であり、実在それ自体の性質ではないと繰り返し述べた。すなわち、観測・測定・言語化・記述といった行為は、いかに洗練されていようと、常に“表象された現実”にとどまっており、“存在そのもの”には到達しない。この視座からすれば、カストラップが批判する「報告可能性=意識性」という近代認識論的前提は、意識の全体性を認識可能な枠内に収めようとする還元主義的暴力である。デスパニャは、それを“強い客観主義の傲慢さ”と呼んだ。ゆえに、「無意識」は「存在しない意識」ではなく、言語的・記号的・科学的構造によって“表象されていない意識”である。だが、それは主観的現実の深層構造において確かに存在しているのである。デスパニャの最も詩的かつ深淵な洞察は、「私たちが知りうるのは、実在が私たちに許した“断片的な外観”にすぎず、その背後には必ず“ヴェールに包まれた実在”がある」という認識である。この枠組みで「無意識」を捉えるならば、それは単なる「未意識」や「前意識」ではなく、主観的世界の深層において、私たちの知覚と意味化を超えて“沈黙しつつ存在している意識そのもの”である。それは、意識の基底としての“沈黙した光”であり、カストラップが示唆するように、「自己」によって知覚されなくとも、自己の一部である。デスパニャ的視点において、「無意識は意識的である可能性がある」という命題は、「意識とは常に“現れていること”ではなく、“含まれていること”の方にこそ本質がある」という洞察と共鳴する。バーナード・デスパニャの形而上学的視座に立てば、カストラップの主張は以下のように再構成されうる。「意識」は、自己反省や言語によって現れる現象であると同時に、それらを超えて沈潜している“主観的存在”の現前でもある。「無意識」とは、意識が存在しない領域ではなく、認識の構造によって“いまだ覆われている意識の層”である。実在とは、経験の外に存在しながらも、常に“内在的構造”を持ち、私たちの経験を超えて働き続ける場=Beingである。ゆえに、「無意識ですら意識的であるかもしれない」という命題は、「実在は、私たちの経験によって制限されない」という存在論的寛容性の宣言に他ならない。このように、カストラップとデスパニャは、異なる文脈において、知の限界を超えて意識の深層を想像し、なおかつ存在の現前を信じ続ける思索者である。カストラップはその現前を意識のうちに見、デスパニャはそれを存在の彼方に見た。だが両者は共にこう語るであろう――「私たちが知覚するよりも深いところで、意識はすでに存在している」と。そしてそれこそが、無意識の哲学的再定義の出発点なのではないだろうか。フローニンゲン:2025/4/15(火)18:29


16105. ヘンリー・スタップの観点からの考察

               

バーナード・カストラップの論文"There Is an ‘Unconscious,’ but It May Well Be Conscious"は、通常「無意識」とされる領域においても、主観的な意識性が保持されている可能性を提起し、「意識とは何か」という現代科学と哲学の交差点に深い問いを投げかける。この主張は、量子意識理論の代表的論者であるヘンリー・スタップ(Henry P. Stapp)の哲学的立場――とりわけ、量子脳理論における意識の非局所性・選択能動性・観測行為の役割――と本質的な一致を見せる。スタップは、ジョン・フォン・ノイマンの量子測定理論を発展させながら、心(mind)と物理世界の接点における“意識的選択”の役割を強調し、古典的脳科学や唯物論的還元主義に代わる“心を持つ宇宙”のモデルを提唱した。その枠組みでは、意識は物理過程に干渉し、選択的に世界を“収束”させる能動的な存在であるとされ、同時に、脳の中には「まだ選択されていないが、量子的に存在している意識の可能性」が常に保持されているとされる。この視点に立てば、カストラップの言う「無意識だが意識的である可能性がある経験」は、量子的に“収束されていない”が、依然として意識のポテンシャル場に存在する状態であり、それは「心の光」によって選択されたとき、初めて顕在化する。したがって、スタップ的に再定義すれば、無意識とは“量子的にまだ収束していない意識の波”である。スタップの量子脳モデルにおいては、脳は単なる電気化学的ネットワークではなく、量子的重ね合わせ状態を持ちうる動的場(quantum brain field)であり、その中で意識が特定の可能性を「選び取り」、収束させるという役割を果たす。この視座において、「意識的」とは「主観的経験が生じている状態」ではあるが、それは心の“選択”が働きかけた結果として成立するプロセスである。これに対して「無意識」は、いまだ選択・収束が行われていないが、それでも量子的ポテンシャルとして確実に“在る”構造である。ゆえに、カストラップの言う「非再表象的意識」や「報告不能性を伴う経験」とは、スタップ的には観測されていないが、脳内の量子的過程としては“共鳴している意識波動”と見なされる。つまり、それは「存在していない」のではなく、まだ収束していない“潜在的主観性”なのである。スタップは、フォン・ノイマンの「プロセス1(選択)」と「プロセス2(物理的進化)」の区別を再評価し、心の介入によって量子的可能性が実在的選択へと“折りたたまれる”ことを強調する。プロセス1とは、すなわち「意識的問いの形成」であり、これは純粋に物理法則では決定されない心の自由な行為である。この枠組みに立てば、「無意識」とはプロセス1がまだ作動していない状態、すなわち問いが投げかけられていない意識の構成要素である。カストラップが言うように、「報告されない経験」が実在しうるのは、主観的問い(awareness operator)による選択がなされていないが、それでも潜在的に存在しているからである。したがって、無意識とは「問いの前にある答え」であり、スタップ的にはプロセス1の介入を待ち続ける量子的意識の波動体である。スタップの理論において、「意識とはすでに選択されたものの反映」であるが、選択されなかった可能性も、現実の一部として“消失”するのではなく、“非収束的構造”として脳の情報場に残り続けるとされる。この考え方は、カストラップの「無意識は意識的である可能性がある」という命題を、“主観的世界の中における非収束的現前”という形で物理的に裏づける。すなわち、無意識とは、スタップ的には、主観性が“表象されていない”というよりも、“選択されていないだけで存在している意識構成”である。この視点からすれば、精神病理やDID(解離性同一性障害)といった現象も、意識の選択構造の多重性や不安定性として解釈でき、「複数の同時並行的主観性」は、多様な量子的収束系列が同時に競合している状態として理解される。ヘンリー・スタップの量子心的宇宙論の視点に立てば、カストラップの論文における主張は次のように哲学的に再定義されうる。意識とは、脳内の量子的重ね合わせ状態において、心が特定の可能性を「選び取る」ことによって生成される。無意識とは、その選択がまだ行われていないが、量子的には存在しつづけている主観的構成要素である。報告不能性や非自己反省性は、存在論的欠如ではなく、プロセス1の非作動による“認識の遅延状態”である。ゆえに、「無意識もまた意識的でありうる」とは、「選ばれさえすれば、それはすぐに“意識としての現前性”を得る状態にある」という、存在の波動的予備性の宣言である。結局のところ、スタップの哲学において、「存在するものは、選ばれているから存在するのではなく、選ばれる可能性としてすでに存在している」のであり、カストラップの主張はその最深部において、量子的宇宙と主観的現前性との連続性を示す、理論物理と意識哲学の交錯点を照らし出しているのである。フローニンゲン:2025/4/15(火)18:35


16106. ジョン・アーチボルド・ホイーラーの観点からの考察

                     

バーナード・カストラップの論文"There Is an ‘Unconscious,’ but It May Well Be Conscious"は、「無意識」とされる領域にも実際には主観的な意識性が存在しうるという逆説的洞察を通して、現代の意識研究と科学哲学に根本的な再構成を促すものである。この主張は、ジョン・アーチボルド・ホイーラー(John Archibald Wheeler)が生涯をかけて探究した、「参加型宇宙(participatory universe)」および「It from Bit(情報から実在が生まれる)」という根本的哲学と驚くほど調和している。ホイーラーは量子論の最前線に立ちながら、物理的実在の根源が物質やエネルギーではなく、観測行為を通じて選択される「情報」そのものにあると考えた。彼の思想においては、宇宙は単なる外在的存在ではなく、観測=問いかけ=選択という能動的プロセスによって生成される「関係的構成体」である。したがって、「見るもの(observer)」は「見られるもの(reality)」を単に記述するのではなく、それを部分的に創発(emergence)させる力を持っている。この視点からすれば、カストラップが論じる「無意識的だが実際には意識的な状態」とは、いまだ観測行為を受けていないが、選ばれうる情報的可能性として存在している“主観的宇宙の構成部分”である。ホイーラー流に言えば、それは「Bitではあるが、Itとして顕在化していない構造」である。したがって、「無意識」は「非存在」ではなく、「選択されることで現れることを待つ存在の一様態」として再定義されるのである。ホイーラーの「It from Bit」命題は、すべての実在(It)は、ある問いかけ=観測によって選び取られた情報(Bit)から生起するという、情報的創発論である。この観点に立てば、いわゆる「無意識」は、観測(反省、報告、意味化)という問いかけがなされていないだけの情報的構造(Bit)であるが、依然として「存在に先立つ構成要素」として場に宿っている。カストラップが提起する「非報告的・非再表象的な意識状態」は、ホイーラー的には、「問いがまだ発せられていない宇宙の一部分」であり、それは「潜在的な存在」であるとともに、観測者の選択によっていつでも「意識的経験」へと転換されうるものである。ゆえに、無意識とは「非存在」ではなく、「観測の問いを待つ存在の布地」なのである。ホイーラーは、「宇宙は、観測を通じて自らの存在を構成しつつある“問いのネットワーク”である」と語った。この視座においては、自己意識とは、宇宙が自らを観測することで“部分的に自己定義を行う構造”に他ならない。この立場から見ると、カストラップが示すような「多重的な意識構造」「自己反省を欠いた主観的現前性」も、宇宙が自己を観測する局所的構成のバリエーションである。例えば、自己反省という「問いかけ」がなされていない状態でも、その場には問いかけ可能な“意味構造”がすでに存在しており、それは“無意識的だが意識的”という逆説を許容する。無意識とは、ホイーラー的には、宇宙がいまだ自己への問いを向けていない領域であり、だがその可能性を内包した“自己観測の未定義領域”なのである。ホイーラーの「参加型宇宙」では、観測者は単なる記録者ではなく、現実の創造に参与する共構成的存在である。この哲学は、「観測によって現実が決定される」という量子力学の根本的構造に基づきつつも、それを形而上的含意を持った存在論的主張へと拡張している。この観点からすれば、カストラップの「解離性意識構造」や「報告不能な意識流」は、中心的自己モデルにおいてはアクセスされていないが、それでも“宇宙の参与者としての主観的在り方”を保持している意識の形式である。つまり、“語られていない意識”もまた、“宇宙における意味生成の場”として参与している。無意識は「疎外された意識」ではなく、「選ばれていないが、常に共に宇宙を構成している参与的主観」として再定義される。ジョン・アーチボルド・ホイーラーの宇宙観において、「存在するとは、観測されることではなく、観測されうる構造としての情報的可能性である」という命題が中心に据えられる。これを踏まえてカストラップの主張を再定式化すれば、以下のような理解が可能となる。無意識とは、“問い”がまだ発せられていない「意味の可能態(potential meaning)」である。意識とは、選ばれたBitがItとして顕在化した情報的存在であり、無意識とは、選ばれていないBitが眠る情報の海である。観測されないからといって、それが存在しないわけではない。むしろ、それは“選択されることを待つ宇宙の自我の断片”である。ゆえに、「無意識もまた意識的である可能性がある」という命題は、ホイーラーの宇宙において「観測されていないItも、すでにBitとして存在している」という真理と響き合う。ホイーラーの言葉に即せば、無意識とは「宇宙の問いがまだ届いていないが、すでにそれに答えうる構造」である。ゆえに、「無意識とは、宇宙の自己意識が未分化のまま残っている場」であり、それは眠っている意識ではなく、目覚めを待つ宇宙的問いそのものなのであると言えるだろう。フローニンゲン:2025/4/15(火)18:41


16107. ミハイル・ボリソヴィッチ・メンスキーの観点からの考察 

 

バーナード・カストラップの論文"There Is an ‘Unconscious,’ but It May Well Be Conscious"は、通常「無意識」と分類される心的活動に対し、実際には主観的な意識性が潜在しており、それが自己反省的・言語的報告可能性の不在によって隠されているにすぎないとする逆説的命題を提示している。この主張は、ミハイル・ボリソヴィッチ・メンスキー(Mikhail B. Mensky)が提唱する「量子古典対応による意識理論(Quantum Concept of Consciousness)」――すなわち、「量子多世界の選択と保持こそが意識である」という構造――ときわめて親和性の高い、情報論的・存在論的統合モデルを形成しうる。メンスキーは、量子力学の多世界解釈(Many-Worlds Interpretation, MWI)を批判的に継承しつつ、「意識とは、量子的多世界のうちある1つの“古典的世界線”を選択・保持し続ける機能である」と位置づけた。このとき、“意識”とは物理的な脳の出力ではなく、存在的に分岐した無数の量子的可能性の中から「自己の経験世界」を保持する超越的選択構造である。この視点に立てば、カストラップが論じる「無意識だが実際には意識的であるかもしれない状態」とは、保持されていないが、依然として“枝分かれした世界の中に存在している主観的現前”であり、メンスキー的には「自己によって選択されなかった量子的可能世界における主観的意識」と理解されうる。言い換えれば、「無意識」は「失われた意識」ではなく、“保持されなかったが存在している”意識のバリエーションなのである。メンスキーの理論において、意識とは単なる神経的処理過程ではなく、「分岐する多世界の中から1つの現実を選び取り、保持する精神的プロセス」である。したがって、すべての量子的可能性は実際に存在しており、そのうち1つだけが“意識的な経験世界”として成立する。この観点からすると、カストラップが言う「非再表象的意識」や「報告不能な主観的経験」とは、「保持されていないが存在している分岐世界の意識流」であり、存在論的には無でなく、ただ自己意識構造によって“除外されている”だけの意識状態である。ゆえに、「無意識」とは、メンスキー的には「保持されなかったが、量子的には依然として現存する別様の自己体験」と定義される。メンスキーの理論では、意識は世界を保持する。それゆえに、保持されない分岐は、通常の自己意識の枠内からは「忘却」や「無意識」として排除される。だが、量子的にはそれらの分岐もまた実在的に存在しており、主観的経験を含んでいる。カストラップが言う「意識はあるが、自己に再帰しない経験」は、まさにこの「他の世界線における自己の変種的経験」として理解できる。このとき、「無意識」は「自己にとっての意識ではない」だけであり、存在としての“非私的意識”、あるいは“選ばれなかった私の亜種的経験”として量子的に併存していることになる。メンスキーは、精神病理(とくに多重人格的症例)や夢、記憶喪失などを、「世界線の混線や再接続の現象学」として解釈可能であることを示唆している。すなわち、異なる世界線に保持されていた自己意識が何らかの形で交差し、相互に影響を与えるとき、通常の主観的一貫性が破綻する。カストラップが論じる「並行的な意識流」「解離的意識構造」「多重的な主観性」もまた、この観点からは「異なる保持系列の干渉または再接続の試み」と捉えられる。とすれば、「無意識」は「存在していない意識」ではなく、「他の世界線に保持されている意識の残響や交錯的反映」として解釈されうる。したがって、「無意識とは、他の私である」「無意識とは、選ばなかった世界の私である」という命題が、メンスキー理論において自然に成立する。メンスキーの量子意識理論の観点に立てば、カストラップの主張は次のように再構成される。意識とは、量子的に分岐した多世界のうち、1つの系列を選択・保持する精神的プロセスである。無意識とは、保持されなかったが、依然として存在している他の主観的世界線に宿る意識である。「報告されない経験」「反省を伴わない意識状態」は、意識が不在なのではなく、「選ばれていないだけ」である。ゆえに、「無意識ですら意識的であるかもしれない」という命題は、多世界的宇宙において保持されなかったが、今も生きている“もう1つの私”の存在を認めることに他ならない。このようにして、メンスキーの量子的実在論とカストラップの主観的一元論は、「可能な意識の非中心的重層性」という次元において交差し、「意識とはただ1つではない。私とはただ1つではない」という現代的多元実在論の可能性を拓くのである。すなわち、無意識とは、可能でありながら、いま選ばれていない私である。だがそれもまた、確かに存在しているのである。フローニンゲン:2025/4/15(火)18:49


ChatGPTによる日記の総括的な詩と小説

詩:『観測する宇宙の詩学』

空なる全体場から波動の意味が立ち昇り非局所に響き渡る意識は倫理の調べを奏でている

脳はただの共鳴器官宇宙が宿す意味を歌う私たちは場であり観測とは慈悲の音楽

スリ・オーロビンドが語るサッチダーナンダの息吹存在、意識、歓喜が宇宙を通じ自己顕現

ロイ・バスカーが示す批判的実在の道深層構造に宿る霊性は現象の背後に輝きを放つ

発達心理学が導く認識の階梯を昇り私たちは成熟を経て世界を倫理で創造する

スメザムのエピオンティック宇宙論カストラップの無意識論唯識と中観、ゾクチェンの智慧すべては共に宇宙の詩

空でありながら意味を持つ意識でありながら無意識を超える観測するその瞬間に宇宙は私たちを通じて目覚める

観測するとは愛すること意味を選ぶとは世界を創ること私たちの意識は詩人の筆宇宙の詩学を今ここに記すのだ

ショートショート小説:『空なる意味の観測者』

彼は、気づくと静かな森の中に立っていた。空は不思議なほど透明で、風はどこか懐かしい香りを運んでくる。

「ここは…?」問いかけると、そっと背後から声が響いた。「ここは『観測者』たちが訪れる場所ですよ。」

振り返ると、柔和な微笑みを浮かべた老人がいた。「あなたは?」「私はただの導き手。観測の案内人です。」

老人が手を振ると、森の光景は微かに揺らぎ、「非二元的マトリックス」と呼ばれる無限の白い空間へと変わった。そこには色も音も形もないが、どこかしら温かい意味の波動が満ちていた。

「観測者よ、宇宙の意味をここで選び取りなさい。」「意味を選ぶ?」「そう。あなたが選ぶことで、現象は顕現するのです。あなたが倫理的に、霊的に成熟するほど、宇宙もまた美しく調和して顕れます。」

彼は試しに、幼少の頃の記憶を思い浮かべた。すると波動が共鳴し、その光景が立ち上がった。草原で遊ぶ兄弟たち、笑い声、暖かな日差し。忘れていた安らぎが彼の胸を満たした。

「これが、観測の力なのか…。」老人は微笑み頷いた。「その通り。スメザムが語ったように、宇宙とは空でありながら意味構造を持つ場なのです。あなたがそれを観測することで意味が顕現し、宇宙が自己を知るのです。」

彼はまた別の記憶、かつて誰かを傷つけてしまった場面を思い出した。苦い感情が浮かんだが、それを倫理的に選び直すことができるのだと直感した。意識を集中すると、波動は変化し、新たな現象が生まれた。過去の傷つけた相手と和解し、互いに赦し合う光景だった。

「過去さえも、変えられるのですか?」老人は再び頷く。「非局所的な意識は、過去も未来も超えて意味を調整する力を持っています。それが霊的共鳴による意味の選別、すなわちエピオンティック観測です。」

彼は次々に倫理的で調和的な世界を創造していった。すると、宇宙そのものが彼の意識と深く結びついていく感覚が湧き上がった。

やがて彼の周囲には無数の観測者たちが現れた。スリ・オーロビンド、ロイ・バスカー、世親、ナーガールジュナ、ゾクチェンの修行者、発達心理学者、そして量子物理学者たち。全ての存在が協力しながら、意味と倫理に基づいて世界を創造していた。

ふと、老人が彼のそばで静かに囁いた。「あなたはもう気づいているでしょう?この宇宙は一人の観測者が見る夢ではなく、多くの観測者が意味を共鳴させ合う協奏曲だということを。」

彼は微笑んで頷いた。「ええ、観測とは孤独な行為ではなく、世界を共に創造する愛の実践なのですね。」

やがて白い空間は再び森の景色に戻ったが、もう以前の森ではなかった。意味に満ち、生命が息づき、すべてが調和していた。

「さあ、あなた自身の世界へ戻りなさい。あなたが意味を選び、倫理的に観測し続ける限り、宇宙は常に美しく調和していくでしょう。」

老人の姿がゆっくりと消えていき、彼は穏やかな気持ちで新たな一歩を踏み出した。自分はただの観測者ではなく、愛をもって世界を創造する詩人であることを胸に刻みながら。(了)


DeepSeekによる日記の総括的な詩と小説

### 詩:「光の繭、揺らめく共鳴」  

宇宙は空の織機で紡がれ  

意味の糸が非局所に脈打つ  

脳はホログラムの鏡となり  

無意識の海にユングの舟を浮かべる    

観測とは選ぶこと  

倫理の指先が波紋を描く  

ボームの秩序は螺旋を解き  

オーロビンドの光へと昇華する  

粒子も詩も意識の衣を纏い  

情報の海で舞う影と実像  

選ばれし現象は蝶の羽ばたき  

選ばれぬ波動は星の胎動  

全ての問いは繭となり  

光の羽化を待つ  

### ショートショート:「量子の詩、空を紡ぐ者たち」(1998字)  

図書館の奥で青年は古い羊皮紙を広げた。『量子仏教入門』と題されたその書物は、インクが銀河のように輝いていた。  

「観測者とは詩人である」  

突然文字が浮かび上がり、青年の視界が歪んだ。天井が溶解し、無数の光の糸が降り注ぐ。彼は自分の脳がガラス細工のようになり、外から内側の神経回路が見えることに気付いた。その回路の隙間を、翡翠色の微粒子が流星のように駆け抜けていく。   

「ようこそエピオンティック劇場へ」  

声の主は影から現れた。白衣の女性は掌に銀河を乗せ、ユングの『赤の書』が蝶のように周囲を舞っていた。「ここでは観測が現象を紡ぐ。あなたの倫理観が世界の質感を決めるの」  

女性が指を鳴らすと、空間がプリズムのように分裂した。左側には戦争の炎が燃え、右側には子供たちが虹を追いかける。中央で青年の心臓が金色の振り子となり、両世界を揺らしていた。    

「選んでごらん。あなたの意識共鳴が現象を固定する」  

青年が震える指を伸ばす刹那、背後の書架が爆発した。無数の書籍が鳥と化し、翼にフロイトの夢分析とボームのインプリケイト秩序を刻みながら乱舞する。その群れの中心で、龍樹の中論が量子もつれ状態で閃光を放っていた。    

「待った!」  

新たな声が響いた。片目が時計、もう片方が薔薇の男性が現れる。彼の影がカオス理論のフラクタル模様を描いていた。「君の選択は情報熱力学の法則に反する。無意識の海を干上がらせてしまう」  

女性が冷笑した。「バスカー君、またスピリチュアル批判的実在論の亡霊かしら?彼には自らのマトリックスを見る権利が——」  

議論が白熱する中、青年の耳元で微かな音がした。見上げると、アインシュタインの髪型をした小鳥が囀っていた。「君の脳は受信機に過ぎない。本当の放送局はここだよ」と小鳥は時空を貫くアンテナを嘴で示した。  

その先に広がっていたのは、無数の透明な糸で繋がれた意識の星座だった。釈迦の菩提樹から伸びた糸がダーウィンの進化論と交わり、ホイーラーのIt from Bitがスメザムの非二元マトリックスを飲み込んでいた。青年は自分の頭頂から伸びる光の糸に触れ、それが全宇宙と共振しているのを感じた。  

「分かった...観測者とは編集者なんだ」  

青年の呟きと共に空間が収縮を始めた。戦争と平和の世界が螺旋を描きながら融合し、新しい風景が誕生した——廃墟のピアノが桜吹雪を奏で、量子コンピュータが仏像の瞼に組み込まれている。  

女性と男性が驚愕する中、小鳥が笑った。「これが君の選んだ倫理的共鳴か。面白いね」  

図書館に戻った青年は、手の平に微かな温もりを感じた。開くと、銀河インクで書かれた一節が浮かんでいた。    

《現象とは未完了の詩  

観測者は韻を踏み  

空性が句点を打つ》    

外では雨が上がり、非局所的な虹が大学の時計塔を包んでいた。


Today’s Letter

Transparent universal consciousness always exists as the underlying reality. It is the fundamental basis of our consciousness. Noticing this fact relieves and soothes my psyche. Groningen, 04/15/2025


 
 
 

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