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【フローニンゲンからの便り】18797-18802:2026年6月3日(水)

  • 2 日前
  • 読了時間: 15分


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タイトル一覧

18797

新体操選手としての両手の指

18798

今朝方の夢

18799

今朝方の夢の振り返り

18800

指板上の運動芸術

18801

生物と無生物の間

18802

低音弦のハイフレットが持つ豊かな音色

18797. 新体操選手としての両手の指 


昨日、ギターを練習している最中、ふと面白いことに気づいた。クラシックギタリストとは、ある意味で両手の指だけで演じる新体操選手なのではないかということである。新体操の選手は、身体全体を使ってリボンやボール、フープを操る。観客の目には優雅で自然な動きとして映るが、その背後には膨大な訓練が隠されている。柔軟性、独立性、タイミング、空間認識、そして無数の反復練習。それらが高度に統合されたとき、初めて美しい演技が生まれる。考えてみると、クラシックギターも驚くほど似ている。左手の指は、それぞれが独立した演者である。人差し指がセーハを押さえている間に、中指は別の音を支え、薬指と小指は異なる方向へ伸びていく。しかもそれらは単に動くだけではなく、音楽の流れの中で正確なタイミングを共有しなければならない。まるで四人のダンサーが一本の音楽に合わせて踊っているようである。右手はさらに興味深い。親指、人差し指、中指、薬指がそれぞれ異なるリズムや役割を担いながら、一つの音楽を生み出している。特にアルペジオを弾いていると、指先が空中に見えない軌跡を描いていることに気づく。その動きは小さいが、実際には極めて精密な運動芸術である。最近、小指の独立性を高める練習を続けていることもあり、この感覚は以前より鮮明になっている。最初はぎこちなかった動きが少しずつ滑らかになり、今まで使われていなかった神経回路が目を覚ましていくような感覚がある。新体操選手が柔軟性や身体制御を高めるために地道な基礎練習を積み重ねるように、ギタリストもまた指先という小さな舞台で同じことを行っているのだろう。さらに興味深いのは、美しさが制御と自由の両方から生まれる点である。新体操では身体を完全に制御しながらも、観客には自由に舞っているように見える。ギターも同じである。難しいパッセージを弾くときほど、演奏者は細部まで制御している。しかし聴き手には、あたかも音楽が自然に流れ出しているように聞こえる。おそらく芸術とは、そのようなものである。厳密な訓練が極まった先で、訓練の痕跡が消えるのである。そう考えると、クラシックギタリストは単なる演奏家ではないのかもしれない。十本の指という極めて小さな身体を用いて、日々アクロバットを続けるアスリートでもある。その舞台は体育館でも競技場でもなく、わずか数十センチの指板と六本の弦の上に広がっている。そしてその舞台の上で、指たちは今日もまた新しい動きを学び続けている。まるで小さな新体操選手たちが、誰にも見えない場所で静かに演技を磨いているかのようである。フローニンゲン:2026/6/3(水)06:05

18798. 今朝方の夢

                    

今朝方は夢の中で、実際に通っていた小学校の校舎の外にいた。ある友人(HO)と話をしていると、彼が突然自分たちの学年の六年生の教室に向かって校舎の壁を駆け上がり始めた。彼の動きはまるで忍者のようだったが、ふと自分は彼よりもさらに高度な身体能力を兼ね備えていることを思い出し、彼を追いかけるようにして、ツーステップぐらいで3階の教室に辿り着いた。教室では2人の女性友達がスポーツと才能について話していた。2人は自分に意見を求めてきたので、持論を展開すると、片方の友人が自分の意見に対して反論を展開し始めた。彼女の言い分にも一理あるが、彼女は自分の持論の真意を掴んでいないと分かったので、2人ほどスポーツ選手を具体例として引き合いに出すことによってよりわかりやすく説明した。もう片方の友人はその説明に納得しているようだったが、反論した方の友人はまだ深く納得していないようだった。すると席の前に座っていた先ほどの友人が自分のガラスコップに手を伸ばし、中に入っている赤ワインを飲んだ。二口ほど自分のコップを通じてワインを飲み、彼はご機嫌のようだった。一方自分は、彼がパンを食べながらコップに口をつけたことによって、パン屑がコップの淵についていて、少し気持ち悪く思えてしまい、それ以降はそのワインに口をつけることをやめ、彼に全部あげることにした。

次に覚えているのは、高校二年生の時に知り合ったクラスメートの女性友達と、最初街に出かけ、街を散策しながら楽しく話をしていた場面である。高校生の自分たちにとっては、その街が大都会に見えて、ひどく興奮した。そこからしばらくすると、私たちは気づけば地元の海辺にいて、静かな波音を聞きながら、夕陽を浴びつつ会話を楽しんだ。そのような場面があった。


最後に覚えているのは、自分が翻訳出版した書籍に対して、2人の知人が推薦の意味も込めて書評を執筆してくれた場面である。片方の同年代の知人は、“Teory”という名前の謎の科学系SNSを使って書評を執筆してくれた。そのSNSは初めて聞く名前だったので調べてみると、登録が面倒のように思えたので使うのをやめた。フローニンゲン:2026/6/3(水)06:18


18799. 今朝方の夢の振り返り

 

今朝方の夢は、自分の内側で「過去の発達段階を再訪しながら、現在の知的・創造的成熟を確認する夢」であったように思われる。小学校の校舎の外にいる場面は、単なる懐古ではなく、自分の原初的な学びの場、すなわち能力・競争・仲間関係・評価意識が最初に形作られた心理的校庭への帰還を象徴しているのかもしれない。友人HOが六年生の教室に向かって壁を駆け上がる姿は、かつて自分の前を走っていた他者、あるいは自分の中にある俊敏で遊戯的な成長衝動を表しているように見える。しかし自分が「彼よりもさらに高度な身体能力を備えている」と思い出し、ツーステップで3階に到達する場面は、現在の自分が過去の競争軸を超え、かつて遠かった成熟の階層へ軽々と移動できるようになったという感覚を示しているのではないか。校舎の壁は、制度や年齢段階の垂直的な構造であり、自分は階段ではなく壁を登ることで、通常の発達経路ではなく、独自の跳躍によって成長してきたことを夢の身体で語っているようである。教室でスポーツと才能について議論する場面は、自分の中で「才能とは何か」「努力とは何か」「個人差をどう理解するか」という古くて新しい問いが再燃していることを象徴しているのだろう。女性友達が反論する場面は、自分の理論がまだ他者に完全には伝わらないもどかしさを示しているように思われる。自分の持論の真意を掴んでいない相手に対して、具体例を用いて説明する場面は、抽象的な理論を読者や聴衆に届く形へ変換しようとする現在の自分の課題を映しているのかもしれない。これはまるで、高い山の稜線で見えている景色を、麓にいる人にも伝わる地図へ描き直そうとする作業である。赤ワインとパン屑の場面は、とりわけ象徴的である。ワインは知的成熟、創造性、人生の味わいを表しているように見える。一方で、友人が自分のコップからワインを飲み、パン屑を残す場面は、自分の成果や感性が他者と共有されるとき、そこに混入する生活感、粗さ、未消化のものへの違和感を示しているのかもしれない。自分はワインそのものを否定しているのではなく、口をつける媒介が汚れたことで、そのワインを手放している。つまり、自分は共有や親密さを望みながらも、表現の器が乱されることには敏感であり、純度を守るために所有を放棄する傾向があるのではないか。次の街と海辺の場面は、思春期の期待と情緒の回復を象徴しているようである。高校生の自分たちにとって街が大都会に見えたという描写は、世界がまだ大きく、未来がまばゆく広がっていた頃の感受性を示しているのだろう。そこから地元の海辺へ移る流れは、外的な刺激の都市から、内的な静けさの海へと移行する心の軌道である。夕陽と波音の中での会話は、人生の中で失われていない瑞々しい親密性、つまり達成や理論以前に存在する、ただ共にいることの幸福を思い出させているように思われる。最後の翻訳出版と書評の場面は、現在の自分の仕事が他者に読まれ、推薦され、社会的な文脈に置かれていく過程を象徴しているのだろう。謎の科学系SNS「Teory」は、Theoryからhが抜けたようにも見え、理論が少し変形され、未知のメディア環境に流通していく不安を表しているのかもしれない。登録が面倒で使うのをやめる場面は、自分が新しい発信媒体に関心を持ちながらも、すべての場に自分を分散させるのではなく、自分にふさわしい器を選ぼうとしていることを示しているようである。人生における意味として、この夢は、自分が過去の校舎、思春期の街、静かな海、そして出版後の公共空間を一続きの道として歩いていることを示しているのではないか。自分はすでに高く登る力を得ているが、これから大切なのは、跳躍する力だけではなく、誰に、どの器で、どの純度で自分のワインを分かち合うかを見極めることなのだろう。フローニンゲン:2026/6/3(水)07:16     

   

18800. 指板上の運動芸術 

         

最近、小指の独立性を高める練習を続けている中で、ふとクラシックギタリストとは体操選手に近い存在なのではないかと思った。これまで演奏というと、どうしても芸術や感性の側面ばかりに目が向いていた。しかし実際の日々の練習を振り返ると、そこで行われていることは驚くほど身体的である。音楽を表現する前に、まず身体を思い通りに動かせなければならない。そしてその身体とは、クラシックギターの場合、全身というよりも両手の指先に凝縮された身体なのである。体操選手は鉄棒や吊り輪の上で、自分の身体を自在に操る。その演技を見ていると、まるで重力から解放されているように見える。しかし実際には、その背後に気の遠くなるような基礎練習が存在している。何千回、何万回という反復によって、身体は少しずつ新しい動きを覚えていく。ギターの練習も同じなのかもしれない。最近行っている小指の独立性の訓練では、最初は思うように動かなかった。右手の小指など特にそうで、まるで他人の指を借りているような感覚すらあった。しかし毎日少しずつ動かしているうちに、以前には存在しなかった動きが少しずつ可能になってきている。その変化を感じたとき、自分は新しい筋肉を鍛えているというより、新しい神経回路を建設しているのだと気づいた。まるで森の中に細い獣道を作り、それがやがて人の通る道になり、最後には舗装道路になっていくような過程である。体操選手が逆上がりや大車輪を習得する際も、おそらく同じことが起きているのだろう。最初は不可能に見える動きが、反復によって身体の中に新しい秩序として定着していく。考えてみれば、クラシックギターの演奏会とは、指先の体操競技の発表会のようなものでもある。聴衆は音楽を聴いているが、その背後では十本の指が驚異的な運動制御を行っている。数ミリ単位の移動、瞬間的な力の調整、左右の完全な同期。それらは体操競技で要求される精密な身体制御と本質的には変わらない。違うのは競技場の大きさだけである。体操選手の舞台は体育館全体に広がっているが、ギタリストの舞台は指板と弦の上にある。体操選手が空中で宙返りを行うなら、ギタリストは指先の中で宙返りを行っているのである。だからこそ最近は、スケール練習や独立性の訓練に対する見方が少し変わってきた。それらは退屈な基礎練習ではなく、身体そのものを再設計する作業なのだろう。音楽とは耳で聴く芸術であると同時に、神経系によって実現される運動の芸術でもある。そして今日もまた、自分は小さな体育館の中で練習を続けている。その体育館とは両手そのものであり、十本の指という選手たちは、昨日よりも少しだけ自由に動けるようになることを目指して黙々と鍛錬を重ねているのである。フローニンゲン:2026/6/3(水)08:17

 

18801. 生物と無生物の間

 

先日のゼミでは、生物と無生物の違いについて話題になった。一見すると単純な問いのように思える。犬や猫は生物であり、石や机は無生物である。そのように分類することは日常生活の中ではほとんど疑問の余地がない。しかし改めて考えてみると、この境界は驚くほど曖昧であり、実は哲学や科学の最前線にまでつながる難問なのではないかと思った。現代生物学では、生物の特徴として代謝、自己複製、進化、恒常性などが挙げられる。しかし、これらの条件を並べてみても完全な定義にはならない。例えばウイルスは自己複製能力を持つが、宿主がいなければ活動できない。そのため生物と無生物の中間的存在として扱われることがある。また、結晶は自己組織化しながら成長するが、生物とは見なされない。逆に冬眠中の動物や休眠状態の種子は、ほとんど活動していないにもかかわらず生物である。このような例を見ると、生物と無生物の違いは一本の線で区切れるものではなく、むしろ連続体なのではないかという気がしてくる。海岸線を空から見れば陸と海ははっきり分かれているように見えるが、実際に浜辺へ降り立つと、そこには砂があり、波があり、潮だまりがあり、どこからが海でどこまでが陸なのか明確には決められない。それと同じように、生物と無生物の境界にも広大な中間地帯が存在しているのかもしれない。そしてこの問題を考えているうちに、自然と汎心論や観念論のことが思い浮かんだ。もし物質と生命を絶対的に分けることが難しいのであれば、生命や意識はある時点で突然出現したものなのだろうか。それとも、宇宙には最初から何らかの内面的側面が潜在しており、それが複雑化する中で生命や意識として現れてくるのだろうか。汎心論は後者に近い立場である。もちろん原子一つ一つが人間のような意識を持つと考える必要はない。しかし、世界のあらゆる存在に何らかの内面性の萌芽があると考えるなら、生物と無生物の断絶はかなり緩やかなものになる。生命とは無から突然生まれた奇跡ではなく、宇宙がもともと持っていた潜在的な性質がより高度な形で表現されたものとして理解できるかもしれない。さらに観念論の視点から見ると、問題は別の姿を見せる。生物と無生物を区別しているのは世界そのものではなく、自分たちの認識なのではないかという問いが浮かび上がるのである。唯識が語るように、私たちは世界をそのまま見ているのではなく、認識の枠組みを通して見ている。そうであるなら、生物と無生物という分類もまた、人間の認識活動によって形成された一つの区分なのかもしれない。もちろん現実には、生物と無生物の違いを無視して生活することはできない。しかし今日改めて感じたのは、その境界は教科書の図のような直線ではなく、深い霧に包まれた山脈の稜線のようなものだということである。遠くから見れば明瞭に見えるが、実際にその場所へ足を踏み入れると、どこからどこまでがこちら側で、どこから向こう側なのか分からなくなる。生物と無生物の問題は、結局のところ生命とは何か、意識とは何か、そして世界とは何かという問いへとつながっているように思う。そしてその問いは、自分が関心を持ち続けている唯識、観念論、汎心論、さらにはサイケデリック研究とも地下水脈のようにどこかでつながっているのかもしれない。フローニンゲン:2026/6/3(水)08:29


18802. 低音弦のハイフレットが持つ豊かな音色

            

ここのところギターを弾いていて、低音弦のハイフレットについて改めて考えることがあった。六弦や五弦の12フレットより上は、音名だけを見れば前半のフレットで既に出せる音ばかりである。例えば六弦12フレットのEは開放弦と同じであり、六弦15フレットのGも三弦開放のGと同じである。そう考えると、わざわざ左手を窮屈なハイポジションまで運ぶ必要はないようにも思える。しかし実際に弾いてみると、音楽は音名だけでできているわけではないことに気づく。同じEであっても、開放弦のEと六弦12フレットのEでは響きがまるで異なる。開放弦の音は広がりがあり、どこか大地に根を張ったような安定感がある。一方でハイフレットの音は、より引き締まり、輪郭が明瞭である。例えるなら、同じ言葉を大声で広場に向かって話すのと、小さな部屋で相手の目を見ながら話すほどの違いがある。そのため、ハイフレットが活躍する場面の一つは音色を統一したいときなのだろう。旋律を高音域から低音域へ滑らかに移動させたい場合、開放弦を使うと急に音色が変わることがある。その点、同じポジション内で弾けば音色の連続性が保たれる。まるで同じ画家が同じ絵筆で描いた線が続いていくような感覚である。また、運指上の理由も大きい。理論上は前半のフレットで弾ける音であっても、その前後の音との関係を考えるとハイフレットの方がはるかに合理的な場合がある。音楽は一音ごとの独立した存在ではなく、前後の流れの中で生きている。将棋の駒が単独ではなく盤面全体との関係で意味を持つように、一つの音も周囲との関係によって最適な場所が変わるのである。さらに最近即興演奏をしていると、ハイフレットの低音弦には独特の魅力があることに気づく。通常、低音弦は重厚で深い響きを担う。しかしハイフレットまで上がると、その太い弦から意外なほど歌うような音が現れる。まるで低音楽器が突然テノール歌手になったかのようである。その音色は高音弦とも異なり、どこか渋みと温かさを併せ持っている。考えてみれば、音楽とは効率だけを追求する世界ではない。同じ場所にたどり着く道が複数あるとき、人は最短距離ではなく、景色の美しい道を選ぶことがある。低音弦のハイフレットもそれに似ているのかもしれない。音名だけなら別の場所で済む。しかし、その道を通ることでしか見えない風景や、その場所でしか得られない響きが存在する。だから最近は、ハイフレットを単なる音域拡張のための場所としてではなく、音色の新しい土地として眺めるようになっている。同じ音に見えても、その土地が変われば空気も光も違う。ギターという楽器の面白さは、まさにその豊かな地理にあるのだろう。フローニンゲン:2026/6/3(水)09:05


Today’s Letter 

Everything emerges from countless intertwined relationships. The sound of a classical guitar is no exception, and neither is our ego. Groningen, 6/3/2026

 

 
 
 

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