【フローニンゲンからの便り】18803-18808:2026年6月4日(木)
- 20 時間前
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タイトル一覧
18803 | 自分以外の全存在への感謝の念/エディンバラでの新居の仮押さえを終えて |
18804 | 今朝方の夢 |
18805 | 今朝方の夢の振り返り |
18806 | 小さな演奏宇宙を育てるスケールの中での技術練習 |
18807 | ハートマスの心拍変動・フーリエ変換・チャクラ理論 |
18808 | サイケデリクスによる意識拡張体験とガイア意識との関係 |
18803. 自分以外の全存在への感謝の念/エディンバラでの新居の仮押さえを終えて
昨夜ふと、自分という存在は自分以外の全ての存在の否定形で定義されることを思い出し、自分以外の全存在へ感謝の念を持った。そもそもこの発想は、仏教の否定の論理からもたらされたものである。例えば、リンゴは「リンゴでないものではない」という形で定義される。自己存在もまた同じである。他の存在との動的な関係性の中で立ち現れる自己。そうしたことを考えた時に、他の全存在への感謝の念が吹き上がったのである。
昨日は一つ嬉しいことがあった。長らく探していたエディンバラの住居について、無事に新居の仮押さえが完了したのである。17年前に大阪で国際税務コンサルタントとして働き始めた頃の自分が、このような形で再び学生となり、エディンバラへの移住準備を進めている姿を想像できただろうか。最初に物件を見つけた時は、本当にこの部屋に入居できるのだろうかという不安もあった。海外からの申し込みであり、しかも入居予定日は9月である。一般的な賃貸契約であれば、これほど先の日程で部屋を確保することは簡単ではない。実際、担当者からも、本来はそこまで先の日程で予約を受け付けていないという話があった。しかし彼は「今回は例外として対応する」と伝えてくれたのである。その一言には思いのほか安心させられた。TENANCY RESERVATION AGREEMENTを読み込み、Council Taxの扱いも確認した。フルタイムの大学院生はCouncil Taxが免除されること、大学側の特別な署名なども不要であることが分かった。英国の賃貸契約は初めてなので、一つひとつが未知の領域である。オランダに来た当初、BSNや銀行口座の開設に戸惑ったことを思い出す。人生の新しい章が始まる時には、いつもこうした小さな不確実性が付きまとう。契約書への署名を終え、RentCafeでの申請も完了した。その途中で家賃表示が予約書の金額と異なって見えたり、move-in dateの扱いが少し特殊だったりと、細かな確認事項はいくつかあった。しかし大きな問題にはならず、結果として申請は無事に受理された。面白いことに、今回の一連の手続きは単なる部屋探し以上の意味を持っているように感じられる。住居とは、人生の次の舞台を支える器である。研究も、執筆も、読書も、夢の記録も、日々の自炊も、まずは安心して帰れる場所があってこそ成り立つ。新居を仮押さえできたことで、ようやくエディンバラでの生活が抽象的な計画ではなく、少しずつ具体的な現実として輪郭を帯び始めた。振り返ってみると、オランダへの移住もそうだった。最初は地図上の一点に過ぎなかったフローニンゲンが、いつしか10年間を過ごす第二の故郷になった。そして今、そのフローニンゲンを離れ、エディンバラという新しい土地へ向かおうとしている。終わりと始まりは、やはり一つの連続した流れの中にあるのだろう。まだ正式契約は残っているし、Let Allianceの審査もこれからである。しかし昨日という日は、エディンバラへの橋の最初の一枚が確かに架けられた日として記憶に残りそうである。気がつけば、未来は突然訪れるのではなく、一通のメール、一枚の契約書、一つの署名の積み重ねによって静かに形作られていくのだろう。フローニンゲン:2026/6/4(木)06:00
18804. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、小中高時代のある友人(SN)と会話をしていた。彼は文系で教育学部に進学して教師になったのだが、そんな彼がなんと、日本の国立と私立の名門校の医学部と理工学部を片っ端から受験する計画を立てていることに驚いた。最難関の東大理IIIを含め、彼が列挙する大学は全て最難関で、再受験することに関して自分は彼を応援していたが、幾分心配になる受験校だった。彼はどうやらすでに過去問を一通り解いたようで、その中でも東京科学大学(旧東工大)の数学の問題が一番難しかったと述べた。数学が得意で、かつて進学塾で数学の講師をしていた自分も東京科学大学の数学の問題は難しいと感じるということを彼に伝えた。彼の受験に対する決意は固く、その点はとても頼もしく思え、こちらの助言はさほど必要ないように思えた。
もう一つ覚えているのは、見慣れない旅館の一室で、2人ほどの友人と一緒に、後ほど行われるセミナーに向けてPPT資料を作っていた場面である。すでに資料のドラフトは完成しているが、細かなところを修正する必要があった。自分は悠長に構えていて、実は意外とすぐにセミナーがあることにようやく気づき、そこからギアを入れ替えて修正をしていったが、細かなフォントの修正が思いのほか面倒臭く、もうそのままの状態でいいように思えた。そこに労力を割くぐらいなら、気持ちを整えて発表に向かったほうがいいように思えたのである。実際のところ、聴衆はフォントなどの細かなところよりも、自分の話を聞きにきているのだから、PPTはあくまでも話をするためのきっかけ程度にし、持ち前の即興力で場を巻き込みながら楽しく充実した場にするようにしようと考えを切り替えた。フローニンゲン:2026/6/4(木)06:16
18805. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の内側で進行している「再受験」と「本番前の調整」という二つの局面を映しているように思われる。SNという小中高時代の友人は、過去の時間軸から現れたもう一人の自分、すなわち、いったん教育や文系的世界に進んだ後で、まったく異なる最難関領域へ飛び込もうとする内的分身として現れているのかもしれない。彼が教育学部から教師になり、そこから医学部や理工学部を片っ端から受験しようとする姿は、既存の専門性を捨てるというより、そこに別種の知的骨格を加えようとする衝動を象徴しているようである。これは、自分が唯識、成人発達理論、意識研究を横断しながら、さらに学術制度の中へ再び入ろうとしている現在の姿と重なっている可能性がある。とりわけ東大理IIIや東京科学大学の数学という最難関の象徴は、自分の前に立ちはだかる「知的山脈」のようなものだと思われる。そこには、単なる学歴や受験の意味を超えて、厳密性、論理性、形式的訓練、そして逃げ道のない思考力への畏れが凝縮されているのだろう。数学が得意で、かつて数学を教えていた自分でさえ東京科学大学の数学を難しいと感じると伝える場面には、自分の強みをもってしてもなお、これから向かう領域には油断できない険しさがあるという認識が表れているように思われる。山登りに慣れた者が、目の前の岩壁を見て初めて無言になるような感覚である。しかし、SNの決意が固く、こちらの助言がさほど必要ないように感じられた点は重要である。これは、自分の中にすでに自律的に前進していく部分が育っていることを示しているのかもしれない。かつてなら不安をなだめ、計画を細かく点検し、外側から励ます必要があった内的存在が、今は自分で過去問を解き、自分で難度を測り、自分で進路を選び始めている。つまり夢は、自分の中の挑戦者が、もはや保護されるべき未熟な存在ではなく、遠征の準備を終えた登山者になりつつあることを告げているようである。旅館の一室でPPT資料を修正している場面は、知的挑戦とは別の、実践者としての自分を映しているように思われる。旅館は日常の仕事場でも完全な公的空間でもない、中間的な滞在場所である。そこは移行期の宿であり、古い生活から新しい舞台へ向かう途中の控室のようである。すでに資料のドラフトは完成しているが、細部の修正が残っているという状況は、自分の人生計画や研究構想、発表能力が大枠では整っているものの、細部へのこだわりが最後の足かせになりうることを示しているのだろう。フォント修正が面倒になり、その労力を発表前の心の調整に回したほうがよいと考える場面は、かなり成熟した判断を象徴しているようである。これは、器を磨くことと、中身を燃やすことの区別である。PPTは皿であり、話そのものが料理であるならば、皿の縁の模様を整えることに気を取られ、料理が冷めてしまっては本末転倒である。自分はこの夢の中で、完璧な資料によって場を支配するのではなく、即興力によって場を生かす方向へ舵を切っている。そこには、準備された知性から、生きた知性への移行があるように思われる。二つの場面を重ねるなら、この夢は「難関に挑む準備」と「本番で生きる覚悟」の統合を示しているのではないかと思われる。SNは、過去問を解き、最難関を見据える計画的な自分である。一方、旅館の自分は、細部の修正を切り上げ、聴衆との生きた関係に飛び込む即興的な自分である。前者は山へ向かう地図を読む自分であり、後者は地図を畳んで実際の風を読む自分である。どちらか一方だけでは足りない。地図なき即興は漂流になり、即興なき地図は硬直になるからである。人生における意味として、この夢は、自分がいま、再び大きな知的試験場へ向かいながらも、最終的に問われるのは資料や肩書きの完全性ではなく、その場で人を巻き込み、知を生きたものとして立ち上げる力であると告げているように思われる。自分の道は、難問を解く受験生の道であると同時に、場を温める語り手の道でもあるのだろう。フローニンゲン:2026/6/4(木)07:30
18806. 小さな演奏宇宙を育てるスケールの中での技術練習
ここ最近、練習に対する見方が少し変わってきた。これまでは左手の指の独立、セーハ、コード、スラーといった技術を、それぞれ別の課題として切り分けて練習していた。もちろんそれは必要なことだったし、実際に多くの効果もあった。しかしあるとき、スケールを弾いている最中にふと気づいたのである。これらの技術は本来、別々の島ではなく、一つの大陸の異なる地域なのではないかと。例えばスケールを丁寧に観察すると、そこにはすでに指の独立性が求められている。薬指を押さえている間に小指だけを動かしたり、人差し指を安定させながら他の指を展開したりする場面が無数に現れる。よく考えれば、独立性の練習とはスケール演奏そのものの中に埋め込まれていたのである。セーハについても同じである。ポジション移動を伴うスケールでは、部分セーハや一時的な指の保持が頻繁に現れる。コードもまた同様で、複数の音を同時に支える感覚はスケールの運指の中にも潜んでいる。そしてスラーに至っては、スケール練習と極めて相性が良い。上行や下行の流れの中でハンマリングやプリングを組み込むことで、音楽的な文脈の中で自然に訓練できる。この気づきによって、練習の風景が少し変わったように思う。以前は、まるで筋トレジムで部位ごとに鍛えているような感覚だった。しかし最近は、スポーツの実戦練習に近い感覚になってきている。サッカー選手が試合から切り離された状態で走るだけではなく、ボールを使った練習の中で走力や判断力を鍛えるように、自分もスケールという音楽的文脈の中で複数の能力を同時に育てられることに気づいたのである。特に面白いのは、脳の学習効率かもしれない。実際の演奏では、独立性だけが必要な瞬間も、スラーだけが必要な瞬間もほとんど存在しない。常に複数の技術が同時に働いている。その意味で、スケールの中で技術を練習することは、本番に近い神経回路を育てることなのだろう。これはどこかダイナミックスキル理論にも似ているように思う。一つのスキルは単独で存在しているのではなく、他のスキルとの関係の中で組織化される。独立性、セーハ、コード、スラーという個別技術も、それぞれ孤立した能力ではなく、演奏という大きなシステムの中で相互連結されているのである。最近、即興演奏を続ける中で感じていることとも重なる。音楽は部品の集合ではなく、有機体に近い。心臓だけを鍛えても人は走れないし、脚だけを鍛えても踊れない。同じように、ギターの技術も最終的には一つの流れの中で統合されなければならない。そう考えると、スケール練習は単なる音階練習ではないのだろう。それは演奏技術の生態系のようなものであり、その中で個々の能力が互いに影響を与えながら成長していく場なのである。最近はスケールを弾くたびに、一つの技術を鍛えているというより、小さな演奏宇宙そのものを育てているような感覚を覚えるのである。フローニンゲン:2026/6/4(木)08:33
18807. ハートマスの心拍変動・フーリエ変換・チャクラ理論
昨日、ハートマスについて考えているうちに、ふとフーリエ変換やチャクラの概念との間に面白い共通点があるように感じた。もちろん科学的に言えば、ハートマスの心拍変動、フーリエ変換、チャクラ理論はまったく異なる領域に属している。ハートマスは心理生理学、フーリエ変換は数学、チャクラはインドの精神修養体系である。しかし、自分の中ではこれらが一つの比喩的な風景として重なって見えたのである。例えば、心拍変動のデータを眺めると、それは単なる数字の羅列ではなく、一種のリズムである。そのリズムをフーリエ変換にかけると、複雑な波の中にどのような周波数成分が含まれているのかを分析できる。まるでオーケストラの演奏を分解して、どの楽器がどのように響いているのかを明らかにする作業のようである。すると興味深いことに、自分たちの心もまた似た構造を持っているのではないかと思えてくる。表面的には不安、期待、喜び、焦りなど様々な感情が入り混じっている。しかし、その背後にはもっと深い周波数のようなものが流れているのかもしれない。チャクラ理論では、人間には複数のエネルギーセンターが存在すると考える。もしこれを象徴的に解釈するなら、それぞれのチャクラは異なる周波数帯域を担当する共鳴器のようなものだと言えるかもしれない。第一チャクラは生存と安定、第四チャクラは愛情と共感、第六チャクラは洞察と直観といった具合である。この視点から見ると、ハートマスが語る「コヒーレンス」とは、単に心拍が整うことではなく、オーケストラ全体が調律される状態に似ているように思える。各楽器は異なる音を出しているにもかかわらず、全体としては一つの美しいハーモニーを形成する。チャクラが比喩的な楽器群だとすれば、心臓はその指揮者なのかもしれない。さらに考えてみると、フーリエ変換は複雑な波を単純な波の重ね合わせとして理解する方法である。人生もまた同じなのではないだろうか。日々の悩みや葛藤は一見すると混沌としている。しかし注意深く観察すると、その奥には「成長したい」「理解したい」「愛したい」「貢献したい」といった比較的単純な動機が重なり合って存在している。その意味では、内省とは心のフーリエ変換のような作業なのかもしれない。そして唯識の観点から見れば、これらの周波数そのものもまた固定的な実体ではない。阿頼耶識に蓄積された種子が縁によって現れ、一時的な波として立ち上がっているにすぎない。海面に現れる波を分析することはできても、波そのものが独立した存在ではないように、自分の感情や思考もまた広大な心の海の一時的な揺らぎなのであろう。そんなことを考えていると、心とは巨大な交響曲のようなものに思えてくる。フーリエ変換はその楽譜を読み解く数学であり、ハートマスは演奏の調和状態を測る技術であり、チャクラは古代人が感じ取った共鳴の地図なのかもしれない。そして人生とは、その交響曲を少しずつ調律しながら、自分だけの響きを深めていく長い演奏なのであろう。フローニンゲン:2026/6/4(木)08:46
18808. サイケデリクスによる意識拡張体験とガイア意識との関係
昨日は、サイケデリクスによる意識拡張体験とガイア意識との関係について考えていた。サイケデリクス体験を報告する人々の語りには、不思議な共通点があるように思える。それは、自分という境界が薄れ、自分が自然や宇宙全体と深く結びついていると感じる体験である。森の木々や風の音、空や大地が単なる外部環境ではなく、自分自身の延長のように感じられるというのである。この感覚を聞くたびに、ガイア意識という考え方を連想する。ガイア理論そのものは、もともとジェームズ・ラブロックによって提唱された地球システム科学の仮説であり、地球全体を自己調整的なシステムとして理解するものであった。しかし後には、地球全体を一つの生命体として感じる精神的・哲学的な解釈も生まれていった。サイケデリクス体験者が語る「自分は森だった」「地球そのものになったようだった」という感覚は、まさにそのようなガイア的直観と重なっているように見える。もっとも、ここで慎重であるべきなのは、その体験が直ちに宇宙の客観的真理を証明するわけではないということである。サイケデリクスは脳や意識の働きを大きく変化させる。その結果として生じる一体感が、宇宙の本質を直接見ているのか、それとも認知の構造変化によって生じた現象なのかは、依然として開かれた問いである。しかし興味深いのは、その真偽をひとまず脇に置いたとしても、多くの人が体験後に自然との関係性を見直し、環境保護への関心を高めたり、他者への共感を深めたりすることである。まるで自分という島が孤立した存在ではなく、大陸の一部であったことを思い出したかのようである。唯識の観点から見ると、この現象はさらに興味深い。通常の自分たちは、第七末那識による自己執着によって、「自分」と「世界」を厳格に分けている。しかしサイケデリクス体験では、この境界を支える認知的構造が一時的に緩む可能性が指摘されている。その結果として、主体と客体を隔てていた壁が薄くなり、より広い相互依存のネットワークが直接的に感じられるのかもしれない。その意味では、ガイア意識とは必ずしも「地球が文字通り一つの巨大な心を持っている」という主張である必要はないように思える。むしろ、普段は見えなくなっている相互依存性への深い感受性を指しているのかもしれない。一本の木が土壌や菌類や雨や太陽なしには存在できないように、自分もまた無数の生命や文化や歴史の網の目の中で生かされている。その事実を知識としてではなく、身体感覚として経験することがガイア意識の核心なのではないだろうか。そんなことを考えていると、普段の意識は懐中電灯の光に似ているように思えてくる。狭い範囲を鮮明に照らす代わりに、周囲の広大な風景を見失う。一方でサイケデリクスによる意識拡張体験は、懐中電灯を手放して丘の上から夜明けの平野を眺めるようなものなのかもしれない。細部は曖昧になるが、それまで別々だと思っていた川や森や町が、一つの大きな地形としてつながっていることが見えてくるのである。その体験が宇宙の究極的真理を示しているのかどうかは分からない。しかし少なくとも、自分という存在が世界から切り離された孤独な点ではなく、より大きな生命の織物の一部であることを感じさせる。その感覚こそが、多くの人々をガイア意識へと導いているのかもしれない。フローニンゲン:2026/6/4(木)08:58
Today’s Letter
I cannot exist in isolation from other beings, because my existence is woven together with what is not me. For this reason, I respect all beings other than myself. Groningen, 6/4/2026

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