【フローニンゲンからの便り】18790-18796:2026年6月2日(火)
- 2 日前
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タイトル一覧
18790 | エディンバラ大学へ提出する修士論文の執筆を始めて |
18791 | 今朝方の夢 |
18792 | 今朝方の夢の振り返り |
18793 | 夢の現象学的体験に関する興味深い気づき |
18794 | 唯識とサイケデリック研究が合流する地点へ向かって |
18795 | 長調・短調・教会旋法 |
18796 | プレシーズンを迎えての新たな感覚 |
18790. エディンバラ大学へ提出する修士論文の執筆を始めて
昨日から本格的にエディンバラ大学へ提出する修士論文の執筆を始めることにした。テーマは良遍の『法相二巻鈔』である。これまで何度も関連文献を読み、研究計画について考えてきたが、いよいよ実際に文章として形にしていく段階に入ったのだと思うと、不思議な高揚感と緊張感が同時に湧いてくる。論文について改めて考えていて気づいたのは、註釈研究とは単に原典の意味を解説する作業ではないということである。最初はどうしても「良遍は何を言っているのか」「良遍は『成唯識論』をどう理解したのか」という問いに意識が向かう。しかし、それだけでは註釈書を説明書として扱っているに過ぎないのかもしれない。むしろ重要なのは、「なぜ良遍はその箇所を説明したのか」という問いであるように思えてきた。註釈書はしばしば古い建物の修復作業に例えられる。しかし実際には、註釈者は単なる修復家ではない。古い建物の素材を用いながら、新しい時代の人々が住める空間を再設計する建築家でもある。良遍もまた、世親や護法や窺基の思想をそのまま保存しようとしたのではなく、鎌倉時代という新しい時代の知的要求に応答しながら再構成していた可能性がある。そう考えると、『法相二巻鈔』を読む視線も変わってくる。ある箇所を詳しく説明していることだけではなく、なぜそこに注目したのか、逆に何を説明しなかったのかが気になり始める。百の論点がある中で十だけを選んで論じたのであれば、その選択自体が思想の表明であるとも言えるだろう。さらに興味深いのは、良遍を単なる保守的な法相宗の学僧として見るのではなく、一人の創造的な思想家として見る可能性である。法然や親鸞や道元のような人物は革新的な宗教者として語られることが多い。しかし、註釈という静かな形式の中にも別種の革新性が潜んでいるのではないだろうか。表面上は古典を説明しているようでいて、その実、新しい時代に向けた思想的な橋を架けているのである。修士論文を書きながら追究したいのは、「良遍は何を理解したか」という問いだけではない。「なぜ鎌倉時代において改めて『成唯識論』を読み直す必要があったのか」という問いである。その問いは、一人の学僧の思想を超えて、中世日本仏教が抱えていた知的課題そのものへつながっていくように思える。昨日から始まった論文執筆は、単に一冊の註釈書を分析する作業ではないのかもしれない。むしろ、自分自身が良遍の思考の足跡を辿りながら、中世の知的風景の中を歩いていく旅の始まりであるように感じている。フローニンゲン:2026/6/2(火)06:22
18791. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、米メジャーリーグのトップチームの練習に参加していた。自分は近々ピッチャーとして試合に登板することになっており、練習でまず自分の現状の力を確認しておくことになった。ピッチャーボックスに立つと、その横に高校時代のある友人(HH)がいた。彼は自分の傍で親身に助言をしてくれることになった。いざ上から振りかぶって一球目を投げると、ボールが全く飛ばず、途中でポトンと落ちた。「肩が鈍ってしまっているのかなぁ」と思って、少し肩回しをして再度投げたところ、またしてもキャッチャーのところまで届かずに途中で落ちた。一体どうしたのだろうと思い、彼に助言を求めたところ、彼が手本を見せてくれることになった。しかし、自分もイメージとしては彼と同じように投げているのでどうも不可解だと思った。そこからはピッチャーボックスをもっと前に持ってきて引き続きボールを投げたが、結果は同じで、それであればもうソフトボールのように下から投げようと思った。すると、下から投げたらうまくボールを投げることができた。そこでふと、そう言えば自分は数年前に、ジムで筋トレをしていた際に右腕の筋を痛めてしまい、可動域が狭まってしまっていることに気づいたのである。おそらくそれが原因だと思った。
次の夢の場面も最初の場面とある意味連続していた。今度は、女子ソフトボールチームの練習の手伝いをしており、そこでもピッチャーとして練習に参加していた。ソフトボールのピッチャーのように下からボールを投げると、確かにキャッチャーのところまでは届くが、左右のズレが大きかった。幸いにもバッターにボールをぶつけることはなく、むしろバッターとは逆の方向にボールがずれていた。そのずれを修正するために、キャッチャーの選手から助言を受け、彼女のいう通りに投げてみたところ、それでもまだ普段の投球ができなかった。ストライクボールを投げるのがここまで難しかったのかと思った時に、小学校時代の地域のソフトボール大会のことを思い出した。その時チームメイトだった友人のピッチャーは、常にストライクボールを投げることができたので、改めて彼の凄さを思った。すると当時野球チームに所属していた同学年の友人たちが、見事なバッティングで次々に相手のボールを打ち返している勇士が脳裏によぎった。フローニンゲン:2026/6/2(火)06:37
18792. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分がこれまで培ってきた力を、より高い舞台で試そうとする局面を象徴しているのかもしれない。米メジャーリーグのトップチームという場は、単なる野球の舞台ではなく、自分が現在見上げている知的・実践的な最高水準の世界を表しているように思われる。そこにピッチャーとして登板するということは、自分が観客や補助者ではなく、いよいよ中心的な役割を担って何かを投げ出す、つまり思想・表現・仕事・研究成果を世に向けて放つ段階に近づいていることを示しているのではないだろうか。しかし、最初の投球はキャッチャーまで届かず、途中でポトンと落ちる。これは、自分の内側では十分にイメージできているのに、実際に外界へ出力しようとすると、思ったような飛距離が出ない感覚を象徴しているのかもしれない。頭の中では大リーガーのように投げている。しかし、身体はそのイメージに追いつかない。夢はここで、理想像と現在の実行可能性のあいだにある微細な断層を見せているようである。磨き上げられた弓を持っているのに、弦の一部がかすかに緩んでいるため、矢が思ったほど遠くへ飛ばないような状態である。高校時代の友人HHが傍にいることも重要である。彼は、現在の自分に対して過去の自分を橋渡しする存在なのかもしれない。高校時代とは、身体能力、仲間意識、競争心、素朴な自己信頼がまだ一体となっていた時期であろう。その友人が親身に助言してくれるということは、自分の中にかつての自然な身体感覚や実践的な勘がまだ残っており、それが今の自分を支えようとしていることを示しているのではないだろうか。ただし、彼の手本を見ても、自分には同じように投げているつもりである。ここには、外から見える技術と内側で感じる技術とのズレがある。学びとは、しばしば見えている型を模倣することではなく、自分の身体の制約に合わせて型を作り替えることなのだろう。その後、ピッチャーボックスを前に持ってきても結果が変わらない。これは、環境や条件を調整するだけでは根本的な問題が解決しないことを示しているように思われる。距離を縮めても届かないということは、課題は外的な難易度ではなく、投げ方そのもの、さらには身体に刻まれた履歴にあるのかもしれない。そして、ソフトボールのように下から投げた時に初めてうまく届く。ここで夢は、自分にとって必要なのは力任せの上投げではなく、別様のフォームへの転換であると告げているようである。真正面から剛速球を投げるのではなく、地面に近いところから弧を描いて届かせる投げ方である。それは、直線的な突破から、曲線的な適応への移行である。右腕の筋を痛め、可動域が狭まっているという気づきは、この夢の核心であろう。過去の負傷は、単なる身体的記憶ではなく、人生のどこかで生じた見えない制約を表しているのかもしれない。自分は十分にできるはずだと思っているが、どこかの時点で無理をした経験、過剰に鍛えようとした経験、あるいは成果を急いだ経験が、現在の表現の可動域を狭めている可能性がある。夢は、失敗の原因を能力不足としてではなく、過去に形成された身体化された条件として理解させようとしているようである。第二の場面で女子ソフトボールチームの練習を手伝うことは、舞台が競争的なトップリーグから、より共同的で支援的な場へ移ったことを示しているのかもしれない。ここでは自分はスター選手ではなく、練習を支える参加者である。下から投げれば届くが、左右にずれる。つまり、方向性の調整が次の課題になっているのであろう。届かせることはできるようになったが、狙った中心に収める精度はまだ十分ではない。これは、発信力そのものよりも、誰に、どの角度で、どの強さで届けるかという繊細な調律の問題を表しているように思われる。キャッチャーの女性から助言を受ける場面は、受け手の視点を取り入れる必要を象徴しているのではないだろうか。ピッチャーは投げる者であるが、キャッチャーは受け止める者である。自分の表現や仕事も、投げる側の意図だけでは完成せず、受け取る側の身体感覚によって整えられていく。小学校時代の友人が常にストライクを投げていた記憶、野球チームの友人たちが見事に打ち返す姿は、幼少期に見ていた純粋な技量への敬意を呼び覚ましているのだろう。自分は今、かつて当たり前のように見ていた基礎の凄さを、遅れて理解しているのかもしれない。人生における意味として、この夢は、自分がより大きな舞台に向かう時期にある一方で、過去の負荷によって狭まった可動域を無視せず、自分に合った投げ方を再発見する必要があることを示しているように思われる。力強く遠くへ投げることだけが成熟ではない。時には、下から柔らかく投げ、相手のミットに届く軌道を探すことが、自分の次の成長なのである。フローニンゲン:2026/6/2(火)07:33
18793. 夢の現象学的体験に関する興味深い気づき
昨夜ふと興味深いことに気づいた。夢について考えているうちに、夢の中に登場人物として存在していることと、夢の情景をただ目撃していることは、現象学的にはかなり異なる体験なのではないかと思ったのである。普段、自分は夢の中で自然に「自分」という存在になっている。夢の中の自分は歩き、話し、驚き、逃げ、何かを選択する。その時の意識は物語の主人公に近い。視点は身体の内側にあり、世界はその身体を中心に展開している。夢の出来事は「自分に起きていること」として経験される。そこには明確な関与があり、喜びや不安もまた自分の感情として生じる。しかし時折、夢の中で自分が登場人物ではなく、ただ情景を見ているだけのことがある。まるで映画館の観客のように、あるいは空に浮かぶ雲のように、出来事を眺めているだけである。その場合、夢の世界は存在しているが、その世界の中心に自分はいない。そこには風景があり、人々がいて、物語が進行しているが、それらは自分の経験というよりも、目の前で展開する現象として現れる。現象学的に考えると、この違いは「主体としての自我」と「純粋な気づき」の違いに近いのかもしれない。夢の登場人物になっている時、自分は夢の中の主体として機能している。自分は見る者であると同時に行為者でもある。しかし夢の情景を目撃しているだけの時、自分は行為者ではなく、むしろ出来事が立ち現れる場そのものに近づいているように思える。この違いを比喩的に表現するなら、前者は舞台の上で演技している俳優であり、後者は客席で舞台を見ている観客である。しかしさらに考えてみると、後者は観客ですらないかもしれない。観客にはまだ「見ている自分」がいる。夢の情景をただ眺めている状態では、その観客の輪郭すら曖昧になり、ただ光景だけが広がっていることがある。唯識の観点から見ると、前者では末那識による自己執着が比較的強く働いているのかもしれない。夢の中で「これは自分だ」と感じながら物語に参加しているからである。一方で後者では、その自己中心的な構造が一時的に弱まり、阿頼耶識から展開する表象世界そのものが前景化しているようにも見える。また、近年関心を持っている現象学や意識研究の視点から考えると、前者は「自己が世界を経験している状態」であり、後者は「経験そのものが現れている状態」に近いのかもしれない。主体と対象の区別が比較的明確な状態と、その区別が薄れ始めた状態と言い換えることもできそうである。夢を思い返していると、これまで夢の内容ばかりに注目していたことに気づく。しかし本当に興味深いのは、何を見たかだけではなく、「どのような立場から見ていたのか」という意識の構造そのものなのかもしれない。夢の中の登場人物として生きることと、夢そのものを目撃すること。その違いは、目覚めた後の人生においても、「世界の中の自分」として生きるのか、それとも「世界が立ち現れる場」として自分を捉えるのかという根源的な問いへつながっているような気がした。フローニンゲン:2026/6/2(火)08:25
18794. 唯識とサイケデリック研究が合流する地点へ向かって
昨日ふとした瞬間に、自分の中に一つの長い糸のようなものが通っていることに気づいた。その糸は、唯識の研究とサイケデリック体験への関心を別々のものとしてではなく、一つの探究として結びつけているように感じられた。考えてみれば、自分はこれまで唯識思想を通して、人間がどのように世界を認識しているのかを探究してきた。外界がどのように存在しているのかという問い以上に、自分たちがどのような構造を通して世界を経験しているのかという問いに惹かれてきたのである。阿頼耶識、種子、薫習、遍計所執性、依他起性といった概念は、単なる古代インドの哲学的思弁ではなく、人間の経験そのものを解剖するための精緻な地図のように思える。その一方で、サイケデリック研究もまた、まったく別の方向から同じ山を登ろうとしているように見える。シロシビンやLSDなどによって報告される体験の多くは、自己と世界の境界が曖昧になったり、時間感覚が変容したり、存在全体との深い一体感を感じたりするものである。それは単なる幻覚として片づけるにはあまりにも体系的であり、しばしば人生観そのものを変えるほどの力を持つ。ここで興味深いのは、唯識が二千年近く前から取り組んできた課題が、現代のサイケデリック科学の最前線で再び問われているように見えることである。もし遍計所執性が主客二元的な認識の習慣的構成を指すのであれば、サイケデリック体験においてしばしば報告される自他の境界の希薄化は、その構成が一時的に緩む現象として理解できるかもしれない。もし阿頼耶識に蓄積された種子が知覚や解釈のパターンを形成しているのであれば、サイケデリック体験中に生じる認識の再編成は、ある種の薫習過程として捉えられる可能性もある。もちろん、唯識とサイケデリック体験を単純に同一視することはできない。唯識における悟りは長期的な修行と智慧による変容であり、薬理学的作用による変性意識状態とは本質的に異なる側面もある。しかし、それでも両者が共通して問いかけているものがあるように思える。それは「人間は普段、自分が思っているほど現実を直接見てはいないのではないか」という問いである。自分にとって、この研究は単なる学術的関心ではないのかもしれない。むしろ、人間の意識がどこまで拡張しうるのか、その可能性を探る旅のようなものである。唯識は内省と瞑想によってその旅を進めてきた。現代科学は脳科学やサイケデリック研究によって同じ地平を別の角度から照らし始めている。もしかすると自分の役割は、この二つの川が合流する地点を探すことなのかもしれない。古代仏教哲学の深い洞察と現代意識科学の実証的知見を結びつけ、人間の認識とは何か、自己とは何か、そして変容とは何かを改めて問い直すことである。その探究は、まるで長い地下水脈を辿る作業に似ている。地表では別々の川に見えるものが、深いところではすでに同じ水源から流れ出しているかもしれないのである。フローニンゲン:2026/6/2(火)08:34
18795. 長調・短調・教会旋法
昨日、教会旋法について改めて考えていたとき、一つの気づきがあった。それは、ドリアン、フリジアン、リディアン、ミクソリディアンといった教会旋法は、それぞれ独特の響きを持ちながらも、その骨格をよく見れば長調や短調と非常によく似た構造を持っているということである。もちろん、理論的にはそれぞれ異なる旋法である。リディアンには増四度があり、ミクソリディアンには短七度があり、ドリアンには長六度がある。しかし、それらの特徴的な音は、広大な建築物の中の一つの窓や柱のようなものであり、建物全体の土台そのものを作っているわけではないように思える。改めて眺めてみると、教会旋法は長調と短調という二本の大樹から伸びた枝葉のような存在にも見えてくる。アイオニアンはそのまま長調であり、エオリアンはそのまま自然的短音階である。そしてドリアンは短調に少し光が差し込んだ風景であり、ミクソリディアンは長調の緊張感を少し和らげた風景である。完全に別の世界というよりも、同じ大地の上に存在する異なる気候帯のようなものである。そう考えると、今の自分に必要なのは、新しい旋法を次々と学ぶことではなく、まず長調と短調を身体の深いところまで染み込ませることなのかもしれない。長調と短調は音楽理論の出発点であるだけでなく、西洋音楽全体を支える重力のような存在である。その重力を十分に感じ取れるようになれば、教会旋法の個性もまた自然と見えてくるはずである。これは語学学習にも少し似ている。外国語の難しい慣用表現ばかりを覚えようとしても、基礎的な文法や頻出語彙が曖昧であれば、結局は使いこなせない。むしろ基本構造が身体化されている人ほど、新しい表現を学んだときにその違いが鮮明に見えてくる。クラシックギターの練習でも同じことが言えるように思う。長調と短調のスケールを繰り返し弾くことは、一見すると単調な作業に見える。しかし実際には、そこには運指、ポジション移動、音色、リズム、フレージング、呼吸といった無数の学びが含まれている。それは単なる音階練習ではなく、音楽という言語の発音練習のようなものである。最近即興演奏を続けていることもあり、以前よりもこの感覚が強くなっている。即興とは自由に音を並べることではなく、むしろ深く身体化された秩序の上に生まれる自由なのだろう。大河が自由に流れているように見えても、その流れを支えているのは川底の地形である。長調と短調のスケールは、その川底にあたるものなのかもしれない。今は遠くの珍しい景色を求めるよりも、まず足元の大地をしっかり踏みしめたい。長調と短調という最も基本的な世界を深く探究することで、その先に広がる教会旋法や現代音楽の風景も、より立体的に見えてくるような気がしているのである。フローニンゲン:2026/6/2(火)09:00
18796. プレシーズンを迎えての新たな感覚
最近、自分の中に少し不思議な感覚が生まれている。それは、長い間会っていなかった旧友に再会する直前のような感覚である。その旧友とは、唯識の文献であり、修士論文の執筆そのものなのかもしれない。振り返れば、この数か月間は意図的に唯識研究から距離を置いてきた。もちろん完全に忘れていたわけではない。むしろ背景には常に存在していた。しかし、それを毎日の中心に据えることはせず、発達理論の執筆や音楽、仕事、将来の準備などに意識を向けてきた。その選択は一見すると遠回りのようにも見えるが、今になって振り返ると、とても意味のある時間だったように思える。以前、中竹竜二さんとの対話の中で出てきた「プレシーズン」という比喩が、今になってますますしっくりくる。プロスポーツ選手がシーズン開幕前に身体を整え、戦術を確認し、基礎体力を養うように、自分もまたエディンバラ大学での本格的な学びに向けた準備期間を過ごしていたのだろう。正式な修士課程がインシーズンだとすれば、6月から9月までは確かにプレシーズンであり、その前の期間はさらに前段階のオフシーズンであったように思える。興味深いのは、離れたからこそ見えてきたものがあることである。毎日同じ対象に向き合っていると、その価値や面白さが当たり前になってしまうことがある。しかし少し距離を取ることで、改めてその対象の魅力を感じられるようになる。まるで長い旅から帰宅したとき、自宅の空気の心地よさを再発見するようなものである。今、自分の中には唯識文献を読みたいという欲求が静かに高まっている。論文を書きたいという意欲も以前より鮮明になっている。その感覚は義務感とは少し異なる。むしろ空腹に近い感覚である。人は本当に空腹なとき、食事を楽しみにする。同じように、自分は今、文献を読むことそのものを楽しみにしているのである。おそらく研究にも季節があるのだろう。種を蒔く季節があり、耕す季節があり、収穫する季節がある。そして何もしていないように見える冬の季節にも、土の下では次の成長の準備が進んでいる。これまでの数か月は、その冬に近い時間だったのかもしれない。だからこそ、昨日から始まった修士論文の本格執筆は、単なる作業の開始ではないように感じられる。それは、眠っていた研究者としての自分が再び目を覚ます瞬間に近い。すでにある程度の原稿は存在しているが、これから目指すのは提出可能なレベルのドラフトである。その過程では、唯識の一次文献、先行研究、哲学的議論と再び深く向き合うことになるだろう。今の自分は、スタートラインに立ったランナーというよりも、ようやく海へ出る準備が整った船のような状態なのかもしれない。長いあいだ港で整備を続けてきた船体には十分な燃料があり、進むべき方角も見えている。そして何より、その航海そのものに対する飢えがある。この飢えこそが、これからの数か月を支える最も大切な追い風になるような気がしているのである。フローニンゲン:2026/6/2(火)09:14
Today’s Letter
Since yesterday, the pre-season of my academic journey has begun. I intentionally took a break from Yogācāra studies for a couple of months. Having returned to this field, I find myself with a renewed intellectual curiosity and a strong appetite for research. Groningen, 6/2/2026

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