【フローニンゲンからの便り】18638-18644:2026年5月7日(木)
- 14 分前
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タイトル一覧
18638 | ガーデニングへの関心 |
18639 | 今朝方の夢 |
18640 | 今朝方の夢の振り返り |
18641 | 職人気質と終わりなき洗練 |
18642 | ギターのオーケストラ化に向けた音を保つ技術 |
18643 | 知覚と統合の質 |
18644 | 汎心論と唯識 |
18638. ガーデニングへの関心
時刻は間も無く午前6時を迎えようとしている。今朝も午前5時起きてすぐに外に出て、薄明るくなった空全体からの光を浴びながらHIITを行った。確かにまだまだ寒さが残っているのだが、天気は良くなっているので、起床直後の日課として外の光を浴びて、体内時計にスイッチを入れる形でのHIITを行うようにしている。これによって睡眠の質がまた上がっている気がする。
最近、ビョンチョル・ハンの思想に触れ直してから、ガーデニングという営みが単なる趣味ではなく、時間や存在のあり方そのものに関わる行為であるように感じられてきた。効率や成果を過剰に求める現代社会の中で、土に触れ、植物の成長を待つという行為は、まるで急流の中に静かな淵を見出すようなものなのかもしれない。エディンバラ、そしてスコットランド全体には、そうした「待つ時間」を大切にする文化が根づいているように思われる。気候は決して穏やかとは言えず、風は強く、雨も多い。そのためガーデニングは、思い通りに植物をコントロールする営みというよりも、自然との対話に近いものとなるのだろう。土壌や気温、日照といった条件を受け入れながら、その中で何が育つのかを見極める姿勢は、どこか禅的な受容の態度にも通じているように感じられる。Royal Botanic Garden Edinburghのような場所を思い浮かべると、そこには単なる植物の展示を超えた、知と美の融合があるように思われる。植物は分類され、研究されながらも、その一つ一つが静かに呼吸している。その空間に身を置くことは、本を読むこととは異なる仕方で世界を読むことなのだろう。葉の形や色の変化、季節ごとの移ろいは、文字ではなく、時間そのものが綴るテクストのようである。また、スコットランドの庭園文化は、いわゆる整然としたフランス式庭園とは異なり、より自然の風景に寄り添う形で設計されている印象がある。人工的に自然を制御するのではなく、自然の流れを尊重しながら、わずかに手を加える。そのバランスは、まるで会話における沈黙のように、過剰に語らないことによって全体の調和を保っているようである。エディンバラでの生活が始まれば、図書館での思索と同時に、こうした庭や公園の中で過ごす時間も、自分の学びにとって重要な位置を占めるようになるのではないかと思う。書物が概念を磨く場であるとすれば、庭は感覚を調律する場である。前者が思考の輪郭を鋭くするならば、後者はその輪郭に柔らかな余白を与える。ガーデニングに関心を持つということは、単に植物を育てること以上に、自分の時間の使い方を問い直すことでもあるのだろう。成長を急がず、結果を過度に求めず、ただ日々の変化に注意を向ける。そのような態度は、これからの学びや生活全体にも静かに浸透していくように思われる。エディンバラの風の中で土に触れる自分の姿を想像すると、それは知を積み上げる学生であると同時に、時間と共に生きる一人の人間としての在り方を取り戻している姿でもあるのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/7(木)05:57
18639. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見知らぬアニメの善悪の最強キャラクターたちが最後の戦いを繰り広げている場面を目撃していた。彼らは人の姿をしていながら、姿形を自在に変えることができたり、能力にも個性があった。そんな彼らの最後の戦いを眺めていると、自然と戦いが終息し、最終的には善側が勝利を収めた。悪側を抹消することはなく、その場には悪側のキャラクターは生き残っていて、善悪のキャラクターの全てが最後は対面する形となった。そこで話し合いが行われ、最終的に悪側のキャラクターたちの表情が柔らかなものとなり、彼らは善側に歩み寄る形となった。善悪の戦いにおいてこうした光景は初めて見たものだったのだが、そこには善悪を超えた最終的な調和という弁証法的な現象を目の当たりにしたような感覚があった。
次に覚えているのは、中学校時代に通っていた個人塾の部屋にいる場面である。そこには同学年の生徒たちがいて、先生は分厚いカード帳を私たちに渡してくれた。そこには数学の公式や英単語など、暗記しておくべきものが暗記しやすいようにわかりやすくまとめてあり、まずは所定の英単語を覚えていくことになった。自分は英語が得意だったので、そこに書かれていることは最初からほとんど全て知っていた。すると見慣れない合宿所としての旅館の一室にいた。そこで小中高時代のある友人(YU)と少し会話をした。彼は先ほどの塾で配られた数学の問題集に取り掛かっていた。自分は特に何もすることはなかったが、単語帳を持って窓辺に行くと、窓の外に色とりどりの無数の風船が空に向かって飛んでいる光景を目の当たりにした。それがなんとも言えない美しさを持っていて、しばし恍惚的に眺めていた。すると気づけば実際に通っていた中学校の教室にいて、先生が作ったオリジナルの難問の問題を生徒全員が解いていた。試験時間も長く、100分ぐらいの長丁場で、最初の問題から順次解いていくことにしたが、自分の前に座っていた友人が後ろの席に座りたいと述べたので、席を一つ後ろにすることにしたら、さらに前に座っていた友人が同じことを述べ、結局二つ分後ろの席に移動した。この移動時間がロスとなったが、試験に関しては焦らずに問題を解いていけば大丈夫かと思った。すると突然、自分は実際に通っていた小学校の教室にいた。そこには小学校六年生の時にお世話になった担任の先生がいて、教室の中央には見たこともない大きさの電気ストーブがあった。授業が全て終わり下校時間になると、先生は私たちに水筒の残った飲み物をストーブの上にかけて下校するようにお願いをした。私はそこでふと、水筒に残っている飲み物をいくらかけようが、このストーブの火は消えず、温度も引き続き維持されるだろうと思った。フローニンゲン:2026/5/7(木)06:14
18640. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の内面世界において長らく対立していた複数の力が、ついに「排除」ではなく「統合」という形で再編成され始めていることを象徴しているのかもしれない。特に冒頭の善悪の最終戦争は、単純な勧善懲悪ではなく、自己内部の異質な衝動同士の止揚を描いているように見える。通常、夢の中の「悪」は抑圧されるべき衝動として滅ぼされる。しかしこの夢では、悪側は抹消されず、最後には柔和な表情へと変化していた。これは、自分が近年探究している唯識思想や発達理論の影響ともどこか共鳴しており、敵対していた側面を切断するのではなく、より大きな秩序の中へ包摂していく方向へ精神が成熟しつつあることを示しているのかもしれない。しかも彼らは自在に姿を変える存在であった。これは人格や価値観が固定的実体ではなく、状況に応じて変容する流動的構造であることを暗示しているように思える。まるで水面に映る月が波によって形を変えながらも月そのものを失わないように、自分の内部にも多様な役割や感情や欲望が存在しており、それらは本来、絶対的な善悪ではなく条件的な現れに過ぎないのだろう。その意味で最後の和解は、ヘーゲル的な弁証法というより、むしろ煩悩即菩提のような東洋的統合を感じさせる。その後に続く塾や学校の場面は、精神の「基礎構造」を点検する過程を象徴しているのかもしれない。英単語や数学公式をまとめた分厚いカード帳は、知識の圧縮された結晶であり、自分がこれまで積み上げてきた学習や訓練の蓄積を表しているように見える。そして英語について「最初からほとんど知っていた」という感覚は、現在の自分が、かつて努力して習得したものを既に身体化していることを意味しているのだろう。つまり夢は、「獲得しようとしていた知」が、既に自分の存在構造の一部になっていることを確認しているのである。一方で、旅館の窓から見えた無数の風船の光景は非常に象徴的である。風船とは、本来は地上に縛られていたものが空へと解放されるイメージを持つ。それも色とりどりで無数に存在していたという点から、自分の内部に眠っている可能性や未来の方向性が、一斉に浮上し始めていることを暗示しているのかもしれない。それは単なる成功欲求ではなく、もっと詩的で、存在そのものが軽やかに拡張していく感覚に近い。単語帳を持ちながらその光景を見ていたことも興味深い。知性という「整理された言葉」が、最後には説明不能な美へと接続されていく構造がそこにはあるように思える。最後の巨大な電気ストーブは、おそらく自分の根源的生命力や精神的中心を象徴しているのだろう。皆が残りの飲み物をかけても火が消えないという確信は、自分の内部に、外的環境では容易に損なわれない核のようなものが育ち始めていることを意味しているのかもしれない。人生の中では批判、不安、孤独、失敗といった「水」が幾度も注がれる。しかし、それでも消えない火があることを、自分はどこかで既に知り始めているのである。この夢全体が示している人生的意味とは、自分が今、「競争による勝利」の段階から、「統合による成熟」の段階へ移行し始めているということなのかもしれない。知識、感情、過去、善悪、努力、才能、それらを互いに戦わせ続けるのではなく、一つの大きな炉の中で静かに燃焼させ続けること。その火を守ることこそが、これからの人生における本当の課題なのであろう。フローニンゲン:2026/5/7(木)07:02
18641. 職人気質と終わりなき洗練
昨日ふと、日本人の職人気質とクラシックギターの練習とのあいだに、静かな共鳴関係があるのではないかと感じたのである。職人とは、単に技術を持つ者ではなく、同じ動作を何度も繰り返しながら、その中に微細な差異を見出し続ける存在である。木を削る者が、ほんのわずかな刃の角度の違いに心を澄ませるように、ギターに向かう自分もまた、同じ一音の中に無数の可能性を聴き取ろうとしているのかもしれない。クラシックギターの練習は、外から見れば単調な反復に見える。しかし実際には、その反復は決して同じではない。右手のタッチがわずかに変われば音色は変容し、左手の圧がほんの少しずれるだけで響きは曇る。こうした微細な差異に対して感覚を研ぎ澄ませていく過程は、まるで刀鍛冶が鋼の温度を見極めるようなものである。そこでは理論だけでは届かない領域に、身体そのものが入り込んでいく必要がある。日本人の職人気質の特徴の一つは、「完成」という概念を固定しない点にあるように思われる。一度できたものを終わりとせず、むしろそこからさらに改善の余地を探し続ける。その姿勢は、ゴールのない道を歩き続けるようなものであり、到達よりも過程そのものに価値を見出す在り方である。ギターの練習においても、ある曲が弾けるようになった瞬間が終点ではなく、そこからどれだけ音の質を深められるかという新たな問いが立ち上がる。興味深いのは、このような態度が単なるストイックさではなく、ある種の喜びと結びついている点である。単純な反復の中に、微細な進歩を見出すことができたとき、それは大きな達成とは異なる静かな満足をもたらす。まるで、水面に落ちる小さな波紋が広がっていくのを眺めるように、自分の中で何かが少しずつ整っていく感覚がある。また、職人気質には「道具との関係性」を深めるという側面もある。ギターという楽器は単なる道具ではなく、時間をかけて関係を築いていく対象である。弦の張り具合、木の響き、季節による微妙な変化に注意を向けることで、楽器は少しずつ自分の身体の延長のように感じられてくる。その関係性の深化は、単に技術を高めるだけでなく、演奏そのものの質を変えていくのだろう。こうして考えてみると、自分がギターに向かう時間は、単なるスキルの習得ではなく、一種の修行に近いものになっているのかもしれない。結果を急がず、同じことを繰り返しながら、その中にわずかな変化を見出し続ける。その過程で、自分の注意力や感受性そのものが磨かれていく。結局のところ、日本人の職人気質とクラシックギターの技術の涵養は、「終わりなき洗練」という一点で重なっているのだと思う。目に見える成果ではなく、見えにくい精度をどこまで高められるか。その問いに向き合い続ける姿勢こそが、自分の演奏を少しずつ深めていく原動力になっているのではないかと感じたのである。フローニンゲン:2026/5/7(木)07:39
18642. ギターのオーケストラ化に向けた音を保つ技術
ブランダン・エイカー氏の助言の核心は、「単旋律の楽器としてのギター」から「多声的な楽器としてのギター」へと知覚と身体の使い方が転換する瞬間にあると考えられる。最初の段階では、音は一本の線のように流れ、指はその線をなぞる筆のように機能する。しかしある地点から、音楽は一本の線ではなく、複数の流れが同時に存在する場へと変わる。低音は持続しながら時間の土台を支え、その上で旋律が語り、内声がその間を埋める。ここで演奏者は、一本の道を歩く旅人ではなく、複数の川の流れを同時に管理する水門の管理者のような役割を担うことになる。手が急に「言うことを聞かなくなる」感覚は、能力の不足ではなく、役割の増加に対して身体の組織化が追いついていない状態であると言える。従来は一つの仕事をしていた手が、突然「演奏する」「支える」「待機する」という複数の役割を同時に担う必要に迫られる。このとき、すべての指が同時に動こうとすると、音は不安定になり、緊張が生まれる。これは、全員が同時に話し始める会議のようなものであり、情報は多いが秩序が失われる状態である。ここで提示されている「指をすぐに離さない」という助言は、単なるテクニックではなく、役割の分離という構造的転換を促すものである。指が弦に触れたまま留まることは、その指が「すでに役割を終えた存在」として静止し、空間の安定を支える柱になることを意味する。その間に他の指や親指が動くことで、手の中に時間差と階層が生まれる。これは、すべての音が同時に発生するのではなく、「ある音は残り、ある音は進み、ある音は準備する」という多層的な時間構造を身体の中に作ることに他ならない。この状態は、音楽的にはポリフォニーの本質に直結する。ポリフォニーとは、複数の声部が独立しながら共存する構造であり、それは単に音符を同時に鳴らすことではなく、それぞれの声部が固有の時間を持つことを意味する。指を残すという行為は、その時間の独立性を身体的に実現する方法である。言い換えれば、音を出す技術から、音を「保つ」技術への移行である。最初はこの感覚が不自然に感じられるのは当然である。人は習慣的に、役割を終えたものをすぐに手放そうとする。しかしここでは、終わったものをあえて保持することで、全体の安定性が生まれる。これは建築において、すべての柱を一度に動かさず、一部を固定することで構造全体の強度を保つことに似ている。やがてこの方法が身体に浸透すると、緊張は減少し、制御は格段に向上する。なぜなら、各指が「いつ動くべきか」だけでなく、「いつ動かないべきか」を理解し始めるからである。この「動かない能力」こそが、多声的演奏における核心的スキルであると言える。最終的に示唆されているのは、ギターという楽器の本質的な開示である。単一の旋律を奏でる段階では、楽器はまだ平面的である。しかし、各声部が独立し、指がそれぞれ異なる時間軸を担い始めたとき、音楽は立体化する。それは一つの線ではなく、複数の線が織りなす織物のような構造となる。ギターはその瞬間、単なる旋律楽器ではなく、小さなオーケストラとして立ち現れるのである。フローニンゲン:2026/5/7(木)08:18
18643. 知覚と統合の質
18644. 汎心論と唯識
朝の静けさの中で、汎心論と唯識のことをぼんやりと考えていた。どちらも「心」を中心に据える点では共鳴しているように見えるが、その響き方は同じ楽器でも調律の異なる弦のように微妙に異なっている気がする。汎心論は、この世界のあらゆる存在に何らかの心的側面が宿っていると考える立場であり、石にも、水にも、微かながら内的な経験のようなものがあると捉える。そのイメージは、世界全体が無数の微小な灯火で満たされているようなものであり、それぞれが独自の光を放ちながらも、全体として一つの光景を織りなしているように思われるのである。それに対して唯識は、外界に独立した実体を認めることなく、すべては識の現れであるとする。ここでは世界は、外に広がるものというよりも、内側で立ち上がる映像のように理解される。阿頼耶識という深層の流れが種子を蔵し、それが縁に応じて現行することで、あたかも外界があるかのような経験が生じる。この構造は、静かな湖面に映る月影のようであり、実体としての月が水の中にあるわけではないが、それでも確かに見えてしまうという不思議さを孕んでいるのである。両者が折り合うように感じられるのは、世界を単なる物質の集積としてではなく、何らかの内的性質をもったものとして捉えている点である。どちらも、心が世界の周縁にあるのではなく、むしろその中心的な構成要素であるという直感を共有しているように思われる。無機的な世界観に対する違和感から生まれた二つの思想が、別々の道を歩みながらも、どこかで同じ山頂を目指しているかのような印象を受ける。しかしながら、折り合わない部分もまたはっきりと浮かび上がる。汎心論では、外界の存在は基本的に認められ、その上で各存在が心的側面を持つとされる。つまり、対象は対象としてそこにあり、その内部に主観的な何かが宿るという構図である。それに対して唯識では、そもそも外界という独立した対象の存在自体が疑われる。対象と主体の区別そのものが識の働きによって構成されていると考えられるため、「対象に心がある」という発想自体が前提として成立しにくいのである。この点は、舞台の上に俳優が立っていると考えるか、それとも舞台そのものが心の中の演出であると考えるかの違いに似ているように思われるのである。さらに、解脱や実践の方向性においても違いがあるように感じられる。唯識は、煩悩や無明を転じて識を智慧へと変容させるという明確な実践的枠組みを持っているのに対し、汎心論は必ずしもそのような解脱論的構造を内包しているわけではない。汎心論は世界の在り方を説明する哲学であり、唯識はその世界理解を通じて苦からの解放を目指す道でもある。この違いは、地図を描くことと、実際に旅をして目的地に至ることの差に似ているのではないかと感じるのである。こうして考えてみると、両者は完全に一致するわけではないが、互いに補い合う可能性も秘めているように思われる。汎心論が世界に内在する心の普遍性を照らし出す光であるならば、唯識はその光がどのように歪み、どのように浄化されうるのかを示すレンズのようなものである。光とレンズが出会うとき、世界の像はより鮮明になるかもしれない。そのような予感を抱きながら、今日もまたギターを手に取り、響きの中に心と世界の関係を探ろうとしているのである。フローニンゲン:2026/5/7(木)09:03
Today’s Letter
Shouting with outrageous love about what I believe to be important is crucial for purifying and transforming pathological social structures. I will never stop doing this, as it is my fundamental act for the world and the cosmos. Groningen, 5/7/2026

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