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【フローニンゲンからの便り】18631-18637:2026年5月6日(水)

  • 11 時間前
  • 読了時間: 20分


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タイトル一覧

18631

構えの調整

18632

今朝方の夢

18633

今朝方の夢の振り返り

18634

多様な学問や実践の品質管理を担う哲学の意義

18635

カーボン弦について

18636

チタン弦について

18637

巨大な海流としての大学図書館の有効活用

18631. 構えの調整 

                   

ブランダン・エイカー氏の助言の核心は、「フリーストロークの音が薄い原因は、指の力不足ではなく、弾き始める前の手の構えにあることが多い」という点である。多くの奏者は、フリーストロークそのものを責めがちである。音が細い、安定しない、コントロールしにくいと感じると、もっと指を鍛えなければならない、もっと強く弾かなければならない、もっと正確に動かさなければならないと考える。しかしエイカー氏は、問題は指の運動そのものよりも、その運動が始まる前の「手全体の配置」にあると見ているのである。ここで重要なのは、クラシックギターの右手は一つの固定された形で全てに対応できるわけではないということである。たとえばアポヤンド、つまりレストストロークでは、弾いた指が隣の弦に自然に着地する。そのため、指の動きには「行き先」がある。音を出したあと、指が隣の弦に支えられるので、動きの終点が明確になりやすい。ところがアルアイレ、つまりフリーストロークでは、指は隣の弦に着地しない。弦を弾いたあと、空中で動きを終えなければならない。そのため、手の高さや指の曲がり具合が少しずれているだけで、動きが不安定になりやすいのである。エイカー氏が指摘している「手が少し高すぎる」「指が少し伸びすぎている」という状態は、フリーストロークにとってかなり重要である。手が高い位置にあり、指が伸びた状態で弾こうとすると、指は弦を内側に押し込むのではなく、弦から逃げるように上方向へ動きやすくなる。これは、弦にしっかり重みを伝える動きではなく、表面を引っかけて離れるような動きになりやすい。その結果、音に芯がなくなり、リリースも支えを失い、どこか薄く、軽く、不安定に感じられるのである。これは筆で線を引く場合に似ている。筆先の力だけを調整しても、腕の角度や紙との距離が合っていなければ、線はかすれたり震えたりする。問題は筆先ではなく、筆を紙に運ぶ前の身体の構えにある。ギターでも同じで、指先の器用さだけで音を改善しようとしても、手全体の位置がフリーストロークに適していなければ、音はなかなか太くならないのである。エイカー氏が提案している解決は、手を少し低くし、指をもう少し集めることである。「指を集める」とは、指を固めるという意味ではなく、伸び切った状態から少し自然に曲げ、手のひらの方向へまとまりを持たせることだと考えられる。そうすると、指は弦に対して上へ逃げるのではなく、内側へ入るように動きやすくなる。ここでいう「内側」とは、弦を表面的に撫でるのではなく、弦の抵抗を感じながら音の芯に触れる方向である。つまり、良いフリーストロークでは、指が弦から「逃げる」のではなく、弦を一度しっかり受け止めてから離す。弦を上へはじき飛ばすのではなく、弦の中へ入ってから自然に解放する。この違いは見た目には非常に小さいが、音には大きく現れる。音が丸くなり、密度が増し、リリースが安定する。演奏者の感覚としても、指先だけで必死に操作している感じが減り、手全体の構造が音を支えてくれるようになるはずである。この助言は、練習法としても大切である。フリーストロークが不安定なとき、すぐに反復回数を増やしたり、筋力や独立性の問題だと考えたりする前に、まず弾く直前の右手の位置を観察する必要がある。手首が高くなりすぎていないか。指が伸びすぎていないか。弦を避けるために、無意識に上へ逃げる軌道になっていないか。こうした点を丁寧に見るだけで、音が変わる可能性がある。特に印象的なのは、「より努力することではなく、始める前に再組織化することによって音が改善する」という最後の部分である。これはギターに限らず、学習や身体技法全般に通じる洞察である。うまくいかないとき、人はしばしば出力を強めようとする。しかし本当に必要なのは、出力の増大ではなく、構えの調整である。力を足すのではなく、力が自然に通る通路を整えるのである。クラシックギターの音色もまた、指先だけで作られるのではなく、弾く前の姿勢、手の高さ、指のまとまり、弦に入る角度といった小さな条件の総体から生まれる。フリーストロークの改善とは、指を鍛える作業である以前に、音が生まれるための環境を整える作業なのである。フローニンゲン:2026/5/6(水)06:27


18632. 今朝方の夢

                                  

今朝方は夢の中で、長年にわたって投資しているある暗号資産の価格が突然高騰をし始めた場面があった。気がつくと資産が膨れ上がっており、10億円ほどになっていた。そのタイミングを見てきちんと利確をしておこうと思い、法定通貨に換金することにした。ところがウォレットから取引所にその暗号資産を移すことに少々時間がかかることを思い出し、その間に価格が下落してしまう可能性があるように思えた。ちょうど同じ暗号資産をかつて推奨した知人が近くにいて、その方に声をかけたところ、その方は価格が上がり始めたもう少し価格が低いタイミングでちゃんと利確したようだった。その方は大きな資産を形成できたことに対して自分に感謝の言葉を投げかけた。その方の朗報を受けて、今度は自分が利確する番だと思って再度価格を見ると、引き続き価格は高値圏で維持されており、これで無事に当初から計画していた資産額で利確できそうだと安堵した。この程度の資産があれば、カネ目当てで意思決定することはなくなり、さらに自由な人生を過ごせるだろうと思った。そうした喜びの気持ちが湧いた瞬間に、隣の家のバルコニーから話し声が聞こえた。見ると自分と同い年ぐらいの隣人の外国人の女性が朝の光を浴びながらバルコニーで朝食を摂っていた。声が聞こえたのは、どうやら電話をしているからのようだった。私もバルコニーに出て朝食を摂ろうとすると、その女性が突然こちらに話しかけてきた。何やら彼女は今からある組織に捕まえられることになっているとのことで、隣人の自分は彼女と知り合いゆえに自分の身も危ないとのことだった。今すぐにお互い逃げる必要があると言われ、朝食をそっちのけで、とりあえずパソコンと父から譲り受けた時計だけ持って逃げようと思った。


次に覚えているのは、ある女性の知人の方が開催しているコミュニティの旅行イベントに参加していた場面である。実は自分もそのコミュニティの立ち上げに関わっており、最初の数年間は一緒にコミュニティ運営をしていた。その他の活動のためにそのコミュニティに関与することをやめて数年が経ったのだが、なんとコミュニティに参加した人数の累計が500人に到達したと聞いて大変驚いた。そこには著名な発達心理学の外国人女性研究者の方々もちらほらいて、メンバーの質もすごく高くなっていると感じた。私たちはバスに揺られながら次の目的地に向かっていた。すると主催者の知人の女性が突然私と隣にいた研究者の女性の方に向かって、お酒の液体が注がれたバケツを床に転がしてきた。バケツは後部座席の段差にぶつかり、酒が床に飛び散った。その方の行動は悪意があったものでは決してなく、むしろ祝福の酒のようだった。驚きこそしたが、それを受けた私たちも嫌な気持ちにはならず、祝福の気持ちを受け取った。次の目的地はイングランドのサッカースタジアムで、そこでリバプール対クリスタルパレスのカップ戦の決勝が行われることになっていて、自分はその試合をアテンドすることになっていた。フローニンゲン:2026/5/6(水)06:42


18633. 今朝方の夢の振り返り

                          

今朝方の夢は、自分の内側で「資産」「危機」「共同体」「祝福」「試合」という複数の象徴が、一つの大きな人生の転換点をめぐって編み合わされている夢であるように思われる。暗号資産の高騰は、単なる金銭的幸運というよりも、自分が長年静かに育ててきた可能性が、ある時期に一気に可視化されることを象徴しているのではないだろうか。暗号資産とは、まだ社会的には完全に安定した価値として認められていないが、未来への信頼によって保持されるものである。したがってそれは、自分の研究、翻訳、発達理論、仏教思想、音楽実践、海外留学への準備など、すぐには換金できないが深い未来価値を持つ「内的資本」の比喩であるように見える。しかし、その資産を利確しようとした瞬間に、ウォレットから取引所への移動に時間がかかるという不安が生じる。これは、自分の内的価値を社会的成果へと変換する際には、必ずタイムラグがあるという感覚を示しているのかもしれない。才能や知識はウォレットの中に眠る暗号資産のようなものであり、それを論文、書籍、講演、仕事、学位、収入へと変えるには、取引所に送るような媒介過程が必要である。その間に価値が目減りするのではないかという不安は、人生の好機を逃したくないという緊張の表れであろう。かつてその資産を推奨した知人が先に利確し、自分に感謝する場面は興味深い。これは、自分が他者に与えた示唆や知的影響が、すでに他者の人生で果実を結んでいることを象徴しているようである。自分自身はまだ完全には利確していないにもかかわらず、他者は自分から受け取った種によって豊かになっている。これは、庭師が自分の庭の収穫を待っているあいだに、かつて分け与えた苗木が隣の庭で大樹になっているのを見るようなものである。その光景は、自分の価値がまだ自分の手元で完全に形になっていなくても、すでに世界のどこかで作用していることを告げているのではないだろうか。その後に現れる外国人女性の隣人は、朝の光を浴びながら日常の穏やかさを体現しているように見えるが、突然「危険」を告げる存在へと変わる。ここには、自由を得る直前に現れる別種の試練が示されているようである。10億円という資産によって「カネ目当てで意思決定しなくてよい」と思った瞬間、今度は金銭では解決できない危機が現れる。つまりこの夢は、経済的自由だけでは人生の安全や自由は完成しない、と語っているのかもしれない。パソコンと父から譲り受けた時計だけを持って逃げようとする場面は、自分にとって本当に持ち出すべきものが「創造の道具」と「継承された時間」であることを示しているようである。パソコンは未来へ書き出す力であり、父の時計は過去から受け継いだ時間の結晶である。逃避の瞬間に残るものこそ、自分の核であるということだろう。次の旅行イベントの場面では、かつて自分も立ち上げに関わった共同体が、累計500人にまで成長している。これは、自分が離れた後も、初期に蒔いた関係性の種が自律的に育っていることを象徴しているように思われる。自分の人生の仕事は、常に自分の目の前にあるものだけではなく、自分が去った後にも発酵し続ける酵母のように、他者の場で膨らんでいくものなのかもしれない。著名な発達心理学の外国人女性研究者たちが参加していることは、自分の知的関心が国際的な学術共同体と接続しつつある予兆であるようにも見える。バスの中で酒の入ったバケツが転がり、床に飛び散る場面は、統制された祝福ではなく、やや荒々しい祝祭を象徴しているようである。グラスに丁寧に注がれる酒ではなく、バケツから溢れる酒である点が重要であろう。それは、成功や承認が、いつも整った形式で訪れるわけではなく、ときに床を濡らすほど過剰で、混乱を伴いながらやって来ることを示しているのかもしれない。だが嫌悪感はなく、そこには祝福として受け取る余地があった。これは、自分が今後、予想外の形で与えられる評価や縁を、過度に管理しようとせず受け取る必要があるという暗示であろう。最後のリバプール対クリスタルパレスの決勝戦は、自分がこれから立ち会う大きな勝負の象徴であるように思われる。リバプールは伝統と強豪性を、クリスタルパレスは結晶化した宮殿のような理想や美を想起させる。自分は選手ではなく、試合をアテンドする立場にいる。これは、自分の人生が単に勝敗を争う競技ではなく、人々、思想、場、祝祭をつなぐ案内者として展開していくことを示しているのではないだろうか。人生における意味として、この夢は、自分が長年蓄積してきた見えない資本を社会的な形へと変換する時期に入りつつあり、その自由は金銭だけでなく、創造の道具、継承された時間、国際的な共同体、そして祝福を受け取る器によって完成していくのだと告げているように思われる。フローニンゲン:2026/5/6(水)07:45


18634. 多様な学問や実践の品質管理を担う哲学の意義 

                             

先日のザカリー・スタイン博士のセミナーで、自分が投げかけた問いに対して、ザックが「哲学者の重要な社会的役割の一つは、多様な学問の品質管理である」と語ったことが強く心に残っている。品質管理という言葉は、一見すると工場や組織運営の言葉のように聞こえるが、学問においてはきわめて深い意味を持つのだと思う。知識が増え、専門分野が細かく分かれ、AIによって情報が猛烈な速度で生成される時代において、単に多くを知っていることだけでは不十分である。むしろ、何が本当に信頼に値する知なのか、どの概念が粗雑に使われているのか、どの理論が人間理解を豊かにし、どの言葉が逆に現実を歪めているのかを見極める力が求められているのである。その意味で、哲学者とは、知識の倉庫番ではなく、知の水質を見守る人なのかもしれない。川の上流が濁れば、下流に広がる田畑も町も影響を受ける。同じように、ある学問分野で使われる基本概念が濁れば、その概念を使って行われる教育、医療、ビジネス、政治、テクノロジーも少しずつ歪んでいく。哲学者の仕事は、派手な結論を急いで出すことではなく、源流に立ち戻り、「この前提は本当に妥当なのか」「この言葉は何を見えなくしているのか」「この理論は人間のどの側面を取りこぼしているのか」と問い続けることなのだろう。その言葉を聞いたとき、自分はまず唯識思想をしっかり修めようと思った。なぜなら、唯識は単なる古典思想ではなく、認識の品質管理を徹底的に行うための精密な体系であるように感じるからである。自分たちは世界をそのまま見ているつもりでいるが、実際には、過去の経験、言語、感情、欲望、恐れ、習慣、そして深い潜在的傾向を通して世界を構成している。唯識は、その認識の仕組みを驚くほど細かく分析し、何が妄想であり、何が依他起的な働きであり、何が円成実的な理解へと開かれていくのかを問う。これは、まさに心の実験室における品質管理である。現代の学問は、外側の世界を測定し、分類し、操作する力を大きく発展させてきた。しかし、その測定し、分類し、操作している主体の認識そのものについては、しばしば十分に吟味されないまま進んでしまう。そこに唯識思想の重要性があるのだと思う。唯識は、「何を知っているか」だけでなく、「どのような心によって知っているのか」を問う。これは、カメラで風景を撮影する前に、レンズの汚れや歪みを点検するような作業である。レンズが曇っていれば、どれほど高性能な機械を使っても、写し出される世界は歪んでしまう。自分が唯識を学ぶことは、単に仏教研究者として知識を増やすことではないのだろう。それは、自分自身の認識の癖を見つめ、世界をより清明に理解し、他の学問や実践の土台をより丁寧に吟味するための訓練なのだと思う。発達理論、心理学、教育学、AI、組織論、哲学、宗教研究。それらを横断しようとするとき、必要なのは雑多な知識を並べることではなく、それぞれの知が何を前提とし、何を可能にし、何を見落としているのかを見抜く眼である。唯識は、その眼を磨くための砥石になるのかもしれない。だからこそ、今は焦らず、まず一つの深い井戸を掘るように唯識思想を修めたいと思った。広い海に出るためには、まず足元の泉を掘り当てなければならない。自分にとって唯識は、その泉なのだろう。そこから汲み上げた水によって、自分の思考を澄ませ、言葉を澄ませ、いつか多様な学問の品質管理に少しでも貢献できるようになりたい。知を増やすこと以上に、知の濁りを見抜き、認識の深層構造を整えること。その道の入口に、今あらためて立っている気がする。フローニンゲン:2026/5/6(水)08:24


18635. カーボン弦について

     

先日、クラシックギターの弦について改めて考える機会があった。これまで何となく「クラシックギター=ナイロン弦」という前提で捉えていたが、カーボン弦という選択肢があることを知り、その違いを頭の中で反芻していた。まるで同じ言葉で語られている音楽が、実は異なる声帯で発せられているような感覚である。ナイロン弦の音は、どこか空気に溶けるような柔らかさがある。触れた瞬間に音が生まれるというより、空間の中にじわりと滲み出てくるような印象だ。それに対してカーボン弦は、もっと輪郭がはっきりしている。指が弦に触れた瞬間、音がすっと前に立ち上がり、空間に線を引くように響くらしい。まるで水彩とインクの違いのようで、同じメロディであっても、その表情はかなり変わるのだろうと想像した。特に印象的だったのは、カーボン弦の「反応の速さ」である。ナイロンが少し呼吸を置いてから声を出す歌い手だとすれば、カーボンは問いかけに即座に応答する対話者のようである。この敏感さは魅力的であると同時に、少し怖さも感じる。自分のタッチの曖昧さや迷いが、そのまま音として露出してしまうからである。音が良くなる可能性と同時に、演奏者の内面の精度が問われる素材なのかもしれない。また、弦の張りの感覚にも違いがあるらしい。カーボン弦は細くて張りが強く感じられるため、左手にはしっかりとした抵抗が伝わる。その分、音程は安定しやすく、音の芯も明確になるという。これは、柔らかく包み込むナイロンとは対照的で、どちらが優れているというよりも、どのような音楽を描きたいかによって選ぶべき筆が変わるようなものだと感じた。興味深いのは、音の消え方にも違いがあるという点である。ナイロンの音は余韻が空間に広がり、霧のように残る。一方でカーボンは、輪郭を保ったまま静かに消えていく。この違いは、多声音楽においては特に重要なのだろう。音が混ざるのか、それとも分かれるのか。その選択は、単なる素材の違いを超えて、音楽の見え方そのものを変える気がする。こうして考えていると、弦というものは単なる消耗品ではなく、演奏者の思考や感性を映し出す媒介なのだと思えてくる。ナイロンを選ぶということは、柔らかく世界を包み込む方向へ向かう選択であり、カーボンを選ぶということは、より明確に、より鋭く世界を切り取る方向への選択なのかもしれない。しばらくはナイロンで基礎を深めつつ、どこかのタイミングでカーボン弦も試してみたいと思う。弦を変えるという行為は、単に音色を変えるだけではなく、自分の音楽の見方を少しずらす行為のようにも感じられる。音が変わると、耳が変わり、耳が変わると、触れ方が変わる。その小さな循環の中に、まだ知らない自分の音が眠っている気がする。フローニンゲン:2026/5/6(水)08:35


18636. チタン弦について

                       

さらに興味深いことを知った。ナイロンでもカーボンでもない、「チタン弦」という選択肢があるという。正確には純粋なチタンではなく、チタンを含んだナイロン系の素材らしいのだが、その響きの性格が独特であると聞き、頭の中で音を想像していた。ナイロンが柔らかく空気に溶け、カーボンが輪郭を鋭く描くとすれば、チタン弦はその中間にありながら、どこか「粘り」を感じさせる存在のように思える。音は明るいが、単に明るいだけではなく、少し湿度を帯びたような密度があるらしい。光にたとえるなら、ナイロンが柔らかな朝霧に差し込む光、カーボンが真昼の鋭い直射光だとすれば、チタン弦は夕方の光のように、輪郭を保ちながらもどこか色気を含んでいるような印象である。発音の感覚についても、カーボンほど即座に飛び出すわけではないが、ナイロンよりははっきりと応答するのだろう。そのため、音の立ち上がりは比較的クリアでありながら、どこか指にまとわりつくような感触があるのかもしれない。この「まとわりつく感じ」は、おそらく音の持続や密度に関係しているのだろう。音がただ鳴って消えるのではなく、少しだけその場に留まり、余韻に厚みを与えるような性質を持っていると考えられる。また、チタン弦はナイロンよりもやや張りがありつつ、カーボンほど硬質ではないとされる。この中庸な張力は、左手にとっては扱いやすく、右手にとってはコントロールしやすいバランスを生む可能性がある。極端に鋭敏でもなく、極端に寛容でもない。その意味で、演奏者のニュアンスを素直に引き出す鏡のような存在なのかもしれない。音色としては、ナイロンの温かさとカーボンの明瞭さを併せ持ちながら、少し独特の艶が加わるとよく言われる。この「艶」という言葉が気になっている。単に明るいとか柔らかいという二項対立ではなく、音の中に微妙な陰影が生まれるということだろうか。もしそうであれば、旋律を歌わせるときに、単なる線ではなく、厚みのある声として響く可能性がある。考えているうちに、弦というものは単なる素材ではなく、演奏者と楽器の間にある「対話の媒介」のように思えてきた。ナイロンは包み込むように語りかけ、カーボンは明確に応答し、チタンはその間で微妙なニュアンスを運ぶ。どれを選ぶかによって、自分が音楽に何を求めているのかが少しずつ明らかになる気がする。まだ実際にチタン弦を張ったことはないが、いずれ試してみたいと思う。もしかすると、これまで気づかなかった音の陰影や、指先のわずかな動きが、より鮮やかに浮かび上がるかもしれない。弦を変えることは、楽器を変えることではなく、自分の聴き方を変えることなのだろう。そう考えると、次にどの弦を張るかという選択さえ、小さな探究の一歩のように感じられる。フローニンゲン:2026/5/6(水)09:11


18637. 巨大な海流としての大学図書館の有効活用 


5月を迎えたがフローニンゲンはまだまだ寒く、今日の日中の最高気温は東京の最低気温よりも低い。9月から生活を始めるエディンバラはフローニンゲンよりもさらに気温が低いことを知った。


数日前に、これからの学びのスタイルについて一つの方針が自然と固まってきた感覚があった。エディンバラでの生活が始まったとき、自分はこれまでのように書籍を次々と購入していくのではなく、大学の図書館そのものを自分の書斎として使いこなす方向へと重心を移していくことになるのだと思う。これまでの読書は、どこか「所有することで思考を支える」ような側面があった気がする。手元に本があるという安心感は、まるで航海における錨のように、自分の思考をその場に留めてくれる。しかし、その錨は同時に、動きをわずかに鈍らせるものでもあったのかもしれない。本棚が増え、本が積み重なっていくにつれて、知の広がりと同時に、どこか静的な重さのようなものも感じていた。一方で、大学図書館はまるで巨大な海流のような存在である。本を「持つ」のではなく、その流れの中に自分の身を置き、必要なものを必要なときに掬い上げる。そうしたあり方は、より動的で、より柔軟な知の関わり方であるように思える。特にエディンバラ大学のような環境では、単に本が揃っているというだけではなく、同じ空間で学ぶ人々の気配や、静かな集中の空気そのものが、思考を深める触媒として働くはずである。これからは、図書館の一角に自分なりの「定位置」を見つけ、そこを日々の思索の拠点としていくことになるだろう。毎日同じ席に座り、同じ光の中でページをめくることは、外的には変化がないように見えても、内側では確実に積み重なりを生む。まるで静かな水滴が岩を穿つように、反復される時間が思考の輪郭を少しずつ削り出していくのだと思う。もちろん、すべてを図書館に委ねるわけではない。本当に何度も読み返したい本、自分の思考の核となるような本については、これからも手元に置き続けるだろう。それらは単なる情報源ではなく、自分の中で何度も対話される「思考の伴走者」であり、長い時間をかけて関係を深めていく対象である。しかし、それ以外の多くの本については、一度出会い、必要な部分を吸収し、再び流れに返していくという関わり方のほうが、いまの自分には適しているように感じられる。この変化は、単なる節約や効率化の問題ではなく、知との関係性そのものの再編なのだと思う。本を所有することから、本に出会い続けることへ。蓄積することから、循環の中に身を置くことへ。その移行の中で、自分の学びはより軽やかで、しかし同時により深くなっていくのではないかという予感がある。エディンバラでの日々は、書棚の前ではなく、書架の間で育まれていく。そう考えると、これから始まる生活が、静かに、しかし確実に楽しみになってきている。フローニンゲン:2026/5/6(水)09:19


Today’s Letter

Transcending the self-centered ego is crucial for world peace. Unfortunately, however, the opposite is happening now. I’m wondering what I can do about this urgent situation. Groningen, 5/6/2026

 
 
 

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