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【フローニンゲンからの便り】18509-18514:2026年4月15日(水)

  • 4 日前
  • 読了時間: 15分


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タイトル一覧

18509

音楽実践としての英語の発話トレーニング

18510

今朝方の夢

18511

今朝方の夢の振り返り

18512

食後のその場足踏み運動の思わぬ効能

18513

バーナード・ロナーガンの『Method in Theology』の再読を始めて

18514

映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』 を鑑賞して

18509. 音楽実践としての英語の発話トレーニング 

           

昨日、英語の音読をしていると、これはもはや語学の訓練というより、一種の発声練習であり、歌の稽古に近いものではないかと感じるようになってきた。単語を正しく並べること以上に、どのような響きで声を出すか、どのような流れで息を運ぶかに意識が向いている自分に気づくのである。意味を理解するという営みと、声を発するという身体的行為が、分離せずに一体となって進んでいく感覚がある。特に気持ちを込めて音読をすると、文章が単なる情報の列ではなく、一つの旋律のように立ち上がってくるように思われる。強弱、間、イントネーション、それらが重なり合って、まるで短いフレーズを歌っているかのような感覚になる。英語は音の高低やリズムの変化が比較的明確な言語であるため、その音楽的な側面がより顕著に感じられるのかもしれない。発話がうまくいったときには、意味が通じたという以上に、「よい響きが出た」という満足感が残る。このとき、脳の働きも普段とは少し異なる状態に入っているように思う。単に黙読しているときとは違い、音読では視覚、聴覚、運動感覚が同時に動員される。さらに感情を込めることで、内的なイメージや情動も関与してくる。複数の回路が同時に活性化することで、思考がより立体的に広がっていくような感覚があるのだ。これは単なる言語処理ではなく、全身的な認知活動なのかもしれない。クラシックギターの練習をしているときにも似たような感覚がある。楽譜に書かれた音符を追うだけでなく、どのような音色で鳴らすか、どのようにフレーズをつなぐかを考えるとき、身体全体が一つの流れの中に入っていく。英語の音読もまた、単語を読むというより、フレーズを「奏でる」行為に近づいているのではないかと思えてくる。さらに興味深いのは、音読を重ねるうちに、文章が自分の内側にリズムとして蓄積されていく感覚である。一度身体に入ったリズムは、次に発話するときの支えになる。これはまるで、ギターで繰り返し弾いたパターンが自然に指から出てくる状態に似ている。言葉もまた、身体化されたリズムとして再生されるのかもしれない。このように考えると、英語の発話トレーニングは、単なる語学学習ではなく、声という楽器を調律し、演奏するプロセスであるように感じられる。正確さだけでなく、響きや流れを大切にするとき、言葉は情報伝達の手段を超えて、一種の音楽的表現へと変わっていく。その瞬間、英語を話すこと自体が、小さな演奏のように感じられるはずだ。フローニンゲン:2026/4/15(水)06:53


18510. 今朝方の夢 

                               

今朝方は夢の中で、小中学校時代に生活していた社宅のアパートの寝室にいた。その寝室に突然、黒々としたツキノワグマが現れた。それは大きさとしてはヒグマの最大級の大きさぐらいあり、途轍もなく大きく獰猛に見えた。その姿が見えた瞬間に、さっと宙に浮いてクマに襲われないようにした。クマは宙に浮く私を襲ってこようとしたが、それが無理だとわかるとすぐに諦め、気づいたら消えていた。その代わりにそこに現れたのは、まだ生まれたての赤ちゃんのツキノワグマだった。それは手のひらに乗るぐらいの小ささで布に包んで外に逃がしてあげようと思った。しかし布に強く包んでしまったのか、まるで死んだように弱ってしまっているようで、外に放してからしばらく様子を見ることにした。すると突然、自分はアパートの前の公園のジャングルジムの上にいて、その下には先ほどの巨大かつ獰猛なツキノワグマがいた。それは再び私を襲おうとしたが、ジャングルジムの上には届かないようで、またしても下でどうするかを考えているようだった。


次に覚えているは、小中高時代のある友人(SN)がどういうわけか家のオーナーの代わりに家賃を徴収しており、彼に未払金3万円を支払った。家賃は毎月ちゃんと納めていたので、その未払金は何か別の費用のようだったが、それが具体的に何の未払金かはお互いに確認せず、そう言えば何かの未払金があったという曖昧な記憶のままそれを支払った。現金で支払うこともできたし、代わりにポイントで精算することもできた。手元に現金がなかったので、ポイントでその精算をしてしまおうと思った。


最後に覚えているのは、高校のサッカー部に二年生になって入部することを決意した場面である。グラウンドには一学年の上の先輩が多数いて、不思議と同学年の友人たちはそこにはいなかった。私は一学年上の先輩たちとは中学校時代から仲が良かったので、何も臆することなくこれまでの関係性のままその場に溶け込んでいくことができるだろうと思った。キャプテンがいないようだったので、副キャプテンの先輩に入部の意思を伝えると、歓迎してくれてすぐさま練習に参加した。その紅白戦で自分が隠してきたサッカーの才能が全開となり、先輩たちを大いに驚かせ、次の大会からレギュラーとして出場することが即決まった。紅白戦の中で、自分でも驚いてしまうほどの技術が自然と出てきた時に、これまで地道に練習を続けてきて心底良かったと思ったし、能力を発揮する場があって初めて才能が開花するのだと改めて思った。フローニンゲン:2026/4/15(水)07:05


18511. 今朝方の夢の振り返り

                    

今朝方の夢は、自分の内面に蓄積されてきた「力」と「責任」と「表現機会」が、時間差を伴いながら統合へ向かっている過程を象徴しているように思われる。まず、舞台が小中学校時代の社宅の寝室であることは、自分の心理的な基層、すなわち人格形成の初期条件や原初的な自己像に回帰していることを示唆している可能性がある。その空間に突如として現れた巨大なツキノワグマは、圧倒的なエネルギー、あるいは制御しきれない潜在的衝動や能力の象徴であると考えられる。しかもそれが現実のツキノワグマを超えてヒグマ級の大きさである点は、自分が想定している以上にその力を「過大に」「恐るべきもの」として認識していることを示しているのかもしれない。ここで自分は即座に宙に浮く。この反応は、単なる逃避ではなく、認知的・抽象的なレベルへと意識を引き上げる働き、すなわちメタ認知や観照の能力によって、直接的な衝突を回避していることを意味している可能性がある。クマがそれを諦めて消える展開は、力そのものが問題なのではなく、それとの関わり方が変わることで脅威性が減衰することを示唆しているようにも見える。興味深いのは、その後に現れるのが「赤ちゃんのツキノワグマ」である点である。これは同一のエネルギーが、未分化で無力な形に変換されて再提示されていることを意味している可能性が高い。自分はそれを守ろうとするが、結果的に「包みすぎて弱らせてしまう」。ここには、自分の内的資源や可能性を過剰に管理・制御しようとする傾向、すなわち安全に扱おうとするあまり、その生命力を抑圧してしまう構造が示唆されているように思われる。場面が再び転じてジャングルジムの上にいる構図は、発達心理学的に見るならば「構造の上位化」を象徴している可能性がある。自分は再び高所=より抽象的・統合的な位置にいるが、下には再び巨大なクマが存在する。これは、抑え込んだはずのエネルギーが形を変えて再出現していること、あるいは完全には統合されていないことを示しているのかもしれない。ただし今回は「届かない」という距離が保たれており、関係性は以前より安定しているようにも見える。次の家賃の場面は、一見日常的であるが、象徴的には「見えない負債」の清算を示している可能性がある。しかもその請求者が旧友である点は、過去の人間関係や経験に由来する未整理の要素が、現在において何らかの形で精算を求めていることを意味しているのかもしれない。その内容が曖昧であるにもかかわらず支払っている点は、論理的根拠よりも「感覚的な納得」や「関係性の調和」を優先していることを示唆している。そして現金ではなくポイントで支払う選択は、直接的な痛みを伴わない形での清算、すなわち象徴的・心理的なレベルでの解決を選んでいる可能性がある。最後のサッカー部の場面は、この夢全体の収束点として非常に重要である。ここでは、自分がこれまで蓄積してきた能力が「適切な場」において自然に開花する様子が描かれている。同学年がいないにもかかわらず先輩と自然に関係を築ける点は、年齢や形式的な枠組みを超えた自己の位置づけがすでに形成されていることを示唆している。そして紅白戦における圧倒的なパフォーマンスは、これまでの努力が無意識レベルで統合され、フロー状態として発現していることの象徴であろう。この一連の流れを通して見えてくるのは、自分の内にある強大なエネルギーが、恐れの対象から保護対象へ、そして最終的には表現される能力へと変容していくプロセスである。抑圧や回避ではなく、適切な距離と文脈を得たとき、その力は破壊的なものではなく創造的なものとして顕現するという理解が深まりつつある段階であるとも考えられる。この夢が人生において示唆している意味は、自分の中にある「扱いきれないほどの力」を恐れるのではなく、それをどの文脈で、どの関係性の中で発揮するかが決定的に重要であるということである。そして、その力はすでに十分に育っており、あとはそれを信頼し、適切な場に身を置くことで自然に開花していく段階に来ている可能性が高い、ということである。フローニンゲン:2026/4/15(水)07:54


18512. 食後のその場足踏み運動の思わぬ効能

                                 

食後にその場足踏みをする習慣が、思いのほか身体にしっくりと馴染んできているのを感じる。激しい運動ではなく、ただその場で一定のリズムを刻むように足を動かすだけなのだが、この単純な行為が内側で静かに作用しているように思えるのである。食事少ししてから足踏みを始めると、血流がゆるやかに巡り、身体の内部で処理されるべきものが滞ることなく流れていくようである。おそらくこの運動は、単にカロリーを消費しているわけではなく、体内のエネルギーの配分そのものに影響を与えているのだろう。摂取した糖が急激に上下するのではなく、筋肉へとゆっくり取り込まれていく。その結果として、食後特有の不安定さが抑えられているように感じられる。身体が過剰に何かを溜め込むのではなく、適切に使いながら整えていく方向へと向かっている印象である。また、足踏みという単純な反復運動には、どこかリズム的な安心感がある。クラシックギターの練習や英語の音読とも通じるような、一定の拍を刻む感覚である。そのリズムに身を委ねていると、思考が整理され、内側の雑音が少しずつ静まっていく。身体を動かしているはずなのに、同時に心が整っていくような感覚があるのは不思議である。もちろん、この運動は決して強度の高いものではない。しかしその控えめさこそが重要なのかもしれない。もしここで負荷を上げすぎれば、身体は別のモードに切り替わり、かえって消化や回復の流れを乱してしまうだろう。軽く、しかし確実に動き続けること。そのバランスの中に、この習慣の本質があるように思われる。こうしてみると、食後のその場足踏みは、単なる運動というよりも、食事という行為の延長にある「調律」のようなものなのかもしれない。食べることで生じた変化を、身体が無理なく受け入れ、整えていくための時間である。静かで目立たないが、確かに身体の深いところに働きかけているこの習慣を、これからも丁寧に続けていきたいと思う。フローニンゲン:2026/4/15(水)09:51


18513. バーナード・ロナーガンの『Method in Theology』の再読を始めて

                          

数日前にふとした思いつきのようでいて、どこか必然の流れの中にある選択として、バーナード・ロナーガンの『Method in Theology』をもう一度読み返しておこうと考えた。エディンバラ大学の神学部に身を置く前に、自分の思考の座標軸を一度きちんと調整しておきたいという感覚があるのかもしれない。ロナーガンは一見すると難解な思想家であるが、その核心はむしろ驚くほど実践的であるように思われる。彼は神学を単なる教義の集積としてではなく、人間の認識活動そのものの構造に根ざした営みとして捉え直そうとした。すなわち、人間がどのように知り、どのように理解し、どのように判断し、そしてどのように責任ある決断へと至るのか、その一連の意識の運動を精密に分析することで、神学の方法そのものを再構築しようとしたのである。この点においてロナーガンは、単なる神学者というよりも、認識論的な建築家であるかのようである。『Method in Theology』において提示される八つの機能的専門分化は、初読のときには抽象的な区分に見えたが、改めて振り返ると、それは学問的営みを時間的かつ共同体的に展開させるための設計図であったのではないかと感じる。研究、解釈、歴史、弁証、基礎づけ、教義、体系、コミュニケーションという流れは、単なる分類ではなく、知が生成され、検証され、そして他者へと伝達されるプロセスそのものを可視化したものであるように思われる。まるで一つの楽曲が、動機の提示から展開、再現、そして響きの余韻へと至るように、神学もまた動的なプロセスとして理解されるべきだという示唆を感じるのである。おそらく今回の再読は、単なる復習では終わらないだろう。むしろ、自分がこれまで積み重ねてきた発達理論や仏教思想、とりわけ唯識の認識論との対話の中で、ロナーガンの枠組みがどのように再配置されるのかを試す機会になるはずである。彼のいう「自己超越」や「真正な主観性」といった概念は、唯識における転依や無分別智ともどこか響き合うように感じられるが、その一致は安易に同一視されるべきではなく、むしろ差異の中にこそ新たな理解の契機が潜んでいるのかもしれない。エディンバラでの学びを前にして、この書物を手に取ることは、いわば自分自身の認識の調律を行うような作業であるように思われる。音程のわずかなズレが全体の響きを損なうように、認識の前提が曖昧なままでは、いかに多くを学んでも統合には至らないのであろう。ロナーガンの思索は、そのズレを検出し、修正するための精密なチューナーのような役割を果たしてくれるのではないかと感じている。この再読は、単に神学のためだけではなく、自分がこれからどのように問い、どのように理解し、どのように生きていくのかという、より広い意味での方法の再検討になるはずである。そう考えると、この一冊に立ち返ることは、過去に戻ることではなく、むしろこれから先へ進むための静かな助走であるように思われるのである。フローニンゲン:2026/4/15(水)10:36


18514. 映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』 を鑑賞して

                            

今日は久しぶりに街の中心部の映画館に足を運び、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』 を観てきた。正午前に自宅を出発すると、今日は天気がとても良かったので、午前中の太陽の光と風を思う存分味わうことができた。フローニンゲンも徐々に春らしくなっており、平日の正午前にはどこか柔らかいエネルギーが溢れていた。ちょうど数日前からキリスト教神学のテキストを読み返していたこともあり、この作品からは大いに考えさせられることがあった。タイトルの名称、そして主人公のグレースの名前と言い、キリスト教にゆかりのある言葉が用いられている。グレースは最初自分がまさか地球の命運をかけてミッションに任命されるとは思っておらず、必死の抵抗をする。しかし、その抵抗は虚しく、気がつけば宇宙船にいる形で目覚める。これはどこか、本当の召命の性質を物語っているかのようだ。召命、即ち本来の使命とは、こちらから探すものでも見つけるものでもなく、否が応でもそれに仕向けられる形で降ってくるものなのだろう。ひとたびそれがやって来ると、人間の意思ではなんともすることができない。そうした抗いがたいものこそが本当の意味でも天命なのだと教えられる。不思議と地球ではあれだけミッションに抵抗していたグレースではあるが、ひとたび宇宙空間で目覚めると、もはや諦念の念を持ったのか、ミッションの完遂に向けて奮闘する。その最中で出会った異星人ロッキーとの友愛もまたキリスト教的なモチーフである。二人の出会いの瞬間には大変微笑ましいものがあり、二人が関係性を深めていく姿には感動が起こった。結局グレースは地球に戻らない選択をし、ロッキーを助けに向かったのだが、最後のシーンはとても印象的だった。まさかロッキーの母なる惑星で生きることを決断するとは。そのシーンを見て、ひょっとしたらグレースが異星人としての救世主であり、ロッキーを人類に転換して眺めるという視座が芽生えた。確かにグレースは地球にとっての救世主という意味でキリスト的だが、ロッキーの惑星の異星人に最後レクチャーをしているシーンがあり、彼らに知恵を授けている姿は釈迦にも重なりながら、救世主は相手も惑星も選ばずに召され、そこで活動する存在なのかもしれない。地球ではない惑星の海辺をロッキーと歩くグレースの表情はどこか明るく、笑顔すらあり、そこに光を見出したのは自分だけではないだろう。フローニンゲンでの生活もカウントダウンが始まっているが、エディンバラに行くまでにまだ良い作品が公開されたら、その都度映画館に足を運ぼう。来週は『I Swear』を観に行く予定である。フローニンゲン:2026/4/15(水)16:32


Today’s Letter

Slowness is key to enriching the quality of our lives. Hastiness reduces it. Our vitality is sustained by doing everything slowly and mindfully. Groningen, 4/15/2026

 
 
 

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