【フローニンゲンからの便り】18530-18535:2026年4月19日(日)
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タイトル一覧
18530 | 平穏で美しい共同夢の創出に向かって |
18531 | 今朝方の夢 |
18532 | 今朝方の夢の振り返り |
18533 | 弦の消耗度合いから |
18534 | 新たな弦を使うことの意義 |
18535 | 適正張力 |
18530. 平穏で美しい共同夢の創出に向かって
昨夜ふと、人間の文明も、人種という区分も、宇宙の時間尺度から見れば一時的な波にすぎないのだろうと思った。何千年の帝国も、数万年続く文化も、恒星の寿命や銀河の運動の前では、浜辺に寄せては消える泡のように見える。いずれ都市は朽ち、言語は変わり、国境は忘れられ、今当然と思っている価値観も遠い未来では痕跡になるのかもしれない。その事実には寂しさもあるが、同時に妙な静けさもある。永遠でないからこそ、今ここにあるものはかけがえがない。その時、文明とは巨大な物質装置である前に、共同で見ている夢なのではないかと思えた。貨幣も国家も会社も学歴も肩書も、多くの人が信じ、参加し、物語として支えることで現実性を持つ。法律も制度も、ある意味では共有された想像力の結晶である。毎日ニュースを読み、会話をし、働き、学び、愛し、争うたびに、人類はこの共同の夢を更新している。夢と言っても虚偽という意味ではない。むしろ、想像されたものが現実を組み替える力そのものを指している。もしそうなら、恐ろしいことでもある。憎悪が共有されれば世界は荒れ、恐怖が拡散されれば社会は硬直し、欲望だけが称賛されれば人の心は乾く。共同夢は放置しても自動的に美しくはならない。雑草のように不安と分断が生える。だからこそ、そこに何を植えるかは一人ひとりの小さな行為にかかっているのだろう。最近、自分は少しでもこの共同夢を平穏で美しいものにしたいと思うようになった。壮大な革命を起こしたいのではない。目の前の人との対話を丁寧にすること、言葉を荒ませないこと、知を分かち合うこと、学びによって視野を広げること、音楽を奏でること、美しい文章を書くこと、そのような微細な営みである。荒れた湖に大きな岩を投げ込むより、静かな水面に小さな灯を浮かべる方が、時に深く広がることもある。クラシックギターの一音にも似ている。たった一つの音はすぐ消える。しかし、その音が空間に与える質感は確かに残る。人の親切も、誠実な言葉も、短い励ましも同じなのだろう。永遠ではないが、無意味ではない。むしろ消えるからこそ、響きは尊い。文明がいつか終わるとしても、その終わりまでのあいだ、どのような夢を見続けるかは選べるのかもしれない。ならば自分は、少しでもやさしく、静かで、澄んだ夢の側に加担したい。宇宙の尺度では微塵でも、人間の心の尺度では、それは確かな仕事であるように思う。フローニンゲン:2026/4/19(日)06:50
18531. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない海辺の家にいた。より正確にはもはや海岸線というよりも、砂浜の上に建てられた家の中にいた。その一軒家はモダンな感じがあり、内装外装共に美しく、広さも十分であった。窓を開ければ心地良い海風が入ってくるし、窓を閉めていても波の音が静かに聞こえてくる。そんな素晴らしい家に自分は暮らしていた。起床すると、自分のベッドの壁際に大量の海水が浸水していることに気付いたが、自分にとってはそれは日常的な光景であった。海水が潮の満ち引きに応じてベッドの壁際に流れ込んでくるのは日常的であったが、今日は海水の量が多く、打ち寄せてくる水圧も強いように思えた。なので母に相談に行くことにした。母にそのことを伝えると、母は自分以上にそれを心配していないようだった。自分はその状態だとさらに眠ることもできないし、午後に仮眠を取るのも難しそうだったのでなんとかしたかったが、相手は自然なのでなんともし難いように思え、その状況を受け入れることにした。すると砂浜のある場所が脳内に想起された。そこには生まれたての小さな猿と鯖が仲良く隣り合わせに顔を寄せ合うようにして砂に埋もれており、心地良く眠っていた。その猿と鯖の幸せそうな表情がとても印象に残っている。フローニンゲン:2026/4/19(日)07:07
18532. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の人生が「安定した住居を得ながら、なお根底では流動する世界の上に立っている」という感覚を象徴しているのかもしれない。海辺の家、それも海岸線ではなく砂浜の上に建つ家に住んでいたという構図は、外面的には美しく整えられた生活基盤を持ちながら、その土台そのものは固定的ではなく、絶えず形を変える無常の地盤であることを示しているように思われる。現実の生活においても、自分は学問、仕事、移住、将来計画など多くのものを整えつつある一方で、その背後には常に変化と不確実性がある。その二重構造が、モダンで快適な家と砂浜という対照で描かれたのであろう。窓を開ければ海風が入り、閉めても波音が聞こえるという場面は、自分が変化や外界から完全には切り離されない人間であることを示しているのかもしれない。心を閉じても世界は音として入り込み、心を開けば風として吹き込んでくる。つまり自分は、感受性が高く、外界の出来事や時代の動き、人の感情、未来への気配を敏感に受け取る性質を持っているのだろう。その感受性は豊かさでもあり、同時に落ち着かなさの源でもあるように思われる。ベッドの壁際への浸水は極めて象徴的である。ベッドとは休息、安心、無防備な自己の領域であり、そこへ海水が入り込むとは、無意識や感情や人生の大きな変化が、自分の最も私的な場所にまで到達していることを意味するのかもしれない。しかもそれが日常的であったという点は、自分が以前から見えない不安、将来への緊張、環境変化への圧力と共に生きてきたことを示しているようである。ただ今回は水量も圧力も強かった。これは人生の転換期が近づき、従来のやり方では処理しきれないほど変化の波が高まっている徴候かもしれない。母に相談する場面は、原初的な安心感や保護への回帰願望を表しているように思われる。しかし母は心配していなかった。これは、世界は自分が思うほど危機ではなく、成熟とは誰かに解決してもらうことではなく、自ら波と共に暮らす術を学ぶことだという無意識からの返答かもしれない。相手は自然なのでどうしようもなく、受け入れることにしたという流れは、抵抗から受容への心理的転換を示しているようである。そして最後の猿と鯖の光景が、この夢の核心であろう。猿は進化した知性、機敏さ、陸の生命力を象徴し、鯖は海の生命、群れ、流れ、本能的リズムを象徴しているのかもしれない。本来交わりにくい二つの存在が、生まれたての小ささのまま寄り添い、砂に埋もれて幸福に眠っていた。これは、自分の中で理性と本能、陸の生活と海の流動性、未来志向と現在の安らぎが和解しつつある兆しのように見える。しかも「生まれたて」である点は、その統合が始まったばかりであることを示しているのだろう。この夢が人生に示す意味は、外側の安定だけを求める段階から、揺れる世界の上でなお美しく住む知恵へ移行する時期に来ているということである。波を止めることではなく、波音と共に眠れる自己を育てることが、自分の次の成熟なのかもしれない。フローニンゲン:2026/4/19(日)07:53
18533. 弦の消耗度合いから
毎日3時間以上ギターに触れる生活を続けると、弦は静かに、しかし確実に消耗していくことを実感するようになる。見た目には昨日と同じようでも、音の艶、反応速度、チューニングの安定感は少しずつ変化している。弦は突然寿命を迎えるというより、季節が移るように徐々に古びていくのだと思う。この練習量であれば、一般的には1~2か月ごとの全交換が一つの目安になるだろうか。音色に敏感で、常に良い状態で弾きたいなら3~4週間で替える人もいる。趣味として少し落ち着いて使うなら2か月前後でも十分実用的である。ただし「何日使ったか」より、「音が鈍くなった」「伸びがない」「チューニングが落ち着かない」「指にざらつきを感じる」といった兆候の方が重要である。摩耗が激しいのは、多くの場合低音弦である。クラシックギターの低音弦は芯線の外側に金属の巻線が施されており、この巻線部分に汗、皮脂、汚れ、湿気が入りやすい。毎日3時間以上弾けば、右手の爪や指との接触、左手のポジション移動、空気中の湿気などで徐々に表面がくすみ、倍音が減り、音がこもってくる。見た目にも黒ずみや変色が出やすい。とくに4弦・5弦・6弦は変化が早いことが多い。一方、高音弦はナイロン系素材で巻線がないため、低音弦ほど汚れによる劣化は目立ちにくい。しかし消耗しないわけではない。長時間弾けば伸縮疲労が進み、音程が不安定になったり、表面に摩耗跡ができたり、突然切れることもある。1弦は細いため切断リスクが高く、3弦は音程感が鈍く感じられることがある。つまり、低音弦は「音色から先に寿命が来やすく」、高音弦は「機能面から寿命が来やすい」と言えるかもしれない。実践的には、低音弦だけ先に交換し、高音弦はもう少し使う人も多いらしい。たとえば月に一度低音弦を替え、2か月ごとに全交換という方法は合理的である。毎日3時間以上弾くなら、この部分交換の考え方はかなり有効だろう。最近感じるのは、弦交換とはメンテナンス以上に、自分の耳を育てる行為だということである。古びた音に慣れすぎず、新しい音に驚きすぎず、その間の微細な変化を聴き取ること。それは演奏技術とは別の、音楽家としての感受性の訓練なのだと思う。フローニンゲン:2026/4/19(日)11:07
18534. 新たな弦を使うことの意義
昨日、古い弦のまま練習を続けることについて考えた。弦は切れていなければ使えるし、実際そのまま弾き続ける人も多い。すぐに問題が起こるわけでもない。しかし、毎日3時間以上楽器に向き合う生活をしていると、古い弦が静かに練習の質を下げていくことに気づかされる。量はこなせても、学びの密度が薄くなるのである。もっとも大きいのは、音の鈍りである。新品の弦には、音が立ち上がる瞬間の鮮やかさ、艶、倍音のきらめき、そして余韻の伸びがある。ところが古い弦は輪郭がぼやけ、どこか霞んだ声になる。こちらは丁寧に弾いているつもりでも、右手の角度やタッチによる差異が聴き取りにくい。まるで曇った鏡を見ながら姿勢を整えようとしているような感覚である。努力していても、フィードバックが不鮮明なのである。さらに、音程の問題も見逃せない。摩耗した高音弦や劣化した低音弦は、微妙にピッチが揺れやすい。耳がその揺れに慣れてしまうと、自分の中の基準音まで曖昧になる。和音、スラー、ハーモニクス、ポジション移動など、精密さを要する練習ではこの差は小さくない。耳を鍛えるはずの時間が、知らぬ間に耳を鈍らせる時間にもなりうる。手の感覚にも影響は及ぶ。低音弦の巻線が摩耗するとざらつき、左手の移動に引っかかりが生まれる。右手も反応の鈍い弦を鳴らそうとして、必要以上に力む癖がつきやすい。本来なら軽いタッチで鳴るはずの音を、押し込むように出そうとしてしまう。これは奏法の洗練にとって遠回りである。もっとも、古い弦にも役割はある。フォーム確認、暗譜、リズム練習、読譜、左手の独立運動など、反復が中心の練習なら十分に使える。すべてを新品で行う必要はない。ただし、本番準備、録音、音色研究、表現の探究では新しい弦の力は圧倒的である。結局、弦交換とは贅沢ではなく、学習環境への投資なのだと思う。毎日長く弾く者ほど、その価値は大きい。楽器が素直に応えてくれる状態を保てば、同じ1時間でも吸収率は変わる。今日の練習時間を増やすことも大切だが、今日の一本の弦を見直すこともまた、上達への近道なのかもしれない。フローニンゲン:2026/4/19(日)12:40
18535. 適正張力
今回の弦交換は、実に多くのことを教えてくれた。最初に交換した弦が途中で切れてしまった時には、正直かなり焦った。自分のやり方が間違っていたのではないか、楽器に無理をさせてしまったのではないかと、不安が一気に押し寄せた。だが、その出来事があったからこそ、次からは慎重になった。ペグを回す手つきも、音を聴く耳も、どこか恐る恐るになり、張力を上げることそのものに身構えるようになっていた。その慎重さ自体は悪いことではなかったのだろう。しかし今回は、その慎重さが別のかたちで現れた。弦を切ることを避けたい気持ちが強く働き、結果として全ての弦を一オクターブ下で合わせていたのである。音名だけを頼りにすると、EはE、AはAであるから、一見すると正しいように見える。だが実際に触れてみると、どうにも柔らかすぎる。特に低音弦は頼りなく、押さえた時の張りも曖昧で、音もどこか眠ったようであった。頭では合っているはずなのに、身体は違うと言っていた。この感覚は興味深い。知識や表示だけでは見抜けないことを、指先や耳は知っている。人は理屈で理解しているつもりでも、身体の方が先に真実へ触れていることがある。今回の違和感もまさにそれであった。チューナーの数字より、指先の戸惑いの方が正しかったのである。そして一本ずつ本来の高さへ戻していった。E1がE2へ、A1がA2へと上がるたび、弦の表情が変わっていくのがわかった。緩んだ糸のようだったものが、少しずつ芯を持ち始める。張力が宿り、振動に意志が生まれ、音に輪郭が立ち上がってくる。全てを整え終えて最初に鳴らした和音には、確かな生命感があった。まるで眠っていたギターが目を覚まし、深く息を吸い込んだようであった。「ギターに命が宿った」と感じたのは大げさではない。木材と弦の組み合わせにすぎないはずのものが、適切な緊張と均衡を得た瞬間、声を持ち始める。人間もまた同じなのかもしれない。緩みすぎても張り詰めすぎても、本来の響きは出ない。恐れによって縮こまりすぎれば、音は眠る。無謀に力みすぎれば、弦は切れる。そのあいだの、しなやかな適正張力のところに、生きた声が現れる。今回の弦交換は、単なるメンテナンスではなかった。失敗、慎重さ、違和感、修正、そして再生まで含めた一つの学びであった。これから何かがうまく鳴らない時、ただ外側の表示を信じるのではなく、自分の内側の感覚にも耳を澄ませたい。そこにこそ、本当の調律の手がかりがあるのだと思う。フローニンゲン:2026/4/19(日)12:48
Today’s Letter
Our civilization and the human species will deteriorate and disappear someday. Yet, we are constantly creating and sharing a collective dream through imagination, whether it is negative or positive. I’d like to contribute to making that shared dream peaceful and beautiful. Groningen, 4/19/2026

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