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【フローニンゲンからの便り】18504-18508:2026年4月14日(火)

  • 2 日前
  • 読了時間: 13分


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タイトル一覧

18504

デイヴィッド・コルブの学習理論から見るクラシックギターの練習

18505

今朝方の夢

18506

今朝方の夢の振り返り

18507

「映画で学ぶ成人発達理論」という書籍の構想

18508

音楽的実践としての英語の発話の楽しみ

18504. デイヴィッド・コルブの学習理論から見るクラシックギターの練習   

       

4月を迎えてしばらく経ち、サマータイム後は順調に日照時間が増えている。しかし気温の上昇はまだ限定的で、今の気温は4度である。今日の日中の最高気温は14度に到達するため、それなりの暖かさが期待できるだろうか。小鳥たちの鳴き声が美しく響き渡る季節になってきたことは嬉しい。


クラシックギターの練習をより効果的にするために、デイヴィッド・コルブの学習理論を重ねてみると、単なる反復練習とは異なる構造が見えてくる。コルブの理論は「具体的経験」「省察的観察」「抽象的概念化」「能動的実験」という循環によって学習が深化することを示しているが、この循環はギターの上達プロセスに極めて適合的であるように思われる。まず、日々の演奏そのものが「具体的経験」にあたる。サグレラスや楽曲を実際に弾き、音を出し、指を動かす。この段階で重要なのは、ただ回数をこなすことではなく、どのような音が出ているか、どのような身体感覚が生じているかを丁寧に感じ取ることであろう。例えば同じフレーズでも、右手の角度や左手の圧力によって音色が微妙に変わる。その差異を経験として蓄積することが、次の段階への素材となる。次に、「省察的観察」が求められる。練習後、あるいは演奏の合間に、自分の音や動きを振り返るのである。なぜ特定の音が濁ったのか、なぜあるフレーズは滑らかに弾けたのかを内省する。このとき録音を活用することも有効である。主観的な感覚だけでなく、客観的に音を聴き直すことで、自分の演奏の癖や課題がより明確になる。この省察を怠ると、経験はただの反復にとどまり、学習として統合されない可能性がある。さらに重要なのが「抽象的概念化」である。ここでは、個々の経験や省察から一般化された原理を導き出す。例えば、「良い音は弦をボディ方向に押し込む動きから生まれる」「左手の親指の位置が全体の可動性を規定する」といった、演奏に関する原則を自分なりに言語化する。この段階において、教則本や指導者の助言を参照することも意味を持つが、最終的には自分の身体感覚と結びついた理解であることが重要である。ここで得られた概念は、次の実践を導く指針となる。そして最後に「能動的実験」である。抽象化された原理を、次の練習において意図的に試してみるのである。例えば右手のタッチを変えてみる、テンポを落として運指を再構築する、あるいは特定の音色を目標として設定する。この段階では、失敗はむしろ不可欠な要素となる。試行錯誤を通じて、概念が再び具体的経験へと接続され、学習のサイクルが一巡する。この循環を意識的に回すことで、練習は単なる量の積み重ねから質的変容へと移行するのである。とりわけ重要なのは、省察と概念化の段階を飛ばさないことであろう。多くの場合、演奏者は「弾くこと」に偏りがちであり、振り返りや言語化が不足する。しかし、まさにその部分こそが経験をスキルへと昇華させる鍵となる。さらに言えば、このプロセスを繰り返すことで、演奏に関する知識は徐々に身体知へと変換されていく。最初は意識的に調整していた動きが、やがて無意識のレベルで再現可能となる。この状態に至ったとき、初めて演奏者は音楽的表現に集中できる自由を手にするのだろう。結局のところ、効果的な練習とは、単に長時間弾くことではなく、この学習サイクルをどれだけ精緻に回せるかにかかっているように思われる。経験し、振り返り、意味づけ、再び試す。この往復運動の中で、クラシックギターの技術と音楽性は、確実に深まっていくだろう。フローニンゲン:2026/4/14(火)07:14


18505. 今朝方の夢

              

今朝方は夢の中で、母校の大学入試当日を迎え、大学時代の一学年上のサークルの先輩二人と大学に向かっていた。私たちは高速列車に乗っていたが、それが思わぬ遅延に巻き込まれ、入試一科目目の国語の時間に間に合いそうになかった。水底で30分ほど遅れて到着し、試験時間の半分の時間で問題を解かないといけないようだった。流石にそれはものすごいハンデのように感じたが、半分の時間で解ける問題をしっかり解いていけば、他の科目で挽回は十分に可能だと思い、心は幾分穏やかになった。大学に到着すると、入試を受けるはずだった状況が変化しており、母校の象徴である兼松講堂に向かった。講堂では何か学術研究の発表が行われており、メインルームは暗くされ、発表者に光が当たるようになっていた。私は部屋の外からそれを確認し、部屋の中に入ることはせず、外で小中高時代のある友人(YU)と一緒に隠れん坊のような遊びをしていた。私は講堂の廊下の窪みに身を潜め、彼が通り過ぎていくのを見て嬉しくなった。どうやら自分の姿はバレていないようだったのだ。気がつくと、実際に通っていた中学校の体育館にいて、全校集会の最中にいた。集会の最中に突然自分は深い睡魔に襲われた。それは抗い難いほどに深い眠気で、その場に倒れ込んで眠りに入ってしまった。それを見た近くにいた友人(TK)は心配して自分に声を掛けてくれたが、彼の声は耳に届いているものの、反応をするのが難しく、深い眠りの世界に入っていった。そうした状況の中、若い英語の先生も駆けつけてくれ、自分に話しかけてくれた。その時に先生は、先日のテストで自分が学年二位だったことを話して励ましてくれたが、実際には自分は一位だったので、心の中でツッコミを入れた。するとかろうじてそれが身体反応にも現れ、先生や周りの友人たちはそのツッコミに笑った。そこからは完全に意識がなくなるほどの熟睡状態に入っていった。フローニンゲン:2026/4/14(火)07:26


18506. 今朝方の夢の振り返り

                                      

今朝方の夢は、自分の人生において「評価される側」から「意味を編み直す側」へと重心が移りつつあることを象徴しているのかもしれない。冒頭の大学入試は、能力を測られ、序列化され、時間内に成果を出すことを求められる世界の凝縮であろう。しかも母校の入試当日という設定は、単なる試験ではなく、自分の原点、自分を形づくった制度的な価値観そのものとの再会を意味しているように見える。そこへ向かう高速列車の遅延は、本来は一直線に進むはずだった人生の計画が、外的事情によってずらされる感覚の表れかもしれない。にもかかわらず、半分の時間でも解ける問題を確実に解き、他科目で挽回できると心を整えていた点は印象的である。ここには、自分がすでに「理想条件で勝つこと」よりも、「不利な条件でも全体を見て立て直すこと」を知っている成熟が表れているのであろう。しかし夢は、試験会場へ入るはずの流れを途中で反転させる。兼松講堂では学術発表が行われ、暗い会場の中で発表者だけが照らされている。これは、若い頃に通過しなければならないと思っていた試験の場が、今では知を生み出し、発信する場へと変質していることを示すのかもしれない。自分はもはや受験生として中に入るのではなく、外からそれを確認する位置にいる。これは、評価のシステムの内部に呑み込まれる存在ではなく、そのシステムを外部から眺めうる存在になりつつあることの象徴であろう。その直後にYUと隠れん坊をしている場面は、さらに深い意味を帯びているように思われる。研究発表という公的で明るい知の舞台のすぐ外で、自分は「見つからない喜び」を味わっている。これは、自分の本質が公的評価の光の下に完全に回収されることを、どこかで拒んでいる心の動きかもしれない。見つからないことは孤立ではなく、守られた内面の自由であり、自分だけの核を保持するための遊びなのであろう。さらに場面は中学校の体育館へと移動する。大学入試や学会発表のような高度な知的空間から、全校集会という集団規律の場へ戻る流れは、自分の深層が発達のより古い層へ降りていくことを示しているのかもしれない。そこで抗い難い睡魔に襲われるのは、社会的整列や集団的同調の場において、もはや旧来の自己が意識を保てなくなっている徴候であろう。倒れ込むように眠ることは敗北ではなく、古い適応様式の停止であり、ひとつの心理的な冬眠のようにも見える。TKや英語教師が声をかけるのに反応できないのは、周囲の期待や励ましが届いてはいても、いまの変容は対人的呼びかけだけでは引き戻せない深さで進んでいるからかもしれない。英語の先生が「学年二位」と言い、自分が心の中で「一位である」と訂正している場面は、とても象徴的である。他者は自分の価値をだいたい理解していても、決して正確には捉えきれないのであろう。そして自分は、外からの称賛そのものより、「ほんとうは何者であるか」を内側で知っている。そのツッコミに周囲が笑うのは、完全な自己主張ではなく、ユーモアを伴った自己確認ができていることを示しているのかもしれない。その直後に完全な熟睡へ入るのは、競争、評価、序列、承認といった世界をいったん閉じ、より深い自己の層へ降りていく最終段階であろう。この夢が人生において示す意味は、自分がこれから、速さや順位で自分を証明する人生よりも、遅延や脱線さえ素材にしながら、自分だけの知と深さへ向かう人生へ移行していくということであるのかもしれない。外の光に立つ者になる可能性を持ちながらも、その前にまず、自分の内なる暗がりに静かに降りていく必要がある、という呼びかけなのであろう。フローニンゲン:2026/4/14(火)08:22


18507. 「映画で学ぶ成人発達理論」という書籍の構想

       

一昨日にふと、「映画で学ぶ成人発達理論」という書籍をいつか出してみたいという考えが芽生えた。この構想は、抽象的になりがちな発達理論を具体的な人間の物語へと接続する点で、きわめて有効な枠組みになりうるように思われる。成人発達理論は本来、主体の意味づけ構造や認識の枠組みの変容を扱うが、それは日常的な経験の中では捉えにくい。しかし映画という媒体は、葛藤、選択、関係性、崩壊と再構成といったプロセスを、時間の流れの中で可視化するため、発達段階や変容の力学を直感的に理解する手がかりとなる可能性が高い。構成としては、理論の説明から入るのではなく、むしろ映画体験から理論へと遡る順序が望ましいであろう。各章は一つの映画を軸に据え、その物語を丁寧に読み解きながら、登場人物の意味づけの仕方や世界の捉え方がどのように変化していくのかを分析し、そこに発達理論の枠組みを重ねていく形式が適していると思われる。冒頭には導入章として、成人発達理論の基本的な視点、たとえば主体‐客体関係や段階的発達の考え方を簡潔に提示し、その後は各映画ごとに独立した章を配置する。終章では、複数の映画を横断しながら、発達の共通パターンや現代社会における意味を総括する構成が考えられる。取り上げる映画としては、各発達段階の特徴が象徴的に表れている作品が望ましいだろう。例えば、外的な評価や規範に強く依存する段階を描く作品としては、“The Devil Wears Prada”が適しているように思われる。この作品では、主人公が周囲の期待に適応しながら自己を形成していく過程が描かれており、他者基準的な意味づけ構造を理解する格好の素材となるであろう。より自己主導的な段階への移行を示す作品としては、 “Good Will Hunting”が挙げられる。主人公が過去のトラウマや防衛を乗り越え、自らの可能性を引き受けていくプロセスは、自己の内的基準に基づいて選択する能力の形成を象徴しているように見える。さらに、複数の価値観や視点を統合し、より複雑な意味づけを行う段階を扱うには、“Arrival”のような作品が有効であろう。この映画は時間や言語の構造そのものを問い直し、人間の認識枠組みがどのように再編成されうるかを示唆しているため、後期の発達段階の理解に資する可能性がある。また、アイデンティティの崩壊と再構築というテーマにおいては、“Black Swan”のような作品も重要である。自己の理想像と現実の乖離が極限まで引き裂かれる中で、どのように自己が変容するのかを考察することができる。このように各章で映画を媒介として理論を展開することで、読者は単に概念を理解するのではなく、具体的な人間の姿を通じて発達のダイナミクスを体感的に把握できるようになるであろう。また、映画は多義的な解釈を許すため、一つの作品を異なる発達段階から読み直すといった応用的な分析も可能になる。この点は、発達を固定的な段階としてではなく、文脈依存的かつ動的なプロセスとして理解するうえで重要である。総じて、この書籍は理論と物語の往復運動を通じて、成人発達を「生きられるもの」として提示する試みとなりうる。読者は映画を観るという身近な体験を入口にしながら、自らの発達や他者理解に対する視野を拡張していくことが期待されるのである。フローニンゲン:2026/4/14(火)09:48


18508. 音楽的実践としての英語の発話の楽しみ 

         

昨日、英語を発話しているときにふと気づいたのは、英語という言語の構造の「置いていく感覚」である。主語、動詞、目的語という骨格がすでに決まっていて、その枠の中に単語を順番に配置していく。このとき、文を「作る」というよりも、あらかじめ用意されたリズムの上に音を乗せていくような感覚がある。まるでドラムのパターンに従ってスティックを落としていくように、一定の順序に従って言葉が配置されていくのである。この感覚をさらに観察してみると、英語の発話には時間的な制約が常に伴っていることに気づく。次の語をどのタイミングで出すか、どこで区切るか、そのすべてがリズムとして身体に現れる。つまり英語を話すという行為は、単なる意味の伝達ではなく、「時間の流れの中で構造を実現する運動」なのかもしれない。そう考えると、ドラムとの類似性はかなり本質的であるように思われる。ドラムもまた、決められたビートの中で音を配置する行為であり、どのタイミングで叩くかによって全体の意味やグルーヴが変わる。興味深いのは、英語においても「文型」というビートが崩れると、急に理解が難しくなる点である。これはドラムでリズムが崩れたときに、演奏全体が不安定になるのと似ている。逆に言えば、文型というリズムさえ保たれていれば、多少単語選択が不完全でも意味は伝わる。この点において、英語は非常にリズム依存的な言語であると言えるのではないか。そしてこの感覚は、クラシックギターの演奏にもどこかでつながっているように感じる。ギターはドラムのように明確なビートを刻む楽器ではないが、右手のアルペジオや左手のポジション移動には、やはり時間構造がある。特に良い音を出そうとするとき、単に正しい音を押さえるだけでは足りず、「どのタイミングでどの方向に力を加えるか」という運動の質が重要になる。これは英語の発話において、単語を知っているだけでは不十分で、適切な順序とタイミングで配置する必要があることと対応しているように思える。さらに言えば、クラシックギターにおけるフレージングは、英語の文のまとまりと似ているのかもしれない。一つ一つの音が単独で存在するのではなく、流れの中で意味を持つ。英語もまた、単語単体ではなく、文全体のリズムの中で意味が立ち上がる。このように考えると、言語と音楽は別の領域に属しながらも、「時間の中で構造を組み立てる」という共通の原理に支えられているように感じられる。こうした視点から見直すと、英語の学習も、ギターの練習も、単なる知識や技術の蓄積ではなく、むしろ身体の中にリズムを形成していくプロセスなのだと思えてくる。どれだけ多くの単語を知っていても、その配置のリズムが身体化されていなければ、流れるような発話にはならない。同様に、どれだけ楽譜を理解していても、時間の中で音を配置する感覚がなければ、音楽にはならない。英語を話すことが音楽的実践であるという感覚は、決して比喩にとどまらず、実際に身体の運動として経験されているのかもしれない。そうであるならば、英語を磨くことは、ある意味で新しい楽器を練習していることに近いのだろう。そう考えると、日々の発話練習もまた、静かな演奏の一形態として感じられてくるし、そこにある楽しさに気づくだろう。フローニンゲン:2026/4/14(火)12:47


Today’s Letter

I enjoy speaking English and experience it as a form of music. Creating sentences in English feels like composing music. Groningen, 4/14/2026

 
 
 

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